18.私の欠片

 安岡からの連絡を受けたのは、つい昨日のことだった。なに、どうというわけでもない。一杯付き合わないか――
 受話器の向こうから聞こえる声には、何のてらいもない。少し思案した後、南郷は誘いに応じることに決めた。
 落ち合うのはあのときのバーと決まった。場所を覚えているかという問いに、大丈夫だと答える。あの数日間の出来事は、すべてが奇妙に現実感がなく、しかしながら克明な記憶が残っていた。まるで夢から醒めたときのように。

 「よう南郷さん。こっちだ」
 戸をくぐるとすぐ、こちらに気づいた安岡の声が飛んできた。南郷は何とも言えない表情で会釈し、安岡の隣に腰かける。
 「どうも。安岡さんもお元気そうで」
 背広を着込んだ南郷は、いかにも仕事帰りに飲み屋へ立ち寄った勤め人にしか見えない。そのいでたちと、妙に真面目くさった受け答えが安岡を面白がらせたらしい。わざとらしく視線を走らせ、にやと笑んだ。半ば本気、半ば冗談といったからかうような調子で言う。
 「その格好、なかなか板についてるじゃないか。あんたもすっかり堅気になっちまったみたいだな」
 「ちんぴらが堅気になっちゃおかしいですか、刑事さん」
 「ハ、違いない」
 今度こそ、この悪徳刑事は声を立てて笑った。まぁ飲もうやと言い、グラスを南郷の前に押しやる。
 乾杯だ。再会と、それから南郷さんの更生を祝して。安岡のそんな冗談に、南郷は苦笑いを浮かべる。そういう風にして、二人は他愛ないやりとりを交えて杯を重ねた。互いの内心を探りあいながら。

 「せっかくですが、今日はこれで」
 腕時計をちらと見て立ち上がり、自分の分の勘定を置こうとした南郷だったが、それを安岡は引き止めた。
 「どうだい、これから一つ」
 時間はあるんだろう?安岡の指が牌をつまむ仕草をする。しかし南郷は、せっかくですがと首を横に振った。麻雀、いやギャンブルからは足を洗ったのだと告げる。
 「……そうなのか。おれぁてっきり」
 「相変わらず打ってるもんだと?」
 まぁなと安岡は首肯する。つい一年半前、彼らはあるギャンブルに挑み法外な大金を得た。安岡など、あのとき味わってしまった興奮と甘露をいまだに忘れることができない。
 あのときからずっと、まるで心の中に埋め合わせようのない欠けた部分があるような感じだった。おれは飢えている、と安岡は自覚する。飢えている。腹の減った餓鬼みたいにだ。
 自分でさえそうなのだから、南郷はなおさらだ。安岡はそう考えていた。死の淵に引っかかっていた次の瞬間、カードが引っくり返るように大金が懐に転がり込んできたのだから。
 とはいえ、その勝負は言葉通り命懸け、負ければ冗談ではなく海に沈められていただろうものだった。ならば南郷が尻込みする気持ちも分からないではない。安岡がそう言うと、南郷は首を振り、言葉を探しながら口を開いた。
 「オレは思うんですが……博徒ってのは、要するに命を張る気概がなけりゃ務まらない、そういうもんでしょう」
 「そんな奴ばかりでもないがな。ま、あんたの言うとおりだろう。しかし気概というなら南郷さん、あんたもその資格は十分あるんじゃないのか?そもそも賭け麻雀で借金を返済しようとしていたんだろうに」
 「おっしゃるとおりです。恥ずかしい話ですがね、おれはそれなりに博打に嵌ってました。勝てば勝ったでのめりこむし、負ければ負けたで躍起になる。そんな生活でしたよ」
 「大抵の人間は博打に関しちゃそうなるな」
 「でも、全員が全員博打に狂うわけじゃないでしょう。ちょっとした遊び程度にとどめたり、そもそも博打に興味のない人間だっている。だけど……おれのような性根じゃ、博打に生きるのも遊びで終わらせることもできない」
 はたしてそうかな。
 安岡は口に出さず呟く。命を背負って細い細い綱を渡りきる。そうして得た対価の重さを彼は、いや彼らはよく味わったはずだった。
 「だからって、心を牌みたいに切り飛ばせるわけじゃない。ギャンブルが怖くなったってのもあります。でもそういうのは、もうやめようと思ったんです。あのときに」
 だから安岡さん。南郷は付け加えた。
 「おれはアカギの居所は知りませんよ」

 安岡は懐から煙草を取り出し、火をつけた。深く深く吸い込み、一息に吐き出す。
 「フー……。やれやれ。あんたも知らんとなると完全にお手上げだな」
 「人探しは安岡さんの本職じゃないですか」
 「それがだな。あれだけ目立つガキだ。すぐ見つかると思うだろうが、どっこい煙みたいに消えちまった。南郷さん、それらしいこと聞いた覚えはねえのか」
 「家が遠いってんで、あのときは泊めてやりましたけどね。何も聞いちゃいません」
 「そうか……ひょっとすると東京じゃねえかもしれんなぁ」
 「安岡さん、あいつ探してどうするつもりなんです」
 南郷が思わず口走ると、安岡は本気で呆れ果てたようだった。
 「他に用があるとでも思うのか?南郷さんよ、あんたも分かっているだろう。あいつはそれこそ博打の中でしか生きられない男だぜ」
 「そりゃそうですけど……。でも素直に人の言うこと聞くとは思えないし、いくら金積んだって動かないんじゃないですかね。あいつは……言ってみればおれみたいなのとはまったく違う心で博打と向かい合っていた。だから強かった、そうは思いませんか」
 「金か……それもあるが、まぁ」
 そこで安岡は言いよどむと、もうアカギの話を続けようとはしなかった。実を言うと、南郷は少しほっとしたのだ。これ以上アカギの話を続けていると、不用意なことを言いかねなかった。

 なぁ、南郷さん。別れ際、安岡は問うた。
 「あんた本当に……。金輪際博打はやらねぇのか」
 「ええ。もう二度と」
 何に淀むことなく、きっぱりと言い切った。あのとき自分は心の一部を削ぎ落としたのだと思う。自分はもう、密度を持った熱へ踏み出すことなどないだろう。そうやって生きていく。
 「ぬるい生き方だと笑われるでしょうけどね、あいつには」
 そうか、と安岡は呟き、ふと漏らした。笑われるならおれの方だろうよ、と。