ハロウィンパーティー

おかあさんのおもいで

おかあさん、おかあさん。わたしのきれいなおかあさん。



 アタシの母親はね、そりゃあ別嬪でしたよ。小股の切れ上がったいい女って言うだろう。あれが服を着て歩いてるような女だったねぇ。
 背筋をすぅっと伸ばして、裾をからげてタッタと道を行く。それだけで町じゅうの男どもが鼻の下を伸ばしたもンさ。
 また目が良かった。こう……ちょっと白目が強くてね。あれだよ、あれ。三白眼。けどただ目つきが悪いってわけじゃあない。黙ってじぃっと見つめられるとね、まるで責められているみたいな、おかしな気分になっちまう。
 おかげで母親の前では、悪いことなんてさっぱりできやしない。つまみ食いなんかしても、ただ見られてるだけで――ハイお母さん、僕がやりました――とこっちから言わずにいられなくなっちまうのサ。だからその代わり、今は悪いことをいーっぱいしてるんだ。これ、カミサンには内緒だよ。ばれるとうるさいからね。
 子供にしてみれば自慢の母親だ。あんたンちのお母さん、いつ見てもきれいだねえ、そう言われて御覧なさいよ。低い鼻も高くなるってもんだ。
 母親が化粧しているときは、いつも横に座り込んでね。白粉はたいて、眉引いて、紅差して。あっという間に顔つきまで変わってくるんだもの。何が何やら分からない内に、はいできあがり、お待ちどうさんってなわけさ。
 はあ、化粧する前と後、どっちが綺麗だったってかい。そりゃあんた、野暮ってなもんよ。



 僕あ、お袋の化粧している姿だけは嫌だったな。お袋は、化粧すると一体何がどうなってるか分からないくらい見事に化けたものだったけれど、それもあるかもしれない。子供には別人に見える。怖いんだよ。
 それに何が嫌って、独特のひどい匂いがするじゃないか。あの匂いは今でも我慢できない。女性は化粧が身だしなみなんていうけどね、あれは絶対に間違いだ。
 車で通勤しているのもそのせいさ。わざわざ満員電車に揺られて、化粧品の匂いがむんむんしている中に三十分以上もいるなんて、ああ考えたくもないよ。思い出しただけでも胸がむかむかする。
 でも一番の理由は別にあるんだ。まだ僕が子どもの頃の話だ。確かあれは、どこからか電話がかかってきたときだったかな。お袋は、話しているうちに段々様子がおかしくなっていった。
 子供だった僕が怯えていると、振り向いてこう言った。――ママこれからちょっとお出かけしてくるから、いい子で留守番していてね――それからいつもの通り化粧をして出かける支度をしたんだけど……。
 僕ははっきりと見た。ああ間違いなく見たとも。耳まで裂けた口で笑っていたお袋の顔を。



 そうなのよねえ。さぞかし自慢でしょうって言われるわよ。みんな理想の母親だって誉めるしね。
 授業参観のときなんて、ほら、子供って誰でも自分の母親が気になるじゃない。ちらちら後ろを振り返って先生に怒られたり。で、せいぜいおしゃれした自分の母親を見て安心するわけね。ああ良かった、あたしのお母さんちゃんと来てるって。
 それはそれとして、今度は何が気になると思う?よその母親と比べちゃうのよ。若くて、きれいで、優しそうで……。はっきりした基準なんかないわ。ただ他よりも上か下か。子供って、ほんと勝手。まあ、別にあんたがそうだとは言わないでおいてあげる。
 授業が終わったらみんなが来て、言ったわ。――ちゃんのお母さん、すごくきれい。いいなあ!――
 実の子供から見ても、どの家の母親よりきれいだったわね。若作りも完璧だったし。最初はあたしも自慢だった。けど、だんだんそう言われるのが嫌になっちゃった。だから授業参観とか、運動会とか、親が学校に来るような行事も嫌いになったのよ(そうよ、だからあんたに行って欲しいってさっきから言ってるじゃないの)。
 感謝はしてるわよ、そりゃね。相手に逃げられてからあたしを一人で育てて、仕事が忙しいのに行事はきちんと参加して、お弁当も作ってくれて。あたし同じ事やれって言われても絶対できないわ。
 でも、いくら母親がいないからって、格好まで母親になりきる必要がどこにあるってのよ?!しかも化粧までしてよ?信じられる?


おかあさん、おかあさん。わたしのきれいなおかあさん。

ある夜

 男が酒場のドアにもたれかかるようにしてドアを開いたとき、ちょうどこの辺り一帯は人が一番押し寄せる時間だった。週末で、そして試合が終わったばかり。つまりポケットを膨らませたろくでなしと、賭けに負けて頭に血を上らせたうすのろで溢れかえっていた。
 その店も空席が見当たらないほど込み合っており、店員は注文をさばくのと、馬鹿の一つ覚えのようにのさばる酔っ払いを蹴散らすので手一杯だった。
 おかげで、男が戸をくぐるのに気付いた者は誰一人おらず、ちょうどカウンターに座っていた俺が、そいつに肩を掴まれる羽目になったってわけだ。

 「よよよ、よぉおう、兄弟。随分と景気良さそうじゃねえか、ぁあ」
 俺はそのとき、奴を相手になんかせず、手を振り払うべきだったのだ。だが俺は間抜けにも、顔をそいつの方へ向けちまっていた。
 臭かった。とてつもなく臭ったのだ。余りにも胸糞悪い臭いで、ただでさえ負けこんでむかっ腹が立っていた俺は、これは一発思い知らせてやるべきだと振り返った。
 だがそこには、臭いよりも余程すごい格好のじじいがいた。浮浪者なんぞ珍しくもないが、ただそこらのドブに転がってるだけじゃ、あそこまですげえのはできあがらないだろう。工場から出るヘドロの中に、たっぷり百年は漬からねえとああはなるまい。
 今思えば、なぜあんなひでえ臭いの主が入ってきたのに誰も気付かなかったのか不思議だが、ともかく奴はこっちをニタニタ見つめていた。
 俺はというと、振り上げた拳を口元へ持っていき(臭さに吐き気がしたのだ)、もう片方の手で追い払う仕草をするので精一杯だった。全く、どうしてボロ負けした上に臭ぇじいさんに付きまとわれなきゃならねんだ?
 「お、お、おめえよう。今日のし、試合行ってきたんだろう?だったら俺におごってくれよう」
 そのときおれは何と言っただろう。うるせえ、ぶっ飛ばされたくなけりゃ、さっさと行っちまえ。だいたいこんなところか。しかし奴は隣りの椅子にずりあがって登ると、相変わらずえへらえへらと気色の悪い笑いをしながら、兄弟、兄弟と繰り返していた。
 壁際にいた俺は、おかげで席から立てなくなり、更に近づいたひでえ臭いでぶっ倒れそうになっていた。
 「ははぁ、もしかしておめえ、負けたのか。負けたんだなあ。馬鹿だなあ、おめえ。青コーナーに賭けたんだろう。な、そうだろう」
 図星だった。俺が今月分の稼ぎをつぎ込んだ、クソッタレボクサーはわずか1Rで劇的なKOで負けやがっていたのだ。図星を付かれて俺は更にはらわたが煮えくり返り、拳を握りしめた。
 「馬鹿だなあ。赤コーナーだよ。リカルドに賭けときゃ良かったんだよ。あ、あ、あいつは俺が一から育てたんだ。初めて会ったときはなあ、ひょろひょろでなあ。おめえでも勝てるぐらいだったぞ。だけどなあ、大化けしたなあ。俺が育てたからなあ」
 そいつは確かにクソッタレをぶっ倒したボクサーの名前だったが、与太話に付き合うつもりはなかった。次の出来事が、あと一秒遅れていたら、俺が奴を殴り倒していただろう。
 「てめえ、さっきから聞いてりゃ馬鹿だ馬鹿だとぬかしやがって!」
 そこには切れたチンピラが数人いた。多分、俺と同じように青コーナーに賭けた野郎だったのだろう。奴はというと、引き倒されて床に無様に転がっている。は、は、は、と歯の隙間から息の抜けるような笑い声を立て、よたよた起き上がった。
 当たり前だがチンピラは完全に血が上った。一斉に殴りかかっていく。俺だってあっけに取られていなければ、きっとそうしたに違いない。だから俺は、そのとき奴がどう動いたのかはっきり見ることができた。
 奴は流れるような動きで最初のパンチをかわし、がら空きになったどてっ腹へとストレートを叩き込んだ。肩も開いていない、全身を使ったシフトチェンジ。

 これが小説か何かなら、奴の足元には腹をしこたま叩かれたチンピラが痙攣して横たわることになるのだろうが、現実はそうはいかねえ。力の入っていない奴のパンチは、チンピラ供を痛めつけることも、ついでに驚かせることもなかった。
 奴が袋叩きにされ、店から放り出されたのを確認すると、俺はすっかりぬるくなったビールを喉に流し込んだ。