茫茫。
真っ黒い目の中でなにものかが吹き荒れている。
おお、それはまるで狂おしいまでに私をひきつけて離さない、あの懐かしい炎のようだ。
凶暴さでもってすべてを薙ぎ払い破壊しつくす嵐のようなのだ。
硬く黒く丸く削り取られた石の中に揺らめいている、あのかたちはまさしく猛り狂う熱だ。
もはや触れることなど叶わないあの炎に、とてもとてもよく似ている。
片方のコーナーにとっては長い長い、とてつもなく長い第一ラウンドがようやく終わった。いいようにパンチを受け、早くも全身を引きずるようにコーナーへ帰ってきた選手をセコンドたちが素早く取り囲む。
たかだか前座の試合だというのに、鮮やかすぎるほど一方的な試合展開は観客の熱気をメインイベント並みに膨れあがらせ、怒号と歓声が鼓膜を破らんばかりに耳へ突き刺さる。
無理もない。あれはまるでひとつの芸術だ。
青コーナーでロープから身を乗り出す浜は声に出さずつぶやいた。正直な感想を口にしなかったのは、浜が当の負けている選手についていたからである。しかし会場のこの様子では、少々のつぶやきなら聞こえなかったかもしれない。
殴りあいを芸術だと表現することに眉をひそめる向きもあろうが(特に浜の故国では)、これほどまでに人々を魅了する拳をいったい何と呼べば良いのか。
双方デビューしてそこそこ、四回戦ボーイの試合にもかかわらず、拳が振るわれるたび観客は轟くような歓声をあげた。いまやかれらの心と視線は、たったひとりのボクサーに縫いつけられている。技術や足の運び、その他いたるところに拙さがうかがえたが、かえって剥き出しにされた荒削りの素質を感じさせ、人の心を捉えて離さない。
(これほどの男がいるとは…)
世界は広いものだ。浜が他人事のように敵陣を観察している間にも、同僚たちは刻々と迫る第二ラウンド開始まで、なんとかボクサーの態勢を立て直させようと必死だ。
「カルロス!聞こえているか?!目は見えているか?!」
切羽詰まったトレーナーの声に、しかしカルロスはほとんど反応を見せない。荒い息に混じってごくごく小さなうめきを漏らすのみだ。浜が汗をぬぐうために手にしているタオルも、じっとりと嫌な重みで手にのしかかる。
もう駄目なのか、とあきらめの空気がコーナーに漂いかけた瞬間だった。呼びかける声が届いたのか、ゆらりと黒髪がわなないて頭が持ち上がる。
そのまなこに浜の背筋は震えあがった。
異様に黒い虹彩は、すぐ眼前のトレーナーを映してなどいなかった。はるか遠くの虚空を、その霞がかった意識とは裏腹に強い色彩で脳裏へと焼きつけている。焦点はリングの対角線上、約六メートル先に燦然と輝く赤コーナーで結ばれていた。その間にはなにも存在せず、と同時にどれほど望もうと永遠に手が届くまいと思わされる距離で隔たっているのだ。
だが、その眼は。
双眸は虚ろにして硬く、最奥でうずまき荒れ狂うものがいまにも外角を叩き壊さんとする様を感じさせた。
この男はまだ断ち切られてはおらん。
稲妻のような直感が浜の心に走った。レフェリーに向かってリタイヤを告げようとするトレーナーを慌てて引き止める。
「続けさせい」
「しかし!」
この様子では、とトレーナーはカルロスを見下ろした。一瞬だけ赤コーナーを見ていたカルロスの目は茫洋とキャンバスを映し、ただ弱々しくうつむくばかりである。だが浜は言い募った。
「こやつは、カルロスはまだ戦いを終えていないのだ。このままリングを降りることなど、誇りが許さないだろう」
「……」
数瞬、トレーナーの目はレフェリー、そして自分の選手との間で往復する。敗北の気配が濃厚でもリングに立ちたいという気持ちは分からないでもない。だがこれ以上は選手生命に関わるかもしれないというのに、いったいどちらを選べというのか!
しかし結局、選択がなされる前に第二ラウンドを告げるゴングが鳴ってしまった。トレーナーは軽く舌打ちし、脇に下がる。アドバイスなど、できることも時間もない。カルロス、叩きのめせ!と怒鳴りつけて送り出した。
あとに待つのは予定調和である。第二ラウンド開始後、わずか十数秒でカルロスはキャンバスに叩きつけられ、テンカウントを待つまでもなくタオル投入によって試合は終了した。
担架に載せられ、医務室へと運ばれるカルロスに付き添いながら浜は後方を振り仰いだ。スポットライトの白く輝く光、勝利を祝福する観客の声を堂々と浴びた対戦相手が立っている。
遠いな。その背を見ながら心に生じた言葉は、声になって出ていたらしい。同僚がその声に応える。
「ああ、まったくだよ。カルロスだって悪いボクサーじゃないんだ。なのに手が届かなかった。差がありすぎるんだよ…」
同僚の弱音はなおもこぼされていたが、浜はむっつりと黙りこみ、それ以上試合について口を開くことはなかった。
幸い、カルロスは骨折などはしておらず、また意識も明瞭でトレーナーたちは安堵の息をついた。よろめきながら夜道に姿を消していく背を見送るうち、浜はめまいがするほど強い既視感に襲われた。
きっとだれしもがあんな姿をさらしていたのだ。だれもかれもがそうに違いない。おのれとて例外ではなかったであろう…。数十年前の夏の夜、おそらく自分はあのようにして家路を辿っていたのだ。
一度の敗北など、リングに立てる間は何度でも挽回する機会がある。もはや望む場所に立つことができない部類に属する浜は、心にそう言い聞かせた。
だが浜は、とっくに奥底で眠ったと思っていたものが、深遠に沈んだのだと思っていたものがあの眼に呼び覚まされてふたたび息づき、脈々と鼓動を打ちはじめたのを認めざるを得なかった。
そう、あの眼には覚えがある。
かつての自分、かつての戦友、かつての好敵手。脳裏に鮮烈に焼き付けられた、あの虚ろにして号々と燃え盛る眼、そのものだった。