小話集

60. 長い夜

 カイジと遠藤は角突きあわせてあれやこれやと話し合っていた。残された時間、つまりカイジが地下に戻されるは少ないのだ。やるべきことはいくらでもある。
 それにしても暑い。真昼間はともかく、日が落ちても変わることがないのはどういうことだ。窓を全開にしていても風は一向に入ってこないし、扇風機のやっていることといえば、ただただ首を振っているだけである。ヒートアイランドめ。遠藤は悪態をついた。いらだちをこめて髪の毛をかき回すと汗ばんだ毛髪が指にじっとりとからみつく。クーラーのついた自分の事務室のことを思った。社員も、金を借りに来る顧客もすべてを従えた主人でいられる遠藤金融の社屋を思った。だが遠藤には分かっている。あの場所にあるものはすべて帝愛の所有であって、だからこそこんなボロアパートでしか帝愛から金をふんだくる段取りなどは話せない。
 若いぶん、遠藤よりも汗だくになっているカイジだが蒸し暑さが気にならない様子だった。遠藤が書きつけた人手や資材の手配のメモをとっくりと眺め、矢継ぎ早に質問を繰り返す。やれ運搬のルートが不自然だの、こちらにばらまく金が少なすぎないかだの…。もっとも、それらはいちいち理にかなっている。遠藤が質問に答え、計算を訂正するごとに、この男の頭に描かれた絵図がますます鮮やかになっていくのが目に見えるようだ。
 カイジの表情は精彩に富んでいた。足もとをすくわれるなど思ってもいない相手から大金を奪う、そんな算段をつけている人間の顔など見慣れていたが、それと比べてもカイジが生き生きしすぎているのが遠藤の神経をざわつかせる。嫌なのだ、自分がうっかり引きずられそうになるのが。こんなことは楽しんでやることではないはずだ、少なくとも常識に照らし合わせる限り。仕事はクールにやるべきだろうが…っ、とかれは独語した。
 そのとき、玄関の扉が音もなく開いた。思わず二人揃って顔を上げる。だが姿を現したのがビニール袋をぶら下げた坂崎だと分かると、遠藤は再び数字を書き散らす作業に戻った。おっちゃん、買出しご苦労さん、と一声かけてカイジが席を立つ。坂崎は缶ビール三つだけを取り出し、カイジは受け取った袋の中身を冷蔵庫へ入れた。
 冷えたビールは、このうえなくうまかった。カイジと坂崎が大げさに喜ぶのを横目に、遠藤は淡々と喉に流しこむ。
 「そういやさっきなぁ、テレビの撮影してたで」
 「テレビぃ?」
 「…おい、映されなかっただろうな?!」
 「言われんでもんなことせんがな。はぁ、それにしてもえらい人だかりでな、どうも飲み屋の取材でアイドル来とったらしい」
 「ふん」
 「あ、でも分かる気するなオレ。子どものころとかはテレビが来たっ…!って一大事だったし。なんとか映ろうと無意味にうろちょろしたね」
 「カイジくんのころはそうやったんやな。ワイそんくらいのときいうたら、まだテレビあんまりなかったしなぁ」
 「じゃあ大人になってからは」
 「行った行った。カメラ来たらとりあえず寄ってみんねんな。映れへんっちゅうねん」
 来るなよ、来るなよ…と念じていた遠藤だったが、当然無視などされるわけがない。そっちはどうだったんだ、とアイスをぱくつく二人に問われて一瞬言葉に詰まる。答えるのも癪だが、無言を通すのも大人げない気がしてどうにもためらわれる。結局、どうにでもない雰囲気を装って口を開いた。夜は長いのだ、雑談につきあうのもいいだろう。そう、自分に言い聞かせて。
 「オレの場合は…」
 もっとも、カイジたちからは、何をもじもじしているのだろう、気色悪い、としか見えなかったのだが。

17. 朝焼け

 東の空が白々と明けるころ、雀荘の外へ出ると空の色が赤かったので今日は雨かと健はつぶやいた。
 「それ、嘘らしいぞ」
 「はァ?」
 胡乱な目で聞き返す。やたらと態度がくさくさしているのはまぜっかえされたからというより、むしろこの秀才にいいところを全部持っていかれたことのほうが大きい。
 「朝焼けだからって絶対に天気が悪くなるわけじゃないんだよ。半々の確率なんだ、雨が来るかどうかは」
 青白い顔のひろゆきは、淡々と表情を変えないまま解説した。
 「ほう…。賭けるか?」
 それだけ言うんや、まさか逃げる気やないなろな。
 「なんだって?」
 ひろゆきの視線が変わった。もともと血の気は多いほうだ。機械のように冷静なわりに、妙に挑発に乗りやすいところがある。これでどうや、と指を三本立てると、いいじゃないかやってやるよと息巻いた。
 普通ならたかが天気ごときで熱くなる場面ではないのだが、二人とも一晩中密室にこもって麻雀を打っていて判断力が落ちていたのだろう。

 それも昔の話。
 健は縁側に腰を下ろした。人間ひとりぶんの幅をあけた隣にはひろゆきが座っていた。短くはない間、双方ひとことも口にしなかったが重苦しい沈黙はそこにはなかった。しかし、沈黙を共有しているわけでもなかった。
 今日は雨か。
 隣の人物がぽつりと口を開いた。健が空を見上げると、そこには朝焼けが広がっていた。
 そうやなぁ、今日は雨やなァ。朝焼けやからなぁ。

31. あきらめましょう

 兄ちゃん兄ちゃん。そや、兄ちゃんや。
 悪いけどな、ちょっと来てくれるか。いやいやいや、なんも取って喰うたろいうわけやあらへん。ちょっとおっちゃんの話聞いてくれへんか。
 しゃあけどなあ、道のまんなかでこない突っ立ってんのも邪魔になるやろ。ただな、壁に寄ってもろたらそれでええ。そや、そこのドアのところ。

 兄ちゃんさっきそこの雀荘で打っとったやろ。ちょっとおっちゃん見してもろたけどな、あんたおもろい打ち方しよんなあ。パイが指に吸い付いてくるみたいやないか。
 …そうやないそうやない!逃げんでもええて。
 言うたやろ、そないつもりあらへんて。兄ちゃんのやりようがやな、あんまり巧いからつい声かけただけやがな。ほんまやったら兄ちゃんが何やろうとワイとは関係あらへんさかいに。
 実際な、あんたぐらい若いのにあんだけやれる人間いうたらそうはおらんで。ほとんどは小器用なだけや。流れを変えるようなことはようやらん。せやのにあんたは、まあホンマようやりよんで。
 そや、あんなんは一種の才能や。なんぼ上手にパイを扱えたかて、さばきがでけん限りは卓を支配でけんからな。
 ただな、ただ兄ちゃんはやりすぎた。器用なくらいやったら、お目こぼしされる。素人さんも騙されてくれる。
 あんた、自分のやったこと気付いとったか?
 もう目をつけられてんねんで。ほんまもんの人いうたらそら怖いでぇ。
 おっちゃんの左手な、これ見えるか。この傷な、ぶっすーと刺されてん。ごついドスでなあ。心臓狙われたんやで。兄ちゃんがこないなるかどうかは兄ちゃん次第や。
 そや。そのドアの向こう、普通のとこでは保たんようになった人間が行くところや。兄ちゃんの腕見たいいう人が場設けてんねんわ。金、さっき稼いだからぎょうさん持っとんのやろ?ここで勝てば、倍になる。兄ちゃんは今までどおり普通に打ったらええ。
 騙すような真似してすまんなぁ。でもワイも仕事やからしゃあないねん。兄ちゃん強いからワイも本気でやらななぁ。
 何しとんねん。さっさと入れや。

まあじゃん日本昔話

 おれがガキのころの話だが。
 右手のグラスを揺らし、赤木は口を開いた。彼と向かい合って座っていたひろゆきと健は思わず背筋を正す。
 生きた伝説そのものである男、赤木しげるの逸話はそのどれもが信じがたい奇跡で飾られている。これまで口伝えに聞かされるのみだったそれが、思いもかけず本人の口から直接語られようというのだ。二人は知らず身を乗り出した。
 「むかーしむかし、あるところに」
 ごちーん。
 「一人のおじいさんが…。お前ら仲良くめりこんでどうした。ひびが入ってるぞ、テーブルに…」
 「いえ、なんでもないですよって」
 健はしたたかに打ちつけて赤くなった額をさすった。ぱらぱらとテーブルの破片がこぼれ落ちる。顔面が激突したのに、なぜかサングラスは無傷だ。目を回し、頭をぐらぐらさせたひろゆきも先を促した。
 「気にしないでどうぞ続きを」
 「そうか?まあいいが…。むかしむかし、あるところに一人のおじいさんが」
 なぜ、昔ばなしなんだろう。ひろゆきは遠い目で窓の外を見た。
 「若者の死体を山へ捨てに行きました」
 ごちーん。
 いきなり猟奇になった。ひろと健はまたしても揃ってテーブルにめりこんでいるが、赤木の目にはまったく入っていないようだ。
 「なんということでしょう…!おじいさんは次々と若者を呼んでは血を引き抜いて殺してしまっていたのです…!」
 なんですねんな、それ。健は意識が遠のいていくのを感じた。その隣では、ひろが真っ白になっている。沈む二人の後頭部に乗りに乗った赤木の語りが容赦なく降りかかり、重石となってテーブルのひびをみしみしと広げさせた。
 「若者の腕に針を刺し、おじいさんは言いました。『良いか、お前の血がなくなればわしの勝ち、お前に金を取られても、全財産さらえるわけがないからわしの勝ち。フヒッ』」
 「あんたら、帰ってくれ」
 テーブルを壊された沢田の呟きは、誰にも聞いてもらえなかった。