夢の話である。
その日一歩は夢の中で犬だった。大きくて真っ白な毛並みがもかもかとした人懐っこい、要するにかれの飼い犬であるワンポとなっていた。一歩は、ワンポは風吹く中を好きに駆け回り、餌をたらふく食べて日向ぼっこをしながらうとうとと眠った。くわえて大あくび。忙しい現代人が夢想する犬のイメージそのままの姿に。本人、もとい本犬のワンポが見たら自分はこれほどお気楽ではないと憤慨するかもしれなかったが。
さてそのとき、遠くから聞きなれた人物の声が耳に届いた。とたんにワンポの半ばとじていたつぶらな瞳がぱっちりと開き、大柄さに似合わない敏捷さで跳ね起きて一目散に駆け去っていく。そして。
うわあああああ。
早朝、一歩の声にならないうなり声が響いた。苦悶の表情でふとんにくるまりごろごろ転がる。だいたい夢というものはあやふやで、すぐに忘れてしまうようなものなのだ。しかしつい今しがたまで見ていた夢は、一歩の脳裏にくっきり焼きついていた。残念ながら。
夢の中でワンポになり、昼寝をしていたら久美の声が聞こえた。百歩譲ってそこまではいい。問題は、問題は…。
あらためて思い出しそうになって、一歩は慌てて記憶の蓋を閉じた。はからずも自らの願望をまざまざと見せつけられた気がしたのである。いくらワンポが久美に懐いているとはいえど。
いまのはなかったことにしよう。そうしよう。心ひそかに誓う。
…が、そんな日に限って久美は仕事が休みだったのである。
「こんにちは」
にこやかに訪ねてきた久美を、一歩はいくばくかの照れをおぼえながら出迎えた。まさかそこいらの中学生とはわけが違う、今朝の夢を妙に意識することなどないものの、それでも久美に会うときは気恥ずかしさを伴った喜びが心にあるのだった。
他愛もない言葉を交わしていると、耳ざとく久美の声に気づいたのか、ワンポも甲高い吠え声をあげて駆け寄ってくる。
「ワンポくんもこんにち…わあっ!」
飛びついたが、ワンポほど大きな図体を久美は受け止めきれず、尻餅をつく。当のワンポはといえば、まさか怪我などさせていないかと青くなった飼い主など一向に気にしない様子で、それはそれは嬉しそうに久美の顔をぺろぺろ舐めていた。久美もまた声をあげて笑いながら、じゃれつかせるままになっている。
気がすむまでひとしきりじゃれつき、やっとワンポは久美の上からどいた。それでもそばから離れようとしないワンポを、久美は久美で毛並みをかき回す勢いで撫でていた。
「あ、そうだ、幕之内さん」
「はい?」
呼ばれて、顔を向けた一歩の目にワンポがその大きな舌でこれでもかと久美の手のひらを舐めまわしているのが映った。見る間に一歩の顔に朱が差す。
「ぼぼっ、僕ちょっと走ってきます!行くぞワンポ!」
「え?幕之内さん?どうしたんですか?!」
突如猛然とダッシュを始めた一歩の背に久美の声が追いすがる。しかし振り向いてはいられなかった。
「うわあああああああ…」
その日、土手を奇怪な唸り声を上げて疾走する日本チャンプの姿を目撃した藤井記者は、即座に何も見なかったことにしたという。
この業界で、かつては自らもボクサーとしてリングに立っていたという人間は少なくない。
ボクシングにはやったものしか分からない、麻薬のような魅力があるという。あるいは魔法の世界 * だとも。プロであれアマチュアであれ、リングという場所は彼らにとって忘れがたく、また離れがたいということだろう。
と、自身はグローブをはめたことのない木田などは思う。それでもなお、かれのような人間でさえボクシングに魅入られているという意味ではボクサーと変わりない。木田がボクシングジムのマネージャーを職に選んだのは、幾つかの偶然と縁が木田の足をそちらの方角へ歩ませた結果なのだが、最終的に心を決めさせたのは、やはりボクシングに関わっていたい、という気持ちがそこにあったからだった。
「暑いなあ、どこも…」
足早に進めていた歩を止め、一息ついて汗をぬぐう。数日前まで滞在していたタイにくらべればまだましとはいえ、どこだろうと夏は暑いことに変わりはないのだろう。北極などでもなければ。
現在、木田は韓国にいる。宮田一郎という選手の試合を組むため、太陽が照りつき蒸し暑い中をこうして歩き回っているというわけだ。宮田一郎も、いまごろはトレーナーである父親とともに練習に余念のないことだろう。
木田にしろ宮田トレーナーにしろ、かれら三人が受けているプレッシャーは並々ならぬものであるのだが、なによりも宮田一郎本人こそが最も苦しい戦いを強いられている。減量が成長期を迎えた体にかける多大な負担、アウェイゆえに判定に持ち込むことは許されない状況。
だがそれらの障害を乗り越え、過日宮田一郎は見事な勝利をおさめてみせた。それも、国民的英雄の再来と称されるほどの相手に。
新人王こそ逃したとはいえ、天才ともてはやされた彼の実力からすれば、あのまま日本を主戦場にしていても問題はなかった。事実、宮田親子が鴨川ジムから移籍してきた際に諸手を挙げて喜んだオーナーたちは、チャンピオンの座を目標に大切に育てるつもりでいた。
ただその道を歩むほどには、宮田一郎は安穏としていられない青年だったのだ。あえて海外を渡り歩くことを選択し、さらなる高みをめざすその目には、張りつめて今にも切れそうな眼光が宿っている。その光はタイでの二つの試合を経て、一段と輝きを増した。勝利への飢餓感はもちろん、なにより自信がそうさせたのだろう。
ふと、昨日宮田一郎と交わした会話がよみがえる。
彼ほどのボクサーが、なぜ無理な減量を続けてまでフェザー級にとどまろうとするのか。階級を上げても、けっして見劣りはしないはずなのに。いや、むしろ今よりももっと存分に強さを発揮できるに違いない。
おぼろげな理由ならば木田も知っている。フェザー級に因縁のある選手がいる…と、そのくらいだが。ジムの誰かが噂していたのを小耳にはさみ、しかしそのころはちょうど海外行きの準備で忙しい時期だったため、詳しいことは知らないままに日々が過ぎてしまっていた。
曖昧なままだった、ごく小さな引っかかりが存在感を訴え出したのは、先日のジミー・シスファー戦からのことだ。
答えてもらえないかもしれない、という小さな心配はあっさり裏切られた。雑談の中にまぎれこませた質問に、かれは淡々とその理由と心の内に眠るものを語ってくれた。
素人同然の相手にスパーリングでKOされたことと、そのとき初めて味わった悔しさ。自分が勝手に押し付けた約束を、律儀にも守って決勝までたどり着いた相手のこと。
その相手がきっかけで、初めてボクシングを面白いと思うようになったこと。
ぽつりぽつりと、けれど言葉に表しがたい多彩な思いがこもった表情は、ひどく十八歳という本来の年相応のものだった。
リン、と不意に思考に割り込んできたベルの音に振り返れば、今まさに自転車が追い抜こうとしているところで、木田は慌てて道の端に飛びのいた。
よほど急いでいたのだろう。スピードを上げて遠ざかる自転車の姿に、まるでこちらを急き立てているような錯覚を覚えてしまう。そういえば、いま自分は先方を待たせている立場なのだった。
宮田の様子を思考の浅いところに沈ませながら、木田は再び真夏の街を歩き出していた。せめてかれの思いをかなえるために。
「おい、柳岡の奴知らんか」
「あれ、トレーナーのとこまだ来てませんでしたん?柳岡くんさっきまでそこで皆と喋ってましたで」
「やっぱり来とるんか。ワシに挨拶もようせんとからに、しゃあない奴っちゃのう、ホンマ」
「どうします?僕探して来ましょか」
「や、別にええわ。自分、それよりやらなあかんことぎょうさんあるやろ。そっちやっとけ」
それに、あいつの行くとこゆうたら限られとるしな。
仰向けに寝転がったコンクリートから見上げた空の色は果てのない青さで、雲ひとつ浮かんでいなかった。
とでも言えれば何やら感慨でもわくのだろうが、残念ながらここ大阪の空は、文学的表現に素直に沿ってくれるようなものではない。
青というよりも水色、水色というよりも漂白剤をこれでもかと箱ごと投げ入れたというか、薄く引き延ばしたお粥というか、そういう中途半端な色である。
「ワイに似合いの空やな…」
フッ、と自嘲めいた笑みを漏らす。
「何をイキがっとんじゃ」
「がっ」
「気色の悪いことぬかしとるんやないで。このクソ暑いのに屋上なんぞで寝とる暇あるんやったらさっさとワシに顔見せんかいこのボケ」
「がっ、顔踏むんは反則でずっ…」
おおすまん、と謝罪の心など欠片もこもっていない口調が上から降り、柳岡の顔面からトレーナーの足が離れた。
柳岡は痛みに顔をしかめ、手加減なしに踏まれた顔をさすりながら身を起こす。今まで熱せられた打ちっぱなしのコンクリートに転がっていたため、そこに押し付けられていた後頭部やら背中から、ぱらぱらと小さな破片がこぼれ落ちた。
白いTシャツからそれらを払い落とすと、柳岡はおもむろに正座してみせる。珍しいことだ。もし普段の彼を見知っている人間が知れば、たいがいの場合は卒倒するほど驚くだろう。
「決めましたわ」
「おう」
「ワイ、引退します」
「そうか」
「はい」
「もう、ええのんか」
「ええんです」
いいわけがない。なんだかんだ言いつつも、この男との付き合いはそれなりに長いのだ。そんなことは、顔を見なくてもわかる。
違ゃうやろ。そやないやろ。頑張れ頑張れてみんな思とった。応援嬉しい思たん初めてやて前言うとったやないか。最後まで粘ったらええんやてずっと立っとたんはお前やないか。
陳腐な台詞は一通り思いついたが、結局必要のないこと、無駄なことばかりで口に出さなかった。
(言うても世話ないゆうことぐらい、ワシもお前もよう分かっとるわな)
「今まで、今までほんまお世話になりましたっ」
頭をこすりつけて言う男に、お前やったらまだいけんねんで、という言葉は危うくのどの奥に呑み込んだ。