「うーん」
一月――
昔は正月を迎えれば春になったとされたというが、どっこい実際には春の気配などみじんも感じられない時期である。いまだ日が落ちる時刻も早く、またそうなれば途端に風の冷たさが体の芯まで響く。
そのとっぷり暮れた寒空の下、東京より一路大阪へ向けて走る新幹線があった。つい先週まではUターンラッシュでごったがえしていた車内も、今は乗客の姿がまばらで、よく効いた暖房にもかかわらずどこか寒々しい。
そんな中、人目を気にすることなく唸りこんでいる男がいる。
千堂である。
東京を発って数時間。まもなく千堂は慣れ親しんだ彼の街へと運ばれつくだろう。今回の小旅行は突発的なものであり、また本来の目的は叶えられなかったが、少なからず収穫はあった。
先ほどまで、千堂は新技の問題点やら何やらについて思いを巡らせていたのだが、大阪に近付くにつれてまた新たな悩みのタネが持ち上がった。いや、思い出したというべきか。
「ま、ええか。着いてから考えよ」
が、千堂に「悩む」という行為が全く似合わないことは誰もが認めるところである通り、彼はさっさと頭を切り替えたのだった。
そうこうする間に新幹線は大阪に到着し、続いて市内を走る電車に乗りこめば、千堂がジムの最寄駅に立つまでもっと短い時間しかかからなかった。
考える暇もない。
「さて、どないしょうかのう」
今度は声に出して言って、髪の毛をかき回した。ちら、とプラットホームの時計を見ると、針は午後九時を指しかけたところだった。それを認めてまたばりばりと頭をかく。
普通、ジムが閉められる時刻はちょうど今頃である。今からすぐにジムへ走ったとしても、真っ暗な建物に迎えられるか、それともまだ誰か残っているのか微妙なところだ。
寒いから早よ決めななぁ、と改札を抜けたところで、ひとつの痩せた影が目に入った。見慣れたナイロンジャンパーを着たその影は、もたれかかっていた壁から離れて、こちらが近づくのを待っている。
「た」
「……」
「ただいまー!」
「おかえり、て言いたいところやけどな」
眼鏡の奥の目が、すう、と細まった。
「なにがただいまー、や。このアホタレ」
両手をポケットに突っ込んで、きまり悪そうにしている千堂を一瞥して、柳岡は盛大にため息をついた。
「おまえ、いま体重なんぼやった」
「は?」
「こんなところ立っとっても寒いだけやろ。うどん屋でも入るで」
「おごりか?!」
「せせこましいことぬかすな!」
という経緯をたどって、彼らは駅近くのうどん屋で向かい合わせに腰を落ち着かせている。
「なんにする?」
「んー。素うどんでええわ」
「遠慮せんでええぞ。腹減っとるんちゃんか」
「これでええねん」
「さよか」
大将ー、素うどん二つー、と注文の声を上げると、さほど間をおかずに愛想のない店主がどんぶりを運んできた。
「千堂、食べながらでええから聞け」
「む?」
「やから口ん中物入れたまま喋んな。ほんま行儀悪い奴っちゃな…」
よほど空腹だったのか、千堂はものすごい勢いでうどんをかっこんでいる。ならばもうすこし量のあるものを注文すれば良さそうなものだが、一応本人も考えているのだろう。
それが絶対に、遠慮とか反省とか可愛げのある理由からではないのは確かだが。
「お前も今年で二十やろが。二十歳いうたらワレ、もう大人や。今更説教するような年でもあらへんし、自分のことは自分で始末つけられるやろ。そやけどな」
柳岡は一旦台詞を切って、ほんの束の間言葉を探していたようだった。
「あんまばぁちゃんに心配かけるんやないで」
ずぴ。熱いうどんを食べたせいで鼻水が出る。
「なんぼなんでも、東京行くんやったら電話ぐらいしとけ」
結局説教になってもうたがな…、と言いながら、柳岡は熱いうちにうどんを片づけようと箸を持った。眼鏡が湯気でくもった。
勘定を済ませて外に出ると、せっかく温まった体から熱を奪おうとでもいうように突風が吹き抜ける。
「うわ寒っ」
「ほんまやな。風邪でも引いたらまたえらいさかい、早よ帰れ」
「おう。ごっそっさん」
ほな、と二人はそれぞれ別の方を向いて帰路につく。と、千堂は何メートルか走ったところで思い出したように振り返った。
「柳岡はーん!」
「何やぁ」
「土産持って帰んの忘れた!ごめんなー!」
「アホ言うとらんとさっさと帰らんかい!!」
あっはっはーっ、とからから笑って走り去る背中を見送る。そのときまた冷たい風が吹いたので、柳岡は背を縮こまらせた。
叱りつけることは山ほどあるし、世話も面倒も手もかかる。
「ま、今晩はえらい目に合うやろな」
いっぺん尻でも叩かれとけ。
叱り飛ばす役目を任せるべき人間は、他にちゃんといるのだ。