六度。
インターバルと名付けられた一分間を示す、分針のわずかな傾き。
一分という時間を、長いと取るか短いと取るかは人それぞれだろうが、客観的に現すだけならこれだけの角度で事足りる。
両コーナーに座す選手、セコンドらにとって、そのささやかな針の傾斜に積もる時の砂粒は、まさしく混じりけのない砂金にも等しかろう。
さてその一分間レフェリーは何をしているのかというと。
「沢村ぁ!汚ねぇやり口使いやがって!!」
「次はどうするつもりだ!」
「おとなしくぶちのめされろ!」
「どこ見てやがるレフェリー!とっとと反則負けにしろーッ!!」
『お客さまに申し上げます。リング上に物を投げ込まないでください。お客さまに……!』
野次と共に投げ込まれたゴミを、粛々と片付けていた。
ぽけん。空のペットボトルが後頭部に激突する。ちょっと痛い。
かれの名はレフェリー島川。日本ボクシングの聖地、ここ後楽園ホールで審判を務めている。余談だがレフェリーとは職務を指す言葉であって、断じて名前の一部分ではない。
閑話休題。
いくらボクシングがかしこまって観るものではないとはいえ、幕之内一歩の試合がこうまで荒れるのも珍しい。生真面目、几帳面で知られる幕之内の性格が観客にまで伝染したものか、彼の試合は「荒れない」というのが定説である。
あるのだが。
「ぶん殴ってくれよ幕之内ぃッ!」
「野郎、完全になめてやがるぞ!思い知らせろ!!」
「レフェリー目ぇついてるのか!」
「どう見ても反則じゃねぇか!」
飛び交う罵声、ついでにごみ。怒りにまかせ、観客はますますヒートアップしていく。
レフェリー島川は腕を組んだ姿勢を崩さず、無言で残り時間を計っていた。ルール上時計は身に付けられないが、経験が秒針の正確な進み具合をかれに教えてくれていた。
とにかく、もう少しの辛抱である。試合が開始すれば目前に集中せねばならないし、ひとまずごみの乱舞も治まる。
試合が始まれば。そう、始まれば。
カァン!
ゴングが打ち鳴らされた瞬間、ひときわ大きくなった歓声と野次に紛れこませるように、レフェリー島川はこっそり叫んだ。ただし口の中で。
「しかたないんだよ、ルールなんだから!」
一月一日の朝である。元旦である。お正月である。
つまり、めでたい日なのである。
にもかかわらず、彼女は新年早々からあまりめでたくない心もちであった。頭痛のタネは他でもない、たった一人の孫息子のことだ。昨日大掃除をしている間に、隙をつかれて出て行かれてしまった。
(年寄りの手伝いぐらいしたかてバチ当たらへんでぇ)
そう思ってはみても、いないものはしようがない。大晦日やし、さすがに晩には帰ってくるやろう…という予想は甘かった。起床してすぐに覗いた部屋に敷かれたときのままの布団が、主の不在を告げているばかりである。
ふすまを閉めて、どこ行っとんのやあのアホは、と小さくつぶやく。
評判のやんちゃ坊主から評判の悪たれへと成長した孫息子は、高校に入ってからこっち、ふらふらと出歩くことが日常茶飯事となりつつあった。無断外泊も今に始まったことではないが、正月にも帰ってこないとは何事か。
仏壇に手を合わせ、「お年玉」と書かれたポチ袋を供える。ヤイトすえたらなあかんやろな、と言いながら。
次の日の夕方、ようやく帰ってきた千堂は、渡されたポチ袋の中身が空っぽだったのに目をむいた。彼としては大いに抗議したいところだったが、曰く。「朝帰りできるほどええ大人やったら、もうこんなモンいらんやろ」
きっぱり言い切られて渋々不満をおさめたが、元々切り替えの早い性質である千堂のこと、数日もしない内にさっさと忘れてしまったのだった。
なので、彼名義の預金通帳に一万円が振り込まれていることなど知るよしもない。
ありがとうございました、と丁寧に礼をした頭を持ち上げたときには、既に少年の姿は店内から消えていた。彼とどこかで会ったように思えたので、もう一度顔を見たかったのにと少し思う。接客中にまじまじと相手の顔を見るわけにもいかず、ちらちらと横目でパンを選ぶところを眺めるしかなかったのだが、どうしても思い出せない。
「どこかで会った気がするんだけどな」
はっきり声に出して言ってみても、脳裏に浮かぶおぼろな像は、明確な形をとることができずにいる。
「久美ちゃん、そろそろ終わりにするから」
「あ、はい」
結局、その後の片付けの忙しさに取りまぎれて、少年の面影が記憶の底から浮き上がることはなかった。
「痛たたたたた…」
一歩はぎしぎし、と音がしそうにきしむ体をどうにかこうにかなだめすかしながら歩いていた。彼はボクサーで、しかも足を止めて打ち合う性格のせいで、試合のたびに満身創痍になるのはいつものことである。
そのうえ、このところ練習もオーバーワーク気味だと、木村にも注意されたばかりだった。
しかし一歩の体が今、がたぴしがたぴしとロボットみたく引きつれている原因は、試合でもましてや練習のためでもなかった。…となれば言うまでもなく三人組、主に理不尽大王のせいだった。
鷹村が新しく開発したというプロレス技の実験台に、めでたく選ばれたのである。いくら試合が終わって暇だとはいえ、他にやることがあるんじゃないんですか、くらいは言いたい一歩だった。恐ろしくて実際に口には出せないが。
おそらく鷹村本人も覚えていないだろう(かける度に名前が違っていた)、やたら名前の長い技のおかげでときどき筋肉が引きつる。いつものロードワークよりも足が止まる回数が多いのはそのためだ。
自分がからかわれやすい性格であることは重々承知していても、勘弁して欲しい事態になることが、ままある。
とはいうものの一歩の場合、不幸な目にあわされるのは平均して一日一回くらいなのだから、青木や木村に比べればマシなのかもしれない。
「筋違えちゃったかなあ」
ぶつくさ言っていると、後ろから涼やかなベルの音が聞こえ、そして追い越していった。
「あ」
(あの子だ)
おそらく学校帰りなのだろう。元気良く自転車をこいでいたのは、いつかの少女だった。タイミングがなかなか合わないのか、ここ数日は登下校の際にすれちがうこともパン屋でも姿を見かけることもなく、少しばかり残念に思っていたところだった。
(嬉しいなあ。今日はちょっとひどい目にあったけど、何だかこれだけでお釣りがでちゃうよお)
思わずにへら、と笑みがこぼれる。はたから見ても、立派に健全な青少年の姿だった。
そしてロードワークから戻った後、ふくらんだ鼻先を鷹村に見咎められ、再び技の実験台に供されたことはいうまでもない。
「幕之内さん、どうかしましたか?」
「へ?あ、いやぁ何でもないです。ハイ」
少し前まで、ちょっと食事に誘うのにも試合では考えられないほどの勇気が必要だったが、最近では硬さが取れてきた。それでも「きみが可愛くて見とれていたのさ」などとは言えず、もじもじ縮こまってしまう一歩である。
しかし一歩の場合、歯の根が浮くようなことを言えばかえって正気を疑われるであろう。
なにが恥ずかしいのか、「ゆゆ夕陽がきれいですねえ」と口ごもる一歩の隣を歩く久美は、もうちょっとこのままでもいいかな、と思う。
人が聞いたら笑うかもしれないけれど、本当はこうして隣を歩くだけでも幸せです。手のひらに乗るほどの、零してしまいそうに小さなものではありますが。
「ええぞーっ!一気にやってまえーっ!!」
「わはははははははははは」
「27番っ歌をうたいますっ」
「何や、ワシの酒が飲めんちうんか!」
「きゃあああっ助けてえぇぇぇぇーっ!!おーそーわーれーるー…」
みな、笑い・騒ぎ・飲み、合い間に絹を裂くよな悲鳴が轟きわたる。主は毛むくじゃらの筋肉男だったが。さして広くもない座敷はてんやわんやの大混乱に陥っていた。右を見れば裸踊り、左を見れば即席のど自慢。わけが分からない。ノった方が勝ち、という場においてはノリきれなかった者は否応なく敗者となるのだ。
要するに、千堂は酔っ払いの大集団に囲まれている。早く帰りたい。
「こらお前話聞いとんのんか」
参加せんと家でばあちゃんのメシ食べといた方が良かったんとちゃうか?今日ばかりはそういうわけにもいかへんのやけど。こっそりため息をついていると、目ざとく横の酔っ払いが絡んできた。
「はいはい、聞いとるがな」
「嘘こくな!」
嘘ですか。
「お前の嘘はようわかるんじゃ。だいたいやな、いーっつも人の言うことよう聞かんとからに。それでどんだけ…どんだけワシが苦労したと…」
泣き出した。
「あーもー分かっとる、分かっとるて」
「分かっとらんわ!」
今度は怒り出した。
助けを求めて辺りを見わたしたが、目が合った瞬間、素面は言うに及ばず酔っ払いですらそそくさと目をそらす。
…何やねんな。顔をしかめてふと気がついた。そういえば、宴会がはじまってから誰も柳岡に近寄らなかったような気がする。一人寂しく手酌をしているので、何となく付き合っているうちにこの事態だ。どうやら体よく押し付けられたらしいことを理解し、千堂は憮然となった。
もともと今晩は自分のデビュー戦の祝勝会ではなかったか。勝った喜びは無論胸の内にあり、熱はいまだ冷めてはいなかったが、どうしてかそれを燃やしつくす気にはなれずに騒ぐ面々とは一歩距離をおいていた。それが。
(せやのに何でこない酒癖悪いオッサンの相手せなアカンねんな)
いっそ一緒に酔っ払った方が良いのかもしれない。しかし哀しいかな、試合直後のボクサーに酒はご法度。絶好調に語りつづける柳岡を横目に、悪い大人にはならんとこ、と心密かに誓いを立てる千堂であった。