21. 今日と明日との狭間

 「七対ゼロ!三星学園!」
 「ありがとうございました!」
 「ありがとうございましたぁッ!」
 異変が起こったのは、その二日後のことである。


 前日。
 休憩を終え、現われた叶は上機嫌を隠しきれていなかった。顔に始終笑顔が貼りついているし、テンションも高い。昨日の試合に勝った余韻で部内の空気全体が明るかったため目立たないが、普段の叶からすればやはり「変だ」と周りのものには思われた。
 そこへ畠が「叶は休憩中、誰かとメールをしていた」と洩らしたので、きっと相手は彼女かなにかに違いない、と騒ぎだし、しまいには上級生にどやされるしまつだった。やはりあのとき、一年生ほとんど全員のテンションがおかしかったのだろう。なにしろ叶は、上級生を差し置いてベンチ入りを果たし、しかも公式戦のマウンドに立ちまでしたのだから。七点差で勝っていた場面とはいえ、そこでスリーアウトを取ってコールド勝ちに持ちこんだのは間違いなく叶の実力である。だから今、かれは一年生にとってちょっとしたヒーローだった。
 「なあ叶、いいかげんに教えろよ。女子部の子か?それとも応援に来てた子か?」
 「だから違うって!女じゃねえよ」
 「だって昼休みのときからおかしいじゃん!誰とメールしてたかくらい、教えてくれたっていいだろ?」
 「そうそう、もう練習も終わったしさ。喋ってたって監督も怒んないよ」
 「しょうがねえなぁ…」
 いかにも渋々、といった風を装って叶は腕を組んだが、その顔を見れば叶も誰かに話したくて話したくてしかたがなかったことがよく分かる。練習が終わるまでは、とかれもこらえていたのだろう。しかし叶が口にしたのは、部員たちの期待を裏切るものだった。
 「三橋だよ。あいつからメールがきたんだ」
 「ッだよ三橋かよ!全然もったいぶることじゃないじゃん」
 ブーイングも織りこみずみなのか、そこで叶はにやりと笑う。昼間からずっと胸に秘めてきた、とっておきの言葉。
 「ただのメールじゃねえんだって。あいつな…昨日の試合、勝ったんだ!」
 「勝ったって、三橋がかぁ?」
 「練習試合――じゃ、ないよな。もしかして、夏大のことか?」
 「もしかしてってなんだよ。この時期の試合ったら夏大しかねぇだろ。とにかく公式戦で勝ったんだよ、あの三橋が!新聞にもちゃんと結果が載ってるぞ」
 「三橋んとこって一年だけだったよな。すごくね?」
 「しかもただ勝ったわけじゃないんだ。相手、去年の埼玉代表だったんだってさ」
 「マジかよ?!」
 「嘘だろ?!去年の埼玉代表ったら桐青じゃんか。あそこ超強いのに。結果逆だろフツー」
 「何点差?何点で勝ったんだよ」
 「五対四。最終回にスリーアウト取ってゲームセット」
 うッわー、とため息をついたのは中等部のころから野球部に所属していた部員たちだ。高等部からの部員も、春に西浦と行われた練習試合で三橋と顔を合わせてはいるが、直接の事情を知っている人間独特の感情がそこにはこめられていた。
 「そっか…。あいつ頑張ってんだな」
 「オレらなんて、まだまだ補欠ですらないのにな」
 「それを言うなって!いいじゃん、これから頑張れば!」
 「まあ、あいつの学校、一年しかいないもんな。そりゃ三橋もレギュラーにだってなれちゃうよ。実力で」
 「でもなんか複雑だよなー」
 「え、なにが?」
 「だって三橋って」
 「お前ら!さっさと着替え終わらせろ!」
 結局雑談に花が咲いて、上級生に怒られた。怒鳴り声にネズミのように慌てて着替えを済ませる。


 そして、さらにその翌日。
 「いいかげんにしろッつってんだろ!」
 「はいッ!」
 なんやねんやろな。織田はグラウンドの片隅、コーチに怒鳴りつけられている畠にちらりと目をやった。どうも朝から畠はおかしい。身が入っていないというか、心ここにあらずといおうか、つまらぬ失敗ばかり繰り返している。それだけなら気をまわすこともないのだが、どうも織田には畠の様子が引っかかる。
 思い返せば授業中もどこかぼうっとしていた。同じクラスでもある織田は、長身のせいで後ろに配された自分の席から、どことなく表情の暗い畠を見ていた。…叶は、たぶん気づいていないだろう。いまもブルペンで投球練習に打ちこんでいる。
 「さっきからハイハイって分かってるのかこのバカ!」
 「はいッ!」
 「じゃ、分かってんなら言ってみろ。お前のやることは?」
 「ッう…!走って、きま、すっ…」
 「三十周だ。いいな」
 「はいッ!」
 「おし、行け」
 「あざぁッス!」
 深く腰を折り、畠は駆け出した。グラウンドの各所で、ポジションごとに分かれて練習しているグループそれぞれに走りよる。
 「すんませんでしたぁッ!練習戻ります!」
 そう、ひとつひとつ宣言してから猛然とランニングを開始した。スピードもペースも落とすことは許されない。ゆるまれば即座に距離が追加される。誰かがその様子を見てため息をついた。

 「終わったんか」
 とっぷり日も暮れ、真っ暗になったグラウンドを畠は体を引きずるようにして歩いてきた。そこだけ明かりがついている部室の入り口、織田が畠を出迎える。
 「みんなは」
 「もう帰った」
 誰かが居残り練習を命じられるということは、同じ学年の人間も残らなければならないということだ。畠が追加されたノルマ分まで走り終えたのを確認して、ようやくコーチは練習の終了を告げた。一足早く上級生が帰宅し、練習用具の片付けとグラウンド整備を済ませた一年生が帰り支度を整えても、畠は座り込んだ場所から動かない。叶や宮川はその姿を気にしていたが、織田はなだめて帰らせた。
 「部室もう閉まってるさかい、荷物だけ出しといた」
 ペットボトルを渡す織田の足下には二つのバッグが置かれている。礼を言って隣に座ると、畠は目頭が熱くなりかけるのをごまかすように、汗やらなにやらで汚れた顔をユニフォームでぬぐった。これだけ水分が出ても、まだ涙は出てくるのか。
 「ちょっとずつ飲めよ」
 「おう」
 ゆっくりとペットボトルの中身が減っていくのを、織田は黙って待っていた。
 「織田、お前、寮の門限…」
 「あー、大丈夫大丈夫」
 先輩に教えてもろたヒミツの入り口があんねん、と気軽に織田は言う。だが畠は寮の規則が厳しいことを知っていた。三星学園は野球に力を入れており、毎年推薦で何人もの生徒が入学してくる。なかでも和歌山から群馬まで引っ張ってこられた織田は破格といえた。だからといって、学校側が野球部員に対してだけ甘い顔をしてくれるというわけではない。むしろその逆で、力を入れているからこそ厳しい規則が部員たちには課せられるし、それに従うのは当然のことである。練習が長引いたというなら寮監も納得しようが、今のように自分に付き合ってわざわざ残る理由は織田にはない。
 気づかいに対する嬉しさとすまなさに、畠の胃は疲労だけではない重たいものをおぼえた。もう一度ペットボトルに口をつける。生ぬるいその中身はまだ半分近く残っていた。

 なんやねんやろな。織田は考える。
 昨日の畠は特におかしくはなかった、と思う。一昨日は夏大会の初戦を勝利で飾り、部内全員が喜んでいた。もちろん畠も、織田だってそうだ。チームが勝って、嬉しくない部員がいるだろうか?
 「いっこ聞いてもいいか」
 畠がぽつりと呟く。
 「なんや?」
 「織田は、なんで群馬まで来たんだ?和歌山にも強い高校、あるだろ。T学とか」
 「あー…まあ理由はいろいろあんねんけど」
 本当に「いろいろ」あるんだと分かる顔を織田はしたので、畠は自分の気の回らなさにほぞを噛んだ。くそ、なんでオレはいつもいつもこうなんだ。
 「ごめん、変なこと聞いたな」
 「気にしなて。せやけど珍しいわ」
 「なにがだよ」
 「畠がオレのこと気にするとはな。お前いつも叶ー叶ーばっかり言うとるもん」
 「言ってねえよ!気持ち悪いだろ!」
 思わずわめいた畠だが、なぜか一気に肩を落とす。
 「叶、か…」
 「あいつがどうかしたんか。お前、今日ずっとおかしかったで」
 「違うよ。べつに叶がどうとか、そういうことじゃないんだ。小っせえことなんだけど、本当にかっこわりぃ話なんだけどな。オレさ」
 「うん」
 「おととい、叶が試合出ただろ。オレ、マジですげえって思って、だってあいつ一年でベンチ入りして、しかも七回に出てスリーアウトとったじゃんか。初めての公式戦でほんとすげえよ。…だから悔しいとかそんなんじゃないんだけど」
 ぐぅと畠はペットボトルを握り締めた。叶をねたんでいるのでは決してない、そんなことは織田にも分かる。いや、普段畠と接していて、誰がそんなことを思うだろう。だいたい、叶の登板を本人よりも喜んでいたのはほかの誰でもない、畠ではないか。
 「中学のとき、オレはずっと納得いかなかった。なんで叶はいい投手なのに投げちゃいけないんだよって。そりゃ…三橋だって頑張ってたかもしんねぇ。だけどオレは叶に投げてほしかったんだ」
 ミハシ…。織田は一瞬考えて、それが春の練習試合での相手投手だということを思い出した。もとは三星中等部の投手で、理事長の孫という理由でマウンドに立ち続けられた選手。叶を除く全員から憎まれ、半ば追い出されるように出て行った人間。笑い話にしかならない遅い球速と、冗談のように精密極まりないコントロールで自分たちから勝ちをもぎ取った投手。
 「高校に入って、三橋がいなくなって、言い方悪りぃけど清々したと思ったよ。これで叶は本物の投手なんだ、オレたち叶と一緒に野球できるんだって」
 でも、と一言発したきり畠は押し黙った。肩が、ほんのわずか震える。泣いてるのかと思ったが、一呼吸置いて発せられた畠の声は乾ききり、湿り気などわずかも見られない。
 「…でも、おととい試合を見て分かった。あいつの球を受けるの、オレじゃなくてもよかったんだ。なんつったらいいのか分かんねーけど…。叶はいい投手だ。それは本当なんだ。三橋がいてもいなくても、正投手が誰かなんて関係ない、変わらないんだ」
 「そやな。三橋と叶二人並べたら、誰かて叶取るわ」
 「だけどオレは、試合にいつも負けるのも、叶がずっと控えだったのも、全部三橋のせいにして、結局、オレ」
 畠は声の震えを隠しきれなくなってきた。ペットボトルに残っていた最後のひとくちを一気に飲み干す。
 「…それで、昨日叶から三橋が勝ったってこと聞いてさ、オレ何やってたんだろって思ったら、わけ分かんなくなってきた」
 (あ)
 こいつ引き返しよったな。織田の勘がちくりと告げる。たぶん今、畠は根深いところをさらそうとして踏みとどまった。それはちらとも姿を現さずに、畠の中へしまいこまれたのだ。もう織田の横に座る畠の顔は、いつもの畠でしかない。
 「悔しいんか、三橋が勝って」
 けれども織田は、それをつつきまわす気など毛頭なかった。なぜか、と問われれば畠の問題だから、としか答えようがないが。抱えこんだものをどうしたいのかは、畠が自分で決めることだから。
 「いや悔しいってわけじゃねぇんだ。だからって嬉しいとも思わねんだけど…。ッだあー!もうわけ分かんねえ」
 「なあ、聞いてもええか。三橋ってどんなやつやったん」
 「三橋か?どうって…」
 ふと興味がわいた織田の問いに、記憶を探る畠の顔がしかめられる。
 「とにかくムカツクやつだったとしか言えねー」
 「いや、だからどこらへんがとかあるやん」
 「もう全部がムカツいたな。ヒイキのこと抜きにしても、マジで嫌なやつだったよ。織田は練習試合でしか顔合わせなかったから知らねえだろうけど、いちいちいちいちいちいち、もうとにかくこっちのイラつくことしかしねえんだよ、あいつ」
 「はー」
 「緊張してんな、と思って話しかけたら『ゴ、ゴメンナサイ』とかいきなり謝るし、誰かがエラーしても自分のせいだと思ってビクつくし…って思い出したら腹立ってきたじゃねぇか」
 「うん、まあオレも顔合わせんでよかったような気ぃするわ」
 「織田がいたら絶対シカトしてたと思う。オレ」
 「うわぁ」
 そらスゴイわー、と言いながら織田は腰を上げた。腕時計を見れば、針は練習のせいとは言えないくらいの時刻を指している。
 「そろそろ帰ろか」
 「だな」
 「あ、そや畠。…あんまり溜めこみなや。なんかあったらすぐ言え」
 はぁ?といぶかしげな顔をした畠だったが、存外真面目な織田の表情に思わず頷かされる。
 「まあそんなことにはならんようにするよ。でも織田…、今日は、ありがとな」
 「ええて」
 のそのそと着替えた畠と織田は、夜のグラウンドを歩きだした。警備員に見つかったらなんと言おう、それが少しばかり心配だ。
 「あ」
 「どないした」
 「もういっこ思い出した、三橋のムカツクとこ」
 あいつ制服が似合うんだよ!見てるだけで腹立ってくるの、そのせいかもしんねー。
 無言で織田は自分と畠の姿をつくづくと見やる。青味がかった灰色のシャツにネクタイ、おまけに冬は白いジャケットがつく。おせじにも自分と畠は似合っているとは思えない。何しろときどきからかわれるくらいだ。自分の顔はどちらかというと濃いほうだし、畠の坊主頭は学ラン以外の制服を拒絶している。記憶の中にある三橋の姿を思い浮かべてみれば、確かにあの顔にはしっくりくるいでたちだ。
 三星に入学を決めたとき、妹が「制服が可愛い。お兄ちゃんはズルい」とむくれていたが、実際に制服を着る身にもなってみぃ、と妙な理由でケンカしたことまで思い出してきた。冗談めかしているが、畠の言葉は本気かもしれない。織田は胸にわいた何かを振り払うようにそう思った。