最初、ミリィ・トンプソンとニコラス・D・ウルフウッドの間に開いていた物理的距離は、300アイル以上にも及ぶものだった。
彼らが互いに相手のことを全く知らないままでいられたのは、あまりに持っているものが違いすぎたからだ。それも、数え切れないほどたくさん。
生まれたところ、
育った環境、
周りにいた人々、
好きな食べ物、
風の吹く日に考えていること、
心の中で一番大切にしている思い出、
背負ったものと背負わないもの。
なのに二人の間はあっさりとゼロになってしまったのだ。
「君さあ、ソレどしたの」
いかにも暇そうに呟かれたヴァッシュの声が、窓際に揺れる緑を指してそのまま外に拡散する。
「ああ、何や知らん。新聞屋に種貰ろた」
ウルフウッドの返事は台所からやって来た。自分と(暇つぶしに押しかけてきた)ヴァッシュ二人分のコーヒーを作るため、台所に立っているのである。ヤカンからお湯を注ぐと、くわえた煙草から灰が流しに落ちた。
窓際にずらり並んだ、半分に切られた牛乳パックの植木鉢の列。上背だけが伸びた細ッこい緑たちは、一身に日の光を浴びている。この部屋の主は案外まめだから、きちんと世話をしているのだろう。
「似合わないのに。こんな趣味あったっけ」
「失礼なやっちゃなー。オノレと違ごてエコロジカルなんやワイは」
「あだっ!…君の場合エコノミカルの間違いじゃないの?」
「言うとけ。どうせオノレ、よう育てんと枯らしてまうやろ」
「ふふん。これでも僕はガーデニングが趣味なんだ。花に水をやる姿は天使のようだとご近所で評判なのだよ」
「さよか」
冷淡に言って、ウルフウッドはコーヒーをすすった。ガーデニングといっても、どうせ率先してやっているのは、あの小うるさい兄の方だろうが。あの男所帯の庭が花だらけになるところを想像してみると笑えてくる。
ヴァッシュは後ろに転がった。そうすると、葉に隠れていた花芽が姿を見せるようになる。いずれはつつましやかな花が咲き、それが枯れるときっと僕らの預かり知らぬ、けれど同じ根幹によって実をつけるのだ。
「早く食べられるようにならないかなあ」
「ワレが食うんかい」
木造二階建てアパートの窓には、花よりも野菜のほうが良く似合う。
いつか見た海鳥のホロは、まだ幼かった彼にとってそれなりに衝撃的なものではあったが、そのうち他のどうでも良い記憶とともに薄れゆき、思い出すこともなくなってしまった。
埋もれていたはずの鳥の姿が再び脳裏によみがえったのは、彼の弟のせいだ。
具現化した兄の力を刃とするならば、弟のそれは羽というべきか。
羽、とはいうものの、空を飛ぶことなどとてもできそうにない代物だ。
空を切り。
風を撫で。
蒼穹をすべりゆく。
水晶のように透明で硬質な彼の羽からは、そんなイメージからかけ離れた、ただ美しくもおそろしいイメージしか持ち得ない。
その羽がいま、名と同様の鈍い光をともなった彼の刃に映りこんでいる。
油にまみれ、無残に汚れてしまった海鳥とは似たところなどありはしない。ただ、外見とは全く別の何かを去来させる点で、一致しているのかもしれなかった。
「僕らはみんな海鳥だ」
気のせいだろうか。彼女は、レムは、僕らのことを何でもよく知っているような気がする。
例えばこうだ。
この前、ヴァッシュと喧嘩をした。それだけなら珍しいことでもないけど、このときは口だけじゃすまなくなって、とうとう取っ組み合いの叩き合いになってしまった。
問題なのは、そのとき、部屋にあった機材を勢いあまって壊してしまったことなのだ。
レムは、僕らが喧嘩しても怒ったりしない。でも、備品や機材を壊したとなると、とても怖い。だから僕らは、さっきまでいがみあっていたことも忘れ、二人して(ちょっと青くなりながら)修理をしたのだ。
念のため、プログラムごと修復したからばれないだろう…と考えていた僕らは甘かった。1時間もしないうちにばれて、大目玉をくった。
他にも、おやつを黙って食べたとか、立ち入り禁止区域に入ったとか、船のプログラムをこっそり覗いたとか、とにかくそんなことも全部レムには分かってしまうらしい。
「どうして、レムは僕らのすることは全部お見通しなんだろう」
やっぱり僕らの「悪事が露見(最近覚えた言い回しだ)して」、さんざ怒られたある日のこと、レムのいないところでこっそり呟いた。するとヴァッシュは澄ました顔でこう言ったのだ。
「そんなの決まってる。レムの目はγ線が出るからさ」
怒られる羽目になったのはお前のせいなのに。無性にその顔が憎たらしくなって、軽く一発お見舞いしたら、また派手な喧嘩になった。
当たり前だが、銃を撃てば人は死ぬ。
引き金の実際の感触なんぞ知らない手合いは、そういったことを、引き金は軽いが人命は重いだの何だのとやかましい。
引き金に重いも軽いもあるものか。
撃てば死ぬ。撃たなければ撃たれる。
それだけのことだ。
それゆえ、撃つか否かの線引きは明確になされる。たとえ、踏み越えるのはガラスを砕くより容易だったとしても。
今まさに、ウルフウッドはその境界を叩っ壊す一歩手前にいることを肌で感じていた。
「お・ん・ど・れ・は―――っ!!」
「ギブギブ!ロープお願いします牧師さんー!!」
「じゃかあしいっ!何べん同じこと言わすんじゃアホンダラァァッ!」
二つの太陽は昨日と、そして明日と全く同じ輝きでこの惑星を照らし干上がらせている。つまりは、繰り返される単なる日常風景だ。
だからといって、いい歳こいた男二人がプロレスごっこに興じていても、それは日常とは呼べまい。それも砂漠のど真ん中とくれば、余計に。
「平和ボケした脳みそがとうとう腐りよったかこのクサレトンガリィーッ!」
「そこまで言われる筋合いがどこにある!あれは純然たる事故であって断じて僕のせいじゅあああああああぁぁっ?」
「全部オドレのせいじゃあ!ここで干乾びてまえー!」
「僕に運転させたの君じゃないか!」
「あ?ワイにばっーかし運転させよいう腹かいな。あーあ、トラブル引き起こしてメシ食ろとるだけの台風さんは気楽でエエなホンマ」
「ホワーイ?なーぜ僕が殴られなければいけないの神様?!たかが砂丘に激突してバイク引っ繰り返しただけなのにー!」
そのせいで財布落としたんやろがボケェェェッ!」
ギリギリギリギリギリギリギリギリギリ。
「ぐぇぇぇぇぇぇぇぇ……」
牧師の締め技と、(無駄に)暴れまわった疲労がミックスされてヴァッシュの意識が遠のいていく。ああ、まこと儚きかなマイライフ。見上げてみれば天使様たちが僕を歓迎してくれている。待っててね今行くよレム。墓碑は「ドーナツを愛する色男、短い生涯を終えてここに眠る」でどうかな……。
うっかり天国の門まで見てしまっているヴァッシュ。どうした、ここで終わってしまうのか?!
「アホくさ。よう考えたらオドレ締めても何もならんわ」
文字通りヴァッシュを放り投げ、ウルフッドはぐったりと座り込んだ。その傍らにバイクの姿はない。先ほど砂丘に自爆する勢いで衝突し、そのまま砂の中に埋もれてしまったのだ。いくら疲れていたからといって、ヴァッシュに運転を任せるべきではなかった。かえすがえすも自分の判断が悔やまれる。
「ぢ、ぢぬがどおぼっだ…」
「いっぺん死ね。そしたらもうちょいマトモな頭になるやろ」
砂にむせて涙目のヴァッシュに対し、ウルフウッドはどこまでも冷淡だった。
「神よ、何でいまだにこの男を撃たへんのんか不思議で仕方ありません」
「ええ~、銃なんて撃っても良いことなんか全然ないよォ~」
「少しは反省せえっちゅうとるんじゃ―――ッ!」
「キャ―――!!」
本日晴天。境界線を踏み越えるか否かは、微妙なところの模様。
不意に聞こえた控えめな羽音は、それでも思わず振り返るのに十分な大きさだった。
砂塵によって幾分か弱められた日光の差し込む窓の向こう、烏が一羽、こちらを覗きこんでいる。
只でさえ黒いのに、逆光のためかそれとも日に灼かれたためなのか、埃っぽく白い空気をまっすぐ切り裂く強さを持った色の羽。
次の瞬間、何事もなかったように飛び去ってしまった。すぐに記憶から消えてしまう、密やかならざる羽音だけを残して。
そうやって、思い出すのはあのひとのこと。