西浦

20. 耳を欹てて

 「風呂ー」
 と、やたらおっさんくさいせりふを口にしながら花井は玄関のドアを開けた。あがりかまちに足をかけると、わかしてあるよ!と母親の声が飛んでくる。それに生返事で応え、花井はバッグを引きずりつつよろよろ風呂場へ向かった。居間から顔を出さないところをみると、母親はどうも誰かと電話中らしい。
 のそのそとシャツを脱いでいると、背後から母親の声が聞こえてきた。居間のドアが開いているからか、それともただ単純に声が大きいせいなのか、会話の内容が筒抜けである。
 「えー?いいじゃない、もともと好きだったんでしょう?ウチなんか最初はほっんと嫌がってねぇ。やらせるのに苦労したわよぉ」
 …なにか嫌な予感がする。
 「そうなのよー!でも二人揃って高校野球好きだったもんだから。うん、どうしてもやってほしかったのよぉ。男の子でしょ、やっぱりねぇ」
 やっぱオレの話か!
 「小さいころから野球場にも連れて行って、それで中学野球部入ってくれたときはもう嬉しかったなー。あ、でも高校行くときなんか別に野球部行かないー、なんて言うのよ。可愛げないと思わない?」
 可愛げってなんだよ。花井は脱衣所にしゃがみこんで頭を抱えていた。
 「そうそう、そうなのよぉ!あ、三橋さんも知ってる?!私がまだピチピチだったころ。あらまだ若いって、やあねえ、そんなことないわよぉ。そう、あの選手がかっこよくってねぇ。あんな風になってほしかったの」
 はじめて聞いたぞそんな話!
 「試合間近で見たときは、もうオーラなんか全然違ってて!あ、分かる?憧れるわよねえ、やっぱり。…あらやだ旦那とは違うわよ。ほかの子ともきゃあきゃあ言ってたわ。でもいまプロで活躍してるの、実はその選手と同級生の子なのよ。分っからないわよねえ」
 そろそろいたたまれなくなってきた。
 「名前覚えてなあい?そうそう!あれよあれ、あの学校の…どの学年だったかしら、甲子園行っていいとこまで行った!あのときはまだそんな有名校じゃなかった…、それじゃなくてあっちの方の」
 言葉の半分以上に指示代名詞が入りはじめてきた。こうなったら二度と目的の名前は出てこない。記憶がよみがえるのは明日か、明後日か、それとも十年後か。少なくともいまこのときに思い出すことはありえない。
 だが、花井は母親が言おう言おうとしている選手についてなんとなく察しがついていた。親の心子知らず、とはいうものの、日々接していればツーカーの仲である。しかしあの選手か、いや、具体的な名前聞くと微妙にヤな感じすっぞ!あいかわらずしゃがみこむ花井を微妙な気分が襲う。
 けど、別に教えてやる必要もないよな!風呂!と、花井が立ち上がったその瞬間。
 「あー!思い出したー!」
 母親の大声でつんのめった。盛大に。

98. 肯定の言葉が欲しかっただけ

 「嘘だろ…」
 衝撃に田島の体が大きくかしいだ。そのまま地面に膝をつき、うなだれる。それでもあきらめきれず、肺腑からしぼりだした声はその場にいたもの皆の胸を締めつけた。
 「たっ、じま、くん」
 目尻に涙を浮かべ、三橋が声をつまらせる。彼もまた田島の悲痛な思いに共鳴しているのだ。
 「誰か嘘だって言ってくれよ!なあ!」
 肩がわなないたのは涙をこらえたからか。たかぶった感情のままに、田島の拳が振り上げられた。グラウンドに叩きつけられるかと思われたそれは、しかし中空で力をうしなってほどかれる。
 あるものはそっと顔を伏せ、あるものは帽子のつばを下げた。これ以上田島を直視することなんてできやしない。悲嘆に暮れる彼の姿など、誰が望んでいただろうか?夕陽の中、彼らはチームメイトのかたわらで無言のまま立ちすくんでいた。
 「田島」
 阿部が一歩進み出る。誰かが真実を告げなければいけないのだ。それがどんなに辛い役目であろうとも。
 「いいか田島。筆箱は象が踏んでも踏まなくても壊れるし、ヤッターマンのコーヒーライターも存在しないし、針が落ちた音は三キロ先からは聞こえないんだ」
 嘘だと信じたかった。だが阿部の真剣な声にこめられた気迫は、田島の一片の希望を粉々に打ち砕いていた。
 「全部嘘だ」
 「ちっくしょおおお!」
 田島の慟哭が響く。阿部は、そして面々はやりきれない思いをかかえ天を仰いだ。せめてどれかひとつでも本当のことだと、そう言ってやれればどれだけよかったろう。しかし、かれらにはできなかった。…できなかったのだ。

凱歌

 列の先頭をいく田島が口笛を吹いた。といっても、すぼめた口から出るのは音と言うのすらほど遠いものだったが。
 「なんだよお前全然できてないじゃん」
 水谷が振り返って文句をつける。
 でも結構難しいよこれ。泉できる?いやオレ無理。オレはできるよ!簡単だろこんなの。…水谷もできてねえじゃん。西広はー?
 とたんに数人が団子になるのを栄口が引き戻す。ほらほら道で固まらない、迷惑だろ。
 そんなかまびすしい様子を花井が最後尾から眺めている。みんな元気だ。特に田島は「イチバンいい球打った!」とご満悦だ。今日の練習試合は二つとも快勝、とあっては気分がよくならないほうがおかしい。いまだにおどおどしている三橋も、いまは田島の隣で必死に口笛を吹こうとがんばっていた。
 「花井もやってみろよ!」
 「オレもかぁ?」
 ぼっとしているとお鉢が回ってきた。嫌だよと言うとキャプテンだからお前もやれ、そうだそうだと全員から返された。キャプテンだからってなんだよ、理由になってねえじゃねえか。そう思いながらもやってしまうのが花井だ。口をすぼめると全員よく知ったメロディが流れ出す。栄冠は君に輝く。
 「へえ、花井うまいじゃん」
 「すげー!花井すげー!」
 「さっすがキャプテン!これなら一人で応援団できんじゃね」
 「だあっ!だからキャプテン関係ねえだろ!」
 言いつつも、目をきらきらさせた田島の視線にいくばくかの面映さを感じる花井だった。

34. 平行線

 今日も楽しい昼休み、万年欠食優良健康児たちにとってはもっとも幸せなひとときの始まりである。チャイムが鳴って10秒後にはもう、昼食の準備を完璧に整えている。三橋たちは弁当を前に、購買へ走っていった田島をいまかいまかと待っていた。
 「あ、三橋くん!」
 同級生が呼ぶ声に、三橋の肩は大げさなくらいびくりとはねた。視線を落ち着かなさそうにあちこちへ巡らす。
 そうだよそうだよ、お前振り返っていいんだよ、とでも言うように泉は力強く頷いてやった。
 「なっ、なっなっなにっ」
 「今日の放課後、委員会があるから忘れずにね。場所分かる?」
 「うっ。わっ」
 わ?わ、ってなんだ。しかしこの数ヶ月で三橋の挙動不審ぶりにも慣れたのか、彼女は慌てず要点だけを伝えた。
 「前と一緒で社講室だから。たぶん今日は連絡だけで早く終わると思うよ」
 「…分かった、よ!」
 社講室!と胸を張る三橋。なんだか偉いねーと頭を撫でてやりたくなる仕草だ。縫い物をしつつ、なぜか感慨にふける浜田はうんうんと首を振る。
 「うん、じゃあよろしく。あ、もうすぐ大会でしょ。頑張ってね!私も応援行くから」
 団長も頑張ってねー、とこれは浜田に向けて言って、同級生は教室を出て行った。その背を見送ったあとに台風はやってくる。
 「みはーしーいー!」
 ほとんど飛びかかるような勢いで着席したのは田島だ。三橋の首に腕を回し、ぐりぐりと頭をこすりつける。
 「なんだよお前女子と普通に話できんじゃん!」
 心配して損した!と騒ぎながら田島は机の上に戦利品を広げる。と思ったら次の瞬間にはもう西浦名物、焼きそばパン状の物体にかぶりついていた。その間、わずか0.1秒。投げられた球種を判断するのと同じくらいの早さである。
 普通?いやちょっと待ていまの普通か?ごくふつーの会話か?どうなんですか解説の泉さん。浜田は救いを求めるように視線を向ける。しかし泉の目はこう語っていた。あきらめろ。
 「オレらと話すのも時間かかったからさー。女子とはもっとダメかと思ってたのにな!ってかさ、どうやって会話してんの?」
 「フヒッ」
 「照れなくてもいいじゃん。教えろよ」
 むしろお前らがどうやって会話してるのか分かんねえよ。
 「三橋って中学のとき男子校だったんだろ。女子に慣れてるっぽいのが田島には謎なんじゃねえの」
 泉よ、お前もそっちの人間か。なんでここまで噛みあってねえ話が理解できるんだよ。
 「オレ、いつもと同じっ、だよ!」
 「うっそだあ。絶対違うって」
 オレにはお前らが別次元にいるようにしか思えねえ。
 浜田が違いの分かる男になる日はまだ遠い。