「髪、切ったりしないのか」
彼はそう言いながら、彼女の肩を流れる黒い河から一房をすくいとった。指に絡めて遊ばせる。柔らかな感触は彼の手にごく馴染んでいる。
少なくとも、彼は彼女が髪を切ったところを見たことはない。ほんの子供の頃からの、短くはない付き合いの間では。
「だって」と、美しい黒髪の持ち主が口にしたのは呆れを含んだ声。
「あなた長い方が好きでしょう」
言った勢いで、彼女はツンと背をのけぞらせた。
ただそれだけの動作なのだが、相手の手の内からの逃亡は成功する。
彼は残念に思った。だが、なおも追いかけるようなことはしない。その気になれば、いつでも触れられるからだろうか。そうではない。余裕を見せたかったのだ。
「どうして、そう思うんだ」
「お兄さんから聞いたわよ」
そんなことを言う彼女の表情は、とっておきの秘密を、小さな子供が打ち明けるかのようで。しかも、「他にも、色々と、ね」と付け足した。
大方、兄は酔いにまかせてべらべらと喋ったに違いない。
そのときの兄の顔を想像して、彼は(余計な事を)と口をへの字にするのだった。
「長いから良い、ということでもないんだけどな」
「そうなの?」
「そうなんだ」
絶対に、本当の理由は言えない。
初恋が君だったから、長い髪のひとばかり追いかけていたなんて。
ないしょおばけ、ないしょ話の中にいる。
いつもひそひそ声に澄ましているものだから、すっかりお耳が大きくなった。
しまいこまれたないしょ、探してばかりいるのでお目々もこんなに光るようになった。
よいないしょ、悪いないしょ。ないしょおばけみんな知ってる。
のろまな神様たち、おかげで困ってしまった。人間に秘密にしてること、ぜんぶばれているから。
はさみを作った神様たち、こっそり近づくと、ないしょおばけのお耳、ばちん!切ってしまった。
ないしょおばけのお耳、すると蝶々になって飛んでった。今は壁に止まってひそひそ声、聞いてる。
しかし泣きながら逃げてったないしょおばけ、障子の穴からのぞくだけで出てこれない。