65. 回復する傷

 ここ埼玉某所に暮らす真柴家は、今ではめっきり数を減らしてしまった三世代同居のお宅である。そこの次男坊、迅が地獄の釜の底を覗いてきたような顔で帰宅したのはある夏の夕方のこと。午前中から降りだした雨はいまだやまず、もう乾いたはずの赤く腫れた目をなおも濡らしていた。
 今日、七月最初の日曜は高校野球を愛するものたちにとって特別な季節の始まりだ。その一員、高校球児の迅は、試合に出場するため意気揚々と家を出た早朝とは逆に、重い足取りで暖かな家の明かりに出迎えられた。かれのチームは夏の県大会、その初戦で敗れたのである。試合と午後練習の疲れからか、はやばやと布団にもぐりこむ迅の背を母と祖母の気遣わしげな視線が追った。

 なに、負けたってほんとなの。自然、夕食の話題にのぼるのはそのことだ。夜になって帰宅した姉や父は驚きを隠せないが、部屋へひっこんだ弟をはばかり話す声は小さい。
 対戦相手は無名の公立校、しかも全員一年生ばかりの新設チームと聞いたときには、じゃあきっと楽勝だ云々、と皆冗談混じりに話していたというのに。言われた当の本人は立腹し、試合に絶対はない、油断が敗北を生むんだとまじめくさって力説していたが。
 みんながんばっていたんだけどね…。球場で直接試合を観ていた母はそう言い、ため息をついた。
 先取点を奪われながらも追いつき、追いこされ、一点差で迎えた九回裏。三塁に立ったのは迅だったそうだ。母は試合の様子を事細かに説明し、最後には両校の踏ん張りに思わず涙が出た、としめくくった。
 確かに、ただ強くて部員数の多い学校が勝つわけではないのが野球だ。それにしたって、県内有数の強豪と新設チーム。昨年は甲子園にだって出場したのだ(いかにも埼玉らしく二回戦で敗北したとはいえ)。だれが今日の結末を予想しただろう。
 あるんだな、こんなことって。つぶやかれた兄のひとことに一同眉を曇らす。


 後悔はあとになってするから後悔と書く。
 迅は字句通りの意味を骨身に染みるほど実感していた。
 ごく普通の高校生である迅は、後悔などこれまで何度となく経験してきた。つまり、八月も末になって慌てて宿題に手をつけたり、よせばいいのに家の中でキャッチボールをして皿を割り、しこたま叱られたというような。…この際隠し通さずつけくわえるならば、小学生のころ気になる子をついつい思いきりいじめて嫌われたことも「後悔」の勘定に入れられるだろう。
 だが、所詮そのようなことはすべて取り返しのきくことだったのだ。カルチャースクールでの力作を無残に壊された祖父は、べそをかく孫を最後には許してくれたし、初恋、のようなものもいまでは笑い話のネタにできる。それとは比較にならないことがあるなど、迅は知らなかった。後悔とは本当にどうにもならない、過ぎてしまってからしでかしたことの大きさに震えることだったなどとは。たちあらわれたそれを目の当たりにしたとき、迅にできたのは人目もはばからず大声で泣きじゃくることだけだった。
 はじめはただ、試合に負けた悔しさに涙をこぼした。九回裏、相手校の捕手を蹴破る勢いでつっこんだホームベース。、そして一拍置いて響く主審がアウトを宣告する声。その声ほど迅の胸をえぐったものはない。
 いや。正確には、これほどきつい負けは初めてだった。雨降りしきるグラウンドで立ちつくしながら、迅はかすかに――本当にかすかにだが――夢見ていた甲子園への道が閉ざされる音を聞いていた。
 負けた、負けた、負けた。頭がぐるぐるする。呆然としながら礼を交わし、ベンチに戻ってからもかたづけが手につかないほど涙が流れつづける。こんな光景は、この時期全国都道府県各地で見られるありふれたものだったが、当事者たちにとってはそんな簡単な言葉で表せるはずもない。
 だがなによりもこたえたのは、泣き崩れる三年生たちの姿だった。後輩に対する面子もあるのだろう、洟をすすりあげ、目をこすりはしても比較的平静な表情を保っていたが、それも和己が準太の肩を抱いて号泣するまでのこと。いつも穏やかな主将が泣きじゃくるのを見て、皆せきを切ったように感情をさらけ出した。
 そしてその声は、迅の肩にもずっしりとのしかかる。
 同じ年恰好の少年と比べれば、迅は比較的野球が達者な方といえるだろう。まだ伸びる余地がある、そう判断したから監督も入学早々のかれをベンチ入りさせた。それで少なからずおごったものの、同時に迅は野球部における「よくできた後輩」の模範生でもあった。だから、ただただ自分を責めた。自分がもっと足が速ければ、いやそもそも投手を球速で侮ったりせず、初球からきちんと見極めていれば。すべてをみずからの肩に覆いかぶせていた。

 迅の帰宅が遅くなったのは次の日からのことだ。それでなくても夏は日が長い。野球部に限らずどこの部も練習が長引くものだし、大会を控えたすこし前から毎晩帰宅は九時を回るのが当たり前だった。それが十時を過ぎるようになったので、迅はいつも母の心配顔に迎えられるようになった。
 「そんなに練習がきついの?」
 もそもそ箸を動かす迅の真向かい、陣取った母が口を開いた。この様子ではいつもの「大丈夫だって」では引き下がらないだろう。しかし母が息子を心配するのは、時間の話だけではない。迅の顔色は暑さだけのせいにするには悪すぎる。
 迅はきまり悪げにタケさんが、と口にしかけ、それでは通じないと気づいて二年の先輩が、と言い添えた。
 「前にも話しただろ、青木毅彦先輩。今度主将になってすげぇ気合入れてんだ。ただ練習がんばるだけじゃなくて、ミーティングとかも力入れようって。ほら、それに三年抜けたからレギュラーみんな狙ってるし。オレもやっぱ二軍落ちヤだし」
 それに。
 「それに、もっと強くなりたい、し」
 こぼれでた言葉をなんでもないものにしようと、迅はわざとらしく山盛りのお茶碗に没頭した。嘘はついていない。練習で毎日きりきりしめあげられているのも、ミーティングがこれまでになく熱の濃いものになっているのも本当だ。けれども、迅は解散後に一人で自主練習を行っていることを黙っていた。これは家族にはもちろん、部の仲間にさえ話していない。
 だが口うるささが売りの母は納得しなかったのか、でもね、とやや語気を強めて切り出そうとした。
 「大丈夫でしょ」
 口を挟んだのは迅にとって意外なことに姉だった。大学生の姉とは生活サイクルが異なるため、顔を合わせることはほとんどない。迅が高校に入学してからは、ますます会話も少なくなっていた。今日はたまたま同じ時刻に帰宅し、一緒に食卓を囲んでいたが。
 そんな、弟が野球部員であることすら忘れていそうな姉が、自分をかばうようなことを言いはじめたので迅は驚きをおぼえた。
 「本人が練習嫌がってないの、見たらよく分かるじゃん。だいたい、ほんとに体きつかったらごはんも食べられないでしょ」
 「そりゃそうかもしれないけど、でもねお姉ちゃん――」
 助かった。話題はいつのまにか、帰宅時間がばらばらだのなんだのと姉の説教に移っている。迅はそそくさと食器をかたづけ、部屋へ戻った。
 「おう、おかえり」
 母さん、話長かったろ。机に向かっていた兄が声をかけてきた。それに生返事で応えると、迅は布団につっぷした。今年受験生の兄は、夏休みを前に予備校や模試にかかりきりで余念がない。しかしこれでも遊んでいる方なのだそうで、迅は自分の二年後を想像し、背筋が寒くなった。と同時に、オレら受験生なんだよねー、と軽く笑っていた三年生たちの表情を思い出す。
 「受験勉強ってさ、しんどいの」
 「だなー。やってることが身についてるのかどうか分かんねぇし。やる気も全然出ないっての。お前も受験なんてまだまだと思ってたら怖いぞ。ぼっとしてたらあっというまだからな」
 「うわ、考えたくねぇ」
 「積み重ねが大事だってあとになって理解できるんだぞ。いまからまじめにやっとかねえと、三年になって一年の単元分かんねくて慌てて復習しても遅いからな?」
 受験のストレスか、散々迅を脅かすと兄はまた机に向かった。弟をからかうときとは違い、その横顔は真剣なものだ。
 兄ちゃん。枕に顔を埋めて迅はつぶやく。
 「復習になるからオレの宿題もやって」
 「誰がやるか!」


 その日も迅は一人で自転車をこいでいた。恒例の自主練習に向かおうというのである。母にも不審を抱かれはじめたし、疲労もたまっていると自覚している。しかし、やめるわけにはいかない。キュルキュル。タイヤの摩擦音が奏でる独特のリズムが不意に止まった。迅がブレーキをかけたのだ。
 「まっしばくーん」
 軽い調子で声をかけ、足を止めさせたのはチームメイトの利央だった。なんだよ、と不機嫌さもあらわに尋ねる迅に、利央は思ってもいない言葉を口にする。
 「オレも混ぜて」
 練習行くんだろ?不意をつかれ、迅は当惑を隠せない。なぜ利央がそのことを知っているのだろう。嘘や隠し事は不得手なほうだと自覚していたから、自主練習を部の誰かに気づかれてもおかしくはないとは思っていた。それにしても、なぜ利央が。
 「捕手だから、オレ」
 目を白黒させていると、当惑する内心を読み取ったのか利央は言った。観察と分析は捕手の仕事!とつけくわえて。
 「それにね、タケさんも気づいてるよ。練習のとき、迅めちゃ疲れてるから。タケさん、負けたの迅が自分のせいにしてんじゃねーか、って、それで」
 「だからお前が見張りにきたのか。…心配なんてしてくれなくて大丈夫だよ。オレが勝手にやってることだ」
 「ちっ…がうよ!止めに来たとか、そんなんじゃない。オレだって、く、悔しいんだ。悔しいのはオレだって、迅だって同じだろ」
 「…悪り」
 ぐしゃ、と口元を曲げる利央に迅は謝った。お前らには来年がある、周りはそう言うけれども、オレらは間近で「来年のない」三年生の涙を見たんだ。一年生にだって三年生の夢に何もできなかった悔しさがある。迅は地面をじっと見つめた。
 「ああもう、迅追いかけたからオレすっげのど渇いた。コンビニ行こ。コンビニ」
 利央が出したのは、いつもの明るい、どこかふにゃけた大声だった。それに引きずられるようにして、おもわず迅は白々と明るい店内へ入ってしまう。

 迅ってさ。冷蔵庫に並ぶペットボトルをぼんやり眺めていると、隣から利央の声が降ってきた。騒がれる端正さを持つわりにいつもガキくさい表情しか浮かべない横顔、それがいまは驚くほど真剣に冷蔵庫を見つめている。そんなに力入れて選ぶことかよ、と利央の緊張に気づいていない迅は思った。
 「いつもどんなことやってんの」
 「…走ってる」
 「走ってる、ってただそんだけ?!あれから毎日?だからあんだけゲーゲーやるんじゃね?!」
 「デカイ声だすな!一人じゃそれくらいしかできねーもん」
 「でもさ、野球は一人でできないだろ。だから練習もみんなでやるんじゃないのかよ」
 「当たり前のこと言うな。バカか」
 「バカって言ったほうがバカだ。そうじゃなくてさ。ほら、監督だって今日の練習で怒ってったじゃん。チームプレイを頭にたたきこんどけタコッ!って。…あれ?オレ同じこと言ってる気がする」
 相変わらず、利央の言っていることは要領を得ない。こいつ捕手だろ、チームの頭脳なのに大丈夫なのか。迅は野球部の行く末を、ときどき本気で心配してしまう。
 結局この日、迅の「自主練習」はうやむやのうちに中止になってしまった。利央のちょっかいのせいだ、と当時は舌打ちしたけれども、その日を境に一人で練習することが減っていったのも事実なのだった。
 あのころを振り返って、迅は思う。利央はどこまで考えてついてきたんだろうかと。もちろん計画も立てず、やみくもに体を痛めつける自分を止めに来たのは間違いないが、はたして利央は本当に止める気でいたのか。なぜなら、宣言どおり練習に混じった利央は、夜更けの道を二人で競争して最後に引っくりかえるような奴だったから。


 早いものでもう八月だ。待ちに待った夏休みの到来で、今日も桐青高校硬式野球部は終わりのない猛練習の最中にある。朝から晩まで、文字通り野球漬けの毎日だ。
 「ちょっと待ってよぉ」
 アンダーシャツを脱いでいるのか着ているのか、なんとも中途半端な格好の利央がもたついている。呼ばれた迅は、外で待つぞと言い置いてさっさと背を向けた。着替えにごったがえす部室で、いつまでもだらだらしていては迷惑なだけだ。騒ぐ利央に隣の部員が尋ねる。
 「今日なにかあんの?」
 聞かれ、利央は意味深に笑った。
 「迅ン家で秘蔵ビデオ見るんだ」
 秘蔵という字が頭につくと、どんな単語でもとたんに魅惑的な響きを持つから不思議である。特にそれがビデオときた日には。色めきたつ仲間たちをごまかしつつ、利央は迅を追った。
 「さっさと行くぞ」
 「ごめんごめん。あービデオビデオー!」
 「うっせ。だいたい甲子園の決勝なんて利央ン家でも録ってるだろ。なんでオレん家来んだよ」
 「野球関係のビデオ、まず兄ちゃんが全部持ってくから回ってこねえの。待つのもヤだしさ」
 「別に貸しても構わねえのに。ダビングできるだろ」
 「いや家で見るのはちょっとねー…」
 「てか、お前が家来るのがビミョー」
 「なにそれ!」
 「家族受け異常にいいんだもん。お前帰ったあとでオレがなに言われてるか知ってっか?」
 ぎょろりとにらむ迅の予想通り、その晩利央は非常に愛想よく真柴家に迎えられた。主に母や祖母から。本人もまた、素直に喜びを前面に押し出して応えるから始末が悪い。ひいきだ。えこひいきだ。針のむしろに座った迅は、利央と出会ってから幾度となく思った言葉を今日も噛み締めていた。

 食べ盛りの胃袋を満足させた二人は、ごちそうさまも早々にテレビの前に陣取った。絶対邪魔すんなよ!と事前に迅が充分吼えたおかげで、やたらに入ったりしないと女性陣からの確約も取れている。
 リモコンのスイッチを押すと、ファンファーレと共に決勝戦の模様が画面上に再生された。ときたま、感嘆やプレーを確認しあう声がもれるばかりで二人して食い入るように画面を見つめる。携帯電話からチェックしたニュースで結果は知っているが、実際に見るのと聞くのとでは大違いだ。
 「うわ、いまのすっげ。よく捕ったなー…」
 「でもランナー走らせてた。ちょっと甘くないか」
 「それはそうかも。だけど三塁に走らせるか、併殺するかの二択だろ。たまたまこっちが早かっただけで」
 そんな会話の合間、ふ、と迅の顔が立てた膝に埋まった。利央。すこしくぐもった声で隣に座るチームメイトの名を呼ぶ。なに、とそう応じる利央の声はわずかに硬い。
 「オレさ、がんばるわ」
 「うん」
 「そんで甲子園行く。行こう」
 うん。利央はまた言った。迅の短い言葉にこめられた気持ちは手に取るように分かった。利央自身、まったく同じことを考えていたから。オレもあそこに行きたい。野球がしたい。それで、場所はあそこじゃなくちゃ嫌だ。
 「オレもがんばる」
 利央にも分かっていたし、迅にも分かった。ちょっとにじんだ声で言う利央の頭を、そっと伸びた手がぽんぽんと叩いた。負けじと利央も迅の頭を撫でようとして、それが勢いあまって鷲づかみになり、いつのまにかビデオそっちのけで取っ組み合いになったけれども。