2. フレグランス

 宮田はその日、ジムに足を踏み入れると、何やらちりちりしたものを感じて思わず首すじに手をやった。
 違和感。
 どうしたのだと首をかしげてみたが、ジムの中は特に変わったところなど見当たらない。スパーをしているリングの横で、まるで家宝の皿でも割られたかのような勢いで鴨川会長が怒鳴り声を張り上げているが、これはいつものことである(会長が、本当に皿を家宝にしているかどうかはともかく)。
 しかし明確には言い表せないものの、確かに微妙な違和感を伴った空気が、ジムの中に充満していた。
 試合が決まって、神経がいささか過敏になっているのかもしれない。自分に納得させて、心を突付く棘をやり過ごそうとしたのだが――

 あれか。

 宮田は唐突に違和感の正体に気づいた。いや、気づいてしまったというべきか。
 練習場の隅くたには、古びて座るどころか触った途端に壊れてしまいそうなベンチが押し込めてある。いつ壊れるのか、いつ底が抜けるのかと、ジム中の戦々恐々とした視線も意に介さず、今日もベンチは八木の指定席と化していた。
 八木という男は、特に人目を引くようなタイプではない。かといって存在感がない、というわけでもない。あえて評価を下すなら、可もなく不可もなくといったところか。しかし、今日に限って彼は注目を一身に集めていた。八木は延々と百面相を繰り広げているのである。しかもオーバーアクションつきで。
 はぁ、と背を丸め重い息をはいたかと思うと自分を抱きしめて身をよじり、突然ばたばた足踏みをはじめてそのままベンチに身を投げ出す。おかげでさっきからベンチは危険な音できしんでいる。そろそろ本当に壊れるのではなかろうか。
 練習中である以上凝視するわけにもいかず、さりとて無視を決め込むにはあまりにも異様なオーラをたれ流しているせいで、皆はちらちら視線を八木に向けてはまた逸らす、ということをくり返しているのだった。
 (関わらない方が良さそうだ)
 宮田は背を向けようとしたが、決断を下すのが少々遅すぎた。ジム中至るところから「お前がやれ」と言わんばかりの強い視線にさらされる。ある者は威圧感をこめて、またある者は弱りきった表情で宮田の顔色をうかがっていた。
 しばしの攻防の後、結局宮田は無言の圧力に折れた。放置すれば、気もそぞろな練習生たちに鴨川会長も堪忍袋の尾が切れるにちがいない。観念して恐怖百面相男に歩み寄ったが、声をかけるのに一瞬ためらいを覚える。
 ちょうどそのとき、八木は妙に青ざめた頬を押し包んでゆらゆらと揺れているところだった。手の中の小さな紙袋を凝視し、ますます揺れがひどくなる。「ぶほっ」というのは、おそらく笑いを堪えたのだろう。なんなんだいったい。
 「おい、八木」
 「あ。ああ、宮田さんおはようございます」
 八木はひとまず百面相をやめたものの、心ここにあらずといった面持ちである。心なしか潤んだ瞳は、他人には預かり知らぬどこか遠くを見つめており、顔全体が幸せそうに呆けていた。
 「ええとな…。何だ、それ?」
 病気なんじゃねえかこいつ、などと内心思いながらも、会話を繋げようと八木の持つ紙袋を指して尋ねてみた。シンプルな、どこかのメーカーだかブランドだかのマークが印刷された、ごく小さい紙袋である。あいにくとそういった知識には疎いため、宮田には紙袋の中身は推測できない。
 「いやあ、今朝ジムの郵便受けに入ってたんですよ。それで、その」
 八木は照れた笑みを見せる。改めて紙袋を見れば、なるほど確かに「八木晴彦さんへ」と書かれたカードが可愛らしくぶらさがっていた。
 ほう、と宮田は眉を開く。自慢できる話ではないが、八木は負け続けのボクサーである。連敗の数字をまたひとつ増やし、このところずっと落ちこんでいた。そこへ贈られたプレゼントなのだから、嬉しくないはずがない。
 「先週の試合観ました。がんばってくださいね…、ってほらこのカードに」
 「お前もなかなか隅に置けねえな。で、相手はどんな娘なんだ」
 「それが、名前も何も全然書いていないんですよ。どうしたらいいんでしょう、僕」
 途端、さっきまでの浮かれトンチキが嘘のようにしょげかえってしまう。八木にとって「ファンからのプレゼント」は、盆と正月が一度にやって来たようなもの。しかし肝心の差出人についてまったく分からないため、ないまぜになった嬉しさと困惑がさきほどの局地的怪奇現象を招いたようだ。
 「どうしたら、って…。そりゃ素直にもらっておけばいいじゃねえか」
 「そりゃ宮田さんはこういうのに慣れてるから、贈り主がわからなくても困らないかもしれませんけど」
 「相手の娘、お前のファンなんだろ?ならありがたくもらっとけばそれでいいんだよ。大事なのは気持ちだろうが」
 「そうなんでしょうか。でも僕のファンかぁ。はは、なんだか信じられないなあ…」
 「ところで、いったい何をもらったんだ?」
 「いや、実はまだ見てないんです」
 「あのなぁ。普通はまず中身を見るだろう?!」
 「なんだか怖くなっちゃって…。あ、宮田さんが開けてください!」
 「お前が開けろ」
 混乱のあまり、宮田に紙袋を押しつけようとした八木は頭を一発こづかれた。いまの本気だったでしょう、とこづかれた場所をさすっているが、頭を抱えたいのはこっちだと思う。
 「ええと…それでは、開けます」
 なにがそんなに怖いのか、八木はびくつきながら封を切る。そして慎重に取り出され、手の上に現われたのはメンズフレグランスのボトルがひとつ。


 「と、まあ、こんなことがあってね」
 スナック「シュガーレイ」のカウンターで、八木がグラスをちびちび傾けつつ語ったのはそのような内容である。ママは、八木さんもやるじゃないの、とにこやかにコメントした。
 思い出話をするよう、水を向けた発端はなんだったろう。そういえば八木がひとりで「シュガーレイ」へ来たのはひさしぶりのことだった。姿を見せるときといったらたいてい鴨川ジムの祝勝会で、そのときは賑やかな面々にまぎれてちんまりとボックス席におさまっている。
 「八木さんのファン第一号、というわけね。それで、その後ファンの女の子はどうなったの?」
 「うーん、それがね。結局贈り主がだれかも分からないままだったんだ。お礼くらいは言いたかったんだけどなぁ…。いまでもだれかと間違われたんじゃないか、なんて思ったりするよ」
 「あら、きっと八木さん宛てよ」
 「はは。でも知ってのとおり現役のころはとにかく負けっぱなしだったからね。せっかく贈ってくれたひとには悪いけど、もちろん香水なんて僕には似合わないし」
 それに、女の子だなんていってるけど、もしかしたら本当は男だったかもしれないしねぇ。なにしろ名前も書いてなかったから。八木は冗談めかしてつけくわえた。
 「あら、中には自分の名前を書き忘れるような、おっちょこっちょいの女の子だっているかもしれないわよ?」
 澄ました顔で言うと、きょとんとした八木の表情を見て、ママはくすくすと笑ったのだった。