深夜、鳴った電話にひろゆきは鋭い視線を向けた。経営する麻雀教室が開いている時間をのぞけば、そうそう電話がかかってくるわけではない。まして深夜になど。とすれば、用件は副業――代打ちの方だとおのずと知れる。ひろゆきは受話器を取った。
「も」
「一大事だ!」
その瞬間、大音量による衝撃波が耳を直撃しひろゆきは吹っ飛んだ。床に転がり、白目をむいてぴくぴくと痙攣する。同じように投げ出された受話器からは、支離滅裂な大声がさながらスピーカーのごとく響き渡っている。
「…はっ」
数秒後、泡を吹いた状態から復活すると、耳を押さえつつガンガンと跳ね回る受話器へとにじりより、素早く本体に投げつけた。宙を舞った受話器は正確にフックにおさまり、とたんに部屋には静寂が訪れる。命の危機は去ったのだ。
「ギリギリ…、危ないところだった…」
額の汗をぬぐい、ひろゆきは息をついた。そのとき、再び呼び出し音が鳴り響いた。気のせいだろうか、ベルの音量までさっきよりも上がっているように聞こえる。かれはあくまで冷静な表情をつゆほども動かさず、無言で座卓を頭上高く持ち上げ、おおきく振りかぶって――投げた。受話器、完全に沈黙。ひろゆきは投げ出してあったジャケットをひっかけると、完膚なきまでに破壊された電話機には目もくれずに外へ出た。
天の住まいであるアパートに着くと、すでに日付が変わったというのにあたりは黒山の人だかりである。何事かと思ったが、よくよく見ると近隣の住人が丸ごと押しかけてきているようだ。ひろゆきの知った顔もそこかしこにある。かれらは皆、一様に浮かれきってほとんどお祭り騒ぎのような雰囲気だった。酒を飲んでいるものもいる。
ここの住人は普段からのん気で気楽な者ばかりで、それはひろゆきが一時暮らしていたころから、そして多少住人が入れ替わった今でもまったく変わらない。ここはそういう土地なのだ。とはいえ、さすがに度が過ぎている。踊りくるう人ごみをかきわけかきわけ、ドアが開けっ放しの天の部屋に辿り着くとそこも人でいっぱいだった。
「こーんばんはー!」
上がりかまちに足をかけ(それ以上前へ進めなかったのだ)、大声で挨拶すると、奥で誰かと飲み交わしていた天が気づいて手を振った。
「おう、ひろ!あ、ちょーっと通してやってよ」
がはははは!と何がおかしいのか天は豪快に笑う。いつもの傷面は酒精で赤ら顔だ。
「よく来たなあ!で、何の用?」
「呼び出したのはあんただろうが!」
出迎えた天の言葉にひろゆきの斜め四五度チョップが炸裂。背後に稲妻が稲妻が走った!だが、天はそれを難なく受け流す。
「電話途中で切れちゃったもん」
もん、じゃないだろう。だいたい、あんな電話をかけてくるのは天くらいだ。そう言うと、天はそうだそうだ、それもそうだと再び大口を開けて笑った。仏頂面のひろゆきをうながし、腰を下ろさせる。
「それでどうしたんです…、この騒ぎ…」
「いやー、モトさんが秘蔵の樽をみんな開けちまって。それも、もったいないからって次々と。おかげでいっぱい呼ぶ羽目になっちゃったよ。さっきまで沢田さんもいたんだぜ。すれ違いになっちゃったな」
一大事とは酒のことか。電話口の様子からよくない予想はしていなかったとはいえ、何事か起こったのでは…という考えは頭にあった。それにしても大騒ぎだ。毒気を抜かれた格好のひろゆきだったが、今回はありがたくご相伴に預かることにする。ひろも飲め、と突き出されたコップに口をつけると、確かに良いものらしい芳醇な香りが漂う。
「うまいっすね」
「だろう?嫁さんが二人とも妊娠したって言ったら、モトさんおれより喜んでさ。アパートの地下に埋めてあった樽をまとめて掘り出したんだよ。あれは壮観だったなぁ」
「…は?」
「だから大樽がひとりでに空中に浮き上がって」
「そうじゃなくて!その前っ…ちょっと前!」
「沢田さんが酔っ払って大泣きした話?ちょっとすごかったなぁ、あれは」
「違うっ!ににににん、妊娠したって誰がっ?!」
「うちの嫁さんたち以外に誰がいるんだよ」
「はああああっ?!」
天には出会ったころから頭を抱えさせられることばかりだが、今度もまた最大級だ。唸るひろゆきの姿を見て、天は口を尖らせた。
「なんですかなんですかっ…!このめでたい席にその顔はぁ!」
「あいててて。痛いです痛いです。でも妊娠って、しかも二人ともって一大事じゃないですかっ…!」
「最初から言ってるじゃないか」
何度も言わせるなよぉ、とそろそろ呂律の怪しくなってきた天である。その顔がゆるみきっているのは、なにも酒のせいだけでもあるまい。
「それで二人は?」
「あっち。酔っ払いが多いでしょ、近所の奥さん連中に囲まれてるよ。だからおれも近づけないんだけどね」
「そんななりで寂しがらないでください。あ、おれ挨拶してきます」
天の指した隣室では、二人が女性陣と和やかに寿司をつまんでいた。ひろゆきが近づくと、なにも言わずに通してくれる。しかし寿司につられてか、そのあとに続こうとしたどこかのおっちゃんは「あんたはダメ!」「けち!」と弾きかえされていた。おれって警戒されてないのかな。なんとなく複雑なものを抱えつつ、二人の前に正座する。ひろゆきが妙にかしこまって「この度は…」と言うので、二人はきゃらきゃらと笑い転げた。
「いやだなあ、じじむさいよそんな口上」
「そうそう、こーんな小さいころからの仲なんだし」
「勝手に人の過去を改竄するのはやめてください。おれ、あのときは十八です。それにしても、二人ともですか」
「うーん、まさか同時に大当たりするとはねえ」
「天はホームランしか打てない男だから。あたしはそこがいいんだけどね」
「でもやっぱりあのときだよねえ。三人で」
…話が生々しくなってきたので慌てて退散した。
「よう、おかえり少年!」
「誰が少年ですか」
さっきよりもぐでんぐでんになった天を囲む輪に入る。あちこちから勧められた酒を残らず飲んでいるおかげで、天はこれまで見たことのないほど酔っ払っていた。ひろゆきも、誰かから渡されたコップをぐいとあおる。
「で、どうなの天さん。男?女?賭けようか。おれはねえ、男の子と女の子が一人ずつだと思うね」
「まだ分かるわけないだろぉ。それにひとの子どもで賭けるの禁止ーっ!」
「なぁに言ってんだい、天下一品のばくち打ちのくせによぅ。井川先生もそう思うだろ?」
「いやあ、あははははは。あ、そういえば天さん、名前とかは考えてるんですか?」
「ぱんぱかぱーん。実はねぇ、もう考えてるんですねぇこれが。まず、男だったら鉄馬!」
「鉄馬。いいじゃないか、強そうな名前だ。意味はなんなの?」
「ふふふ。何を隠そう、徹夜麻雀のてつまだっ…!」
「はははっ、天さんらしいや…!」
いや良くないだろう。ひろゆきはただ一人ずっこけていた。
「じゃあ女の子だったらどうするの」
「それも考えてある。こっちは多いよ。まず白雪ちゃん、紅子ちゃん、みどりちゃん…」
「全部麻雀じゃないですか。いいですか天さん、名前っていうのは一生なんですよ」
「分ぁってるよぉ。だから親が、一生懸命考えて、子どもがずーっと大事にできるような名前を考えてつけるんじゃないか。これが愛だよ、親の愛」
「えらいっ!さすが天さんっ…!」
「天さんの子どもにーっ、万歳三唱ーっ…!」
拍手喝采がわき起こる。気がつけば、天は外へ担ぎ出されて胴上げをされていた。いつの間にかひろゆきも胴上げされ、しまいにはあちこちで胴上げの輪が出来ていた。受け止められ損ねた隣のおっちゃんが足を痛め、無理をしたおじいちゃんがぎっくりごしになっている。
生まれてくる天さんの子どもたちが、もしも麻雀の名前をつけられても、それが妙な名前になったとしても、きっとそのことを不幸に思ったり、ひがんだりすることはないだろう。ひろゆきは騒ぎにもみくちゃにされながら確信に近いものをおぼえていた。