桐青

67. 夢見心地

 七時限目終了まで、あと三十分。
 早く終われ、すぐ終われ。無駄だと分かっていても、迅は念じずにはいられなかった。
 とにかく時計が進まない、一分一秒がスローモーションのように感じられる日、というのがある。今日は朝からずっとそうだった。授業中に居眠りできればまだ時間のつぶしようもあるのに、残念ながら頭はすっきりと冴えている。かといって、まじめに耳を傾ける気にもなれない。もちろん、きちんと聞いていたほうがいいのは自分でも分かっているけれども、それとこれとは話が別なのだ。
 (あー、野球してーなー…)
 迅は晩春の陽気と、数十人分の二酸化炭素でぬくめられた空気を振り払うかのように机に突っ伏した。
 早く練習に行きたい。練習はきつくても、体を動かしていたら時間なんて経つのはすぐだ。この日にレギュラー陣が発表されると伝えられてからずっと、迅は今日を待ち焦がれていたのだ。
 それでもまだ半分、聞くのが怖いという気持ちは残っている。
 桐青は毎年一年生をレギュラーに入れるとはいえ、もぐりこめるのは一人か二人。しかも去年甲子園に出場したこともあって、迅の学年は特に部員数が多いのだ。選ばれるのは自分以外かもしれない、そう考えただけで胃袋が冷たくなる。
 (二組のあいつとか、四組のあいつとか、うまいもんな)
 自分の目から見ても「うまい」と思える部員を指折り数え、少し気がめいる。そう思いはじめるとみんな格上に見えてくるのだ。
 自信がないわけじゃない。足の速さは新入部員の中でも、いや上級生と比べたってひけを取らない自負がある。単純なスピードだけの問題ではない、野球で走るうえでの「速さ」。それを自分は持っている。真柴迅という選手の武器だ。
 それにそれに、この前の練習試合でも――
 と、いうところでチャイムが鳴った。掃除当番でないのをこれほど感謝したことはなかっただろう。ホームルームもそこそこに、鞄を抱えて教室を飛び出す迅たち野球部員の後ろ姿へ同級生のぽかんとしたまなざしが向けられる。

 じりじりしながら練習を終え、泥だらけの部員が居並ぶグラウンド、迅は…いや、全員が監督の言葉を今か今かと待ち構えていた。
 「では大会のレギュラーを発表する。名前呼ぶのは背番号順だからな。びっくりしすぎて返事忘れんなよ!」
 ぼっとしてたらレギュラー外すぞ!監督の飛ばしたへたな冗談にも歓声がわいた。みんな気分が浮き足立っているのだ。
 一番から九番は、当然三年生が。十番からは二年生の名前が呼ばれる。読み上げられるごとに拍手が起こり、そして迅の心臓の音はどんどん大きくなっていった。徐々に大きくなっていく背番号の数字がまるでカウントダウンのように聞こえてくる。思わずうつむき、強く目をつむる。
 「背番号十七、真柴迅。ポジションはサード」
 「っ…ふぁひッ!」
 なんだその気の抜けた返事はァ!野次と一緒にぱらぱらと拍手が降ってくる。スンマセン!ともう一度返事をし、頭を下げた。
 ぶるっと背筋が震えた。オレ、オレ…レギュラーに…!
 「真柴、おい真柴」
 隣の生徒の控えめな声で迅は夢の世界から引き戻された。当てられてっぞ、と小さく言われおそるおそる顔を上げる。クラス中から、そして教師から視線が集まっていた。アレェ?
 ぎくしゃくと油の切れた機械さながらに身を起こすと、教師が噛んで含めるように言葉をかけた。
 「練習で疲れてるのは分かるけどな。でも真柴。…出した宿題はちゃんとやってるよな?」
 迅の脳裏に昨日の授業風景が瞬時にひらめく。
 『問題集のここからここまで、ちゃんと全問解いておけよー。明日ランダムで当てるからな』…そうだ、確かに言われた。
 問十七!と親切な声が横から差し挟まれる。マジかよ!てかレギュラーは?オレの背番号は?
 顔をひきつらせて迅は立ち上がった。よろよろと。

一年生になったら

 友達百人、ではないが、迅には高校生となるにあたり、絶対にすべしと心に誓っていたことがひとつあった。
 髪を伸ばす。坊主からはもう卒業してみせる。
 野球少年になってからというもの、迅の髪型は三分刈り五分刈りが基本で、それ以上伸びると床屋へ行っていた。なら野球をする前は、というとスポーツ刈りだったからあまり違いはない。
 アルバムをめくると写っているのは坊主、坊主、坊主…。それ以外の自分の姿を見たことがない。小学生のころはそれでもよかった。だが中学校に進むと「いまどき坊主もねえよな」と友人たちとこっそり言い合いたくもなるのである。いわゆるお年ごろというやつだ。
 せめて眉毛だけでも!これは少年たちの切実な願いだった。だが教師や監督が目を光らせていたし、しかも床屋で眉の剃りこみを頼めば遠まわしに「やめておけ」と言われ、そのことは思春期の少年にけして小さくはないショックを与えた。迅はその晩、自分のうねうねした眉毛を呪った。
 さいわい、進学先である桐青高校の野球部は髪型を個人の裁量に委ねていた。…高校を選ぶ際、それが動機の後押しになったことは否定できない。

 (…ッてのに)
 心の中でうめいて迅はようやく坊主から脱出した髪の毛をかき回した。なんとか押さえつけようとした髪は、そうするはしから努力を無視するようにぴんぴんと元気よく跳ねた。自分ではすっかり忘れていたが、迅はひどい癖毛だったのである。
 うー、うー。うなっている横を利央が「お腹でも壊したの迅」などと言いながら通り過ぎていく。その頭に迅の視線は吸い寄せられた。茶髪!癖毛!くそっ、不公平だ!
 「ほわぁっ?!」
 突然背後から膝カックンをくらった利央はつんのめった。ただでさえバランスを取りづらそうな長身がよろめいて尻餅をつく。
 「ぁにすんだよっ!」
 猛然とダッシュする利央。その先にいるのはもちろん迅だ。
 「お前ムカツクってんのッ」
 「暴力反対ぃぃぃ!」
 「あははは。若いっていいねぇ」
 「なんで山サン走ってるんですか?」
 「うーん、…ノリ?ほーら一年!見てないで全員ダッシュだ!」
 山ノ井に先導され、わあわあと騒ぎながら走っていたら、いつのまにか来ていた監督に見つかって怒られた。

42. カルネアデスの板

 「はーい、新入部員のみなさーん」
 「桐青高校硬式野球部へようこそー。われわれはみなさんを歓迎しまーす」
 「では今日からさっそく練習が始まるわけですが、まずこのプリントを読んでください。マネージャー、お願いしまッす」
 「――全員、行き渡りましたか?まだ持っていない人はいませんか?はい、えー、これは我が桐青野球部伝統、応援の振り付けです」
 「一糸乱れぬ動きは、桐青の隠れた名物とも呼ばれています」
 「『テストの成績が上がった』『洗脳される』『宝くじが当たった』『持病の癪がたちどころに治った』とその効果は抜群です」
 「古文書によれば紀元前三世紀、埼玉に漂着した謎の仙人がイッシュクイッパンの恩として我が校創立者の祖先に…痛でッ!」
 「失礼しました。みなさんの中に中等部出身者はいますか?…じゃあこの応援を見たことがあるかもしれませんね」
 「試合のとき、ベンチ入りでない部員は応援にまわるわけですが、必ずこれをやることになっています」
 「というわけで一年生のみなさんには、なによりもまず最初に会得してもらわなければいけません」
 「右手をご覧ください。あちらにお手本を用意しました」
 「かれはオレらと同じ三年生です。この応援が歴代部員の中でも完璧すぎると褒め称えられています。今日は歓迎を兼ねて、特別に平均台の上でやってもらうことにしました」
 「いやー、毎年技術が上がっていますね。それではみなさん、曲に合わせて手拍子をお願いします」

 「――盛大な拍手ありがとうございます」
 「ほとんどオレらのだけどね。あ、嘘嘘。嘘だから怒んないで」
 「ちなみに先程の部員からコメントが届いています。なになに?『応援ばかりがうまくなった。今年こそスタンドから脱出してみせる。見てろよ』とのことです」
 「心あたたまるコメントですね」
 「青くなってるみなさん、心配しなくて大丈夫ですよ」
 「簡単だし」
 「体力つくし」
 「腰痛いけど」
 「対戦相手からすごい目で見られるけど」
 「茶化すなっ!えー、そして我が部では必ず一年生をレギュラーに入れることになっています」
 「しかも春の大会から!これはビッグな、ビッグなチャンス!」
 「応援席に立たずにすむ方法…それはレギュラーになること!」
 「現にオレは一度もこれをやっていません」
 「ずるいですね」
 「これが本来の力差だぜ!っと、一年生のレギュラー枠は多くても二人か三人ですが、可能性は平等に開けています。ぜひ勝ち取ってください。それにしても今年はやたら多いなあ。三倍くらいいるんじゃないか?」
 「去年優勝したからしょうがないですね。というわけで新入部員のみなさん」
 「生き残って、もとい一緒に頑張っていきましょう!」

35. そぅっと覗いてみてごらん

 音がしそうな勢いでまぶたが開いた。睡眠から一気に覚醒へと持ち上げられた意識がついていけず、しばしの間なにも考えずまばたきを繰り返す。そろりと左腕を持ち上げ、腕時計に目をやると、時刻はバスが出発してから、つまり寝入ってから一時間ほどしか経っていなかった。大あくびをひとつすれば、身体の中でかすかに残っていた眠気はすっかり消え失せてしまう。伸びをしたかったが、バスの狭い座席、しかも隣でひとが眠っていてはそれもかなわない。
 利央はひょろ長い手足を邪魔くさそうに組み替えて深く座りなおした。首を少し巡らせる。バスの中は静かだった。ほとんどの人間は眠っているし、起きているものも気をつかって黙りこくっている。
 エンジン音と路面からの振動に包まれ、(退屈だ)と利央は思った。学校に着くまでまだ一時間はある。もう一度寝ようにも、これだけはっきり目が覚めてしまうと難しそうだ。せめて隣の迅が起きていたらなにか話せるのに。隣の座席で、迅はぐっすりと眠っていた。目覚める気配はみじんもない。
 面白い顔でもしないかな。そうしたら写メ撮ってやろ。などと、利央の頭には勝手な考えが生まれていたが、迅にとって幸いなことにかれはあくまで普通の寝顔を通していた。実は利央の方が、座席に腰を下ろしたと思ったらバスが動く間もなく大口を開けて眠りはじめたので、迅が(のどちんこ見えてら)と素朴な感想を抱いたことをかれは知らない。
 しばらく観察していても、期待する「面白い顔」は一向に表われない。利央はしかたなく計画をあきらめることにしたが、と同時にさらに良からぬことを思いついていた。いまなら。いまなら初めて顔を合わせたときからやりたかったことが実行できるかもしれない。息を殺して身を乗り出し、迅の上に覆いかぶさるような格好になる。

 音がしそうな勢いでまぶたが開いた。睡眠から一気に覚醒へと持ち上げられた意識がついていけず、しばしの間なにも考えずまばたきを繰り返す。すぐ目の前には利央のくそまじめな顔、そして指がわきわきと動く両手がある。迅は、しばしそれらと無言で見つめあった。
 「あ?」
 「あ、あっはっはっは」
 「なんだよ?!なにするつもりだった?!」
 「起こしてごめんねー。オヤスミー」
 「寝たふりするなこっち向け利央っ!」
 こちらに背を向け、あからさまな狸寝入りを決め込む利央の肩をつかむ。と、迅の肩にも触れるものがあった。上の方から。
 「……」
 視線をやると、後ろの座席に座っていた部員が起き上がり、シートごしに不機嫌そうな顔をのぞかせていた。迅の肩をつついていた指を、すいと口元に当てる。(うるさい)
 ごめェん。小声で謝り、迅は静かに座りなおした。連帯責任者は、というと知らんぷりで微動だにしない。利央め。迅は口の中で毒づいた。学校に着いたらほっぺたでも引っ張ってやれ、と固く誓う。どうせ利央もそのつもりだったのだろうから。

 余談だが、その日駐車場で利央の両頬をつねる迅と、迅の波線状の眉をまっすぐに伸ばす利央の姿が見られたという。

24. 万有引力

 まもなく試合が始まる。ただの試合ではない、夏の地方大会、その最初の試合だ。ここから夏がはじまるんだ。そう思い、利央は背筋が震えるのを感じた。
 なあ迅、と同学年のチームメイトに声をかけようとして、かれが強張った顔つきでいるのに気づく。視線の先には試合前ノックにいそしむ今日の対戦相手、西浦の姿があった。共に一年生ながらベンチ入りしているとはいえ、先発という立場の重圧は控えの自分と度合いが違うのだろう。そのことにすらわずかな羨ましさを感じつつ、利央は口を開いた。
 「西浦かぁ。やっぱ全員小っせーよなあ」
 「そりゃお前から見たらみんな小さいだろ」
 自分よりも頭一つ高い位置にある利央の顔に視線を向け、迅が言った。意外にもその声に緊張の色はない。利央は拍子抜けしたものを感じ、ついで力をほぐしてやろうなどと柄にもないことを考えた自分に腹を立てた。
 「ンだよ。変な顔してっから試合が怖いのかと思ったじゃん」
 「怖がってなんかねえよ!」
 全員一年だとよけいにひょろいよな、と胸を張る迅。いやお前も一年生だろ、っていうかカラダも大して変わんないし。そう利央は思ったが、自身が上背のあるぶん、上級生からは散々細いだのモヤシだのとからかわれることを思い返してつっこむのはやめておいた。
 「じゃあなにをガン見してたんだよー。あ、もしかして目からビームでも出すつもりとか」
 「バカ違げーよ。…なあ利央」
 不意に迅は声をひそめた。そのあまりに真剣な表情につられ、利央も肩に力が入る。
 「向こうの監督、すげー胸でかくね?」
 間。
 「うわバッカ!バカだ!すげーバカがいる!」
 おもわず利央は声を張り上げてのけぞった。
 「バカじゃねえよ!気になったんだからしょうがねえじゃん!あれは見るだろ、見ちゃうだろ人として!」
 「普通そんなこと気にしないっての!あー心配して損した!っていうか逆に心配になった!」
 「なんでオレが心配されんだよ意味分かんねー」
 「そーゆーこと考えてたら相手にも舐められるって、絶対!迅はさぁ、もっと和さんとか見習えよ」
 ほら、と利央が向いた先では、和己と慎吾が神妙な顔つきでなにごとかを話しあっている。グラウンドから目を離さないのを見ると、相手校の様子を観察しているのか。さすがに迅は気が咎めたようで、うっと言葉に詰まった。
 「だろ?三年ってやっぱ見るところが違うよねー。そりゃオレも見ちゃうけどさ、あれは」
 「…お前ひとのこと言えねえじゃんか」
 二人は知らなかった。
 「正直に言えよ?」
 「ああ?」
 「オレはIカップは固いと思う」
 「それで足りるか?ひょっとしたらもっと…」
 「いやいやきっと…」
 尊敬すべき三年生は百枝のバストサイズについて真剣に議論しているということを。