28 菜の花沈丁花








 江戸近郊で天人の船が落ちた次の日だった。それに乗じたテロを企てる反乱分子を集団で検挙した。他の隊士は皆パトカーに乗って帰ったが、土方と沖田はその足で松平に報告に向かった。その帰りだった。
 建物を出て数歩で春一番を思わせる突風が土方の髪を乱し、砂嵐が目を打った。朝から寝不足の目にも爽やかに晴れていた空は、今は灰色に冷たかった。
「うわ、すげえ風だ」
 沖田が感心したように大袈裟に溜息をつき、歩調を緩めた。
「おい総悟、早く帰んぞ雨になる」
 生温い風に土方は顔をしかめたが、言ったそばからアスファルトに黒い染みができた。ぽつぽつと曇った空から雨が落ちる。
「すぐ止みますかねェ」
「さあな」
 屯所までは普通に歩いてあと十分、小降りのうちに急ごうと土方は足を早めた。行き交う自転車の群れは色とりどりの傘を広げ、忙しない。
「天気予報見なかったんですかィ」
「そんな暇ねえよ」
「役立たず」
 沖田は悪態をついて鬱陶しげに濡れた髪を引っぱった。
 雨は止むどころか益々酷く勢いづいた。このままでは一分で濡れ鼠に間違いない。
「どーするつもりですかィ?」
 濡れても雨宿りでもどっちでもいいと寧ろ決めあぐね、沖田は雨に打たれるままに任せている。視界の隅で草が風に煽られている。
 土方は舌打ちして走り出した。近くに軒のある建物は見つからない。
 肩が濡れそぼったあたりで、ようやく人気のないガレージの軒下に駆け込んだ。そこでも大粒の雨が斜めに叩きつける。
雨脚は収まるどころか、ますます激しさを増している。
前の民家で鯉のぼりが泳いでいた。風にポールがしなり、身をくねらせ、空を、灰色の水を泳いでいる。生きたもののように、吹流しが暴れている。
光が分厚い雲の中に走った。しばらくしてごろごろと雷鳴が遠くで轟いた。
少しずつ、雷鳴が近づいてくる。光と音の間隔が狭まった。
「……近いな」
 土方はひとりごちた。総悟は黙っている。
 昼だとは思えないほど、空は暗い。手元も暗い。その中で眼球に突き刺さる黄緑、萌緑、菜の花の黄色。ガレージのアスファルトを食い破って雑草が生えていた。その猫の額ほどの地面に菜の花が咲いていた。
鯉のぼりは相変わらずぶるぶると揺さぶられている。空気に、雨に風に、水の底のように。
 そういえば昔、道場にも近藤が嬉しがって買ってきた菓子屋のちゃちな鯉のぼりが呑気にはためいていた。菜の花を背景に風を受けるそれは、総悟よりも寧ろ、世の中の動きに鬱屈せざるを得なかった若者たちを喜ばせた。
 総悟は大きな目で、わずか十年ほど前を懐かしがる彼らを見ていた。
 愛くるしい顔で無邪気に菓子をほお張るくせに、一丁前に敬語を使う。今よりもっと可愛げのない子どもだった。
 剣は、子どもと思えない冴えを見せた。近藤が、舌を巻いていたものだ。あの頃は力負けしてよく竹刀を飛ばされ、痺れる手を摩っていた。が、その分狡猾に立ち回ることを学び、身体が成長するにつれて、もうじきに道場の大半より強くなるだろうと土方は確信していた。
 そんな総悟を連れて、土方はよく散歩がてら出かけた。行き先は一番近くの煙草屋で、道場の周りの畑をぐるっと回って帰ってくる。畑ではその頃、所狭しと菜の花が咲いていた。
自分の背丈よりも高い菜の花の中に埋もれて、ちらちらと総悟の髪が見え隠れする。土方は手持ち無沙汰に煙草を銜えた。日差しは暑い。道場からは煙るような黄に見えた菜の花は、近づくとべたべた光を照り返している。
「あ、雀」
菜花をかきわけ、総悟がぴょこんと顔を出した。
花を食い散らかしていた雀が、声に驚いて羽ばたいた。
「おてて繋いで、って歌知ってますかィ?」
 頷くと、総悟は土方を中心にくるくる回った。
「あの歌二番、花を摘んで挿したらみんな可愛い兎になるらしいですぜ」
「近藤さんが言ったのか」
 しゃがんで問うと、総悟はそれには答えず土方の結い上げた髪を引っ張って土方の目を自分に向けた。総悟の瞳に、菜の花と土方が映る。
「あんたも、挿せば兎になるのかなぁ。目つき悪い兎」
「バカ言え、菜の花は後で油取るために栽培してんだ、やたらと摘むんじゃねえ」
 ふうん、と分かったように呟いて総悟は土方が煙草を吸い終わるまで待っていた。
「寒くていけねぇや」
総悟が小声で言った。現実に引き戻されて首を向けると、総悟は前髪から水を滴らせていた。寒そうに首を竦めている。首元から覗く白いシャツが透けて張り付いていた。
 土方は何か不意に、途惑った。反射的に目を逸らす。何に対して途惑ったのか分からないで、視線を戻すと、また、得体のしれない感情が湧き上がって土方を満たした。もやもやする。見てはいけないものを見たような居心地の悪い、それでいて誇らしいような、気持ち悪いものだ。矢車がからから鳴る音がここまで聞こえるような気がした。
 総悟は菜の花を撫でて一人遊びを始めてしまった。背は伸びたが結局自分を抜かさないままかと思うと、一層その感覚は強くなった。それは、嗜虐心にも満足にも似ている、そこまで気づいて本能で土方はそれに蓋をした。
 止まない雨に意識を向ける。走るか、と覚悟を決めつつ人通りが絶えた道路を見やれば、屯所とは逆方向から真っ黒な雨合羽に黒いゴム長靴を履いた男が歩いてくる。土方は、たかが通り雨に何だその重装備はと呆れたが、
「あ、近藤さん」
よく見ると、総悟の指摘どおり近藤だった。
「トシ、総悟、迎えに来たぞ」
真っ黒の蝙蝠傘を指し、透明なビニール傘を提げて近藤は楽しそうに笑った。
「あんた、屯所にいるんじゃなかったんですか」
 げんなりと土方は肩を落とした。
「ははは、まあ、ちょっとな、お妙さんを見かけたもんで家まで送ろうと」
「近藤さん、その格好気持ち悪いてるてる坊主みたいでさァ」
総悟は表情を変えず毒舌を吐いたが、近藤は何が嬉しいのか笑いっぱなしで総悟と土方の肩を叩く。
「はっはっは、総悟はうまいこと言うな。な、トシ」
「知らねえよ」
そっぽを向いた土方に近藤はまた豪快に笑い、仕方ないので彼を真ん中に二つの傘に三人で入って帰った。


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