19. 手負いの獣

 その晩フィンルは、いや、もはやシャナカーンと名を変えた少年は熱を出した。
 無理もない。おとなびているとはいえ、十になるかならずやの少年にとって、自分が母国から見殺しにされたうえ、また女王たる母の命も奪われたという事実は心を押し潰しかねない衝撃であったはずだ。しかし、それを聞いてもかれの心は倒れなかった。即座にバルアンの奴隷となることを選択し、正式にオル教へ改宗して名もシャナカーンと改められた。過酷な状況はかれから少年期を奪いはしたが、生き残る力を与えたのだ。
 「勝利の炎」――バルアンみずから与えた名は、そういう意味を持つ。従軍してきた導師の前に立ち、澄んだ声で神に奉げる詞、アーキマを詠唱するシャナカーンを誰もが祝福した。利発な少年は周囲に愛される資質を備えており、奴隷となって命が保障されたことを喜ばしく思うものは少なくなかったのである。
 もとはユリ・スカナ王国より送られた人質であり、かの王国が裏切ったいま、すぐさま槍の穂先に掲げんがため首を刎ねられても当然だったものを……。事実、バルアンがシャナカーンを戦地へ連れ来たったのは、ことあらばすかさず見せしめにするためだと聞こえよがしに囁かれていたし、噂はシャナカーン本人の耳にも入っていた。しかし、奴隷、すなわち所有物であるということは余人が容易に手が出せぬことを意味する。もし奴隷にならなければ、裏切りの報いを受けさせようと先走る人間が現れてもおかしくなかっただろう。
 大多数の人間は主の行いを慈悲だと考えたが、バルアン特有の酔狂だろうと受け止めるものもわずかながらいた。どちらもバルアンの内心を言い当てたものとして間違ってはおらず、また正しくもない。カイという名の小姓を見知っていた人間はほとんどいないのだから。

 日も暮れ、気温が急激に下がりはじめたころ、シャナカーンの体調は誰が見ても分かるほどすぐれぬものになっていた。それでも弱音ひとつ吐こうとせず無理を続けたため、かれはこうして天幕の一室で高熱にあえいでいる。
 うなされるシャナカーンのかたわらに座し、額に濡れた布を載せてやっているのは意外にもバルアンそのひとだった。主人が奴隷の看病をするのもおかしな話だが、しかもバルアンはマヤライ・ヤガ、王たる身の上である。普通ならば考えられぬ振る舞いに、背後に控えた小姓はおろおろとその様子を見守っていた。
 しかしバルアン本人は小姓の困惑なぞいっこうに頓着していない。気づいていない節すらある。もともとシャナカーンを見舞ったのも暇だったから、いや正確には退屈だったからだ。戦闘がはじまってしまえば、王の仕事などほとんどない。だから、暇つぶしついでに熱でぬるまった布を替えてやるくらい、かれにとっては問題のないことだった。熱に苦しむ子どもの顔に既視感をおぼえたことも、また。
 かつて、まだバルアンが王位から遠い存在だと思われていたころ、つまり辺境の地ムザーソで気楽な左遷総督をやっていたころ、娘のイウナが熱を出したことがあった。たまたま、本当にたまたま後宮へ足を運ぶ気になっていたバルアンがイウナをやさしく見舞ったところ、ビアンは驚き、パージエは感激し、コルドは「あなたにも父性があったんですね」と皮肉を飛ばした。そうだ、確かあのときは、子どもが熱を出したら心配するものだろう、と返事をしたのだった。自分が後宮にいるときだけ、と父性というには憚られるほど条件は限定されていたが。
 父の見舞いを無邪気に喜んでいたイウナはもはや亡い。スゥランも、ジィルヤも、そしてアフレイムにもそのように触れることは金輪際ないだろう。感傷がひたひたと足下から這い寄ってくるのをバルアンは冷徹に理解した。なるほど、今のかれがそのように振舞うことなどない。しかしそれが、どれほどのことだというのだ?
 かつていまひとり、汗ばんだ額にバルアンの手を触れさせた少女がいた。生き延びるため、投獄され衰弱した体で嵐の砂漠を走った少女が。
 命を救ってやったにもかかわらず、その少女は手傷を負った獣が歯を剥くがごとく、周囲が顔を青くするのもお構いなしでバルアンに反発し続けた。もっとも、バルアンは少女の反抗をかなり面白がり、かえってつつきまわすほどだったのだが。
 しかし徐々に牙をおさめ、いつしか対等の地位にまで立っていた少女も、最後に最大の裏切りをなしてバルアンの前から消えた。こうしている今も、かつてかれが好んだそのまま、人の、獣としての本性を剥き出しにして生きているだろう。このうえなく忌々しいことに。
 記憶の地平で女の姿は海風に吹かれ、あるいは白き山頂でアーキマを唱えている。あれはまさしく神意だったのだ。なればこそ、去った神意は死ななければならない。

 予定通りルトヴィア帝国が併呑されれば、遠からずユリ・スカナ王国と交渉を行うことになろう。エティカヤに有利に進めるにはどうすればよいか思考を進める一方で、その際いかにすればユリ・スカナにいるカリエを殺すことができるか、バルアンは変わらず考えていた。そのためならば多少の不利益は飲むつもりですらいる。
 それは憎悪ではなかった。ましてや愛でも。あえて言うなれば……それは責務だろう。
 暗殺はすでに一度実行に移した。しかしカリエのそばにはエドかラクリゼ、もしかすると二人ともがいる。手練れのザカール人の刺客を放ってもかれらを打ち破ることは難しい。内心ではカリエを殺したがっていないレイザンも使えないだろう。ならば。
 ははうえ……。
 そのとき手の下からシャナカーンの声が聞こえた。夢うつつで母を呼ぶかれの顔を黒い眼で静かに見下ろし、しかしバルアンは踵を返した。
 「寝る」
 主の唐突な行動に慌てて従う小姓と共に、バルアンの姿は天幕から消えた。