29 デルタ |
筧は照りつける炎天下、することもなくどこかの家の朝顔が門扉に巻きついている様を見ていた。ひらがなで名前が書かれたプラスチックの鉢植えの土は固く乾いている。支柱は既に葉とつるに覆われて、両開きの門の片側が侵食されている。青い花は萎れて緑も生気を失っていた。そこかしこの家のプランターに小さな向日葵だの真っ赤なカンナだのが猥雑に咲き乱れている。 水町は忘れ物をしたと言って学校に駆け戻って行ったきり、まだ姿を見せない。 昔ながらの小さな商店街の途中の裏通りを進んだところで一人取り残されて、筧はまた手持ち無沙汰に周囲を見回した。ゆらゆらとアスファルトが溶けて空気が揺れる。 高校のある高層ビルの立ち並ぶあたりとはまるで違う。練習も四時までしか出来ない夏の短縮授業期間に入って三日目、水町が珍しく自分の家に誘ってきた。 もうすぐ着こうかというところで、焦った水町が家の鍵を忘れてきたといって駆けていってしまったのだ。 待ちくたびれたと筧は日陰を探し、商店街へ戻りかけて少しの異変に気づいた。 さっきまで聞こえていた人の声がない。姿も見えない。 通りに面した家では扇風機が回ったままだし、どこからかテレビの音も聞えてくる。それなのに、なぜか人の気配がしない。 そここの縁側では団扇が転がっていたり、蚊取り線香が焚かれたままになっているのに誰もいない。 無性に喉が渇いた。 気になった筧は、自販機を探すという名目で自分を納得させ、途中の自販機をやり過ごして商店街まで戻った。 真っ先に目に飛び込んできたのは、釣銭を入れたかごだけが伸び縮みしている青果店だった。 誰もいない。 熟れた桃の甘ったるい匂いがそこら中に満ち、みずみずしいブドウや枇杷に西瓜、青いメロンもそのままに、一瞬にして消えてしまったかのようだ。 特価販売されているバナナのワゴンは店先からはみ出して、店じまいとは到底様子が違う。 八百屋も肉屋も小間物屋も、さっきまで人がいた気配があるのに、商品を並べて店もそのままに先刻確かに見かけた人の姿だけが忽然と途絶えていた。一瞬にして消えてしまったかのようだ。 日向では日差しがきつく髪が熱を吸収している。 今ここは人のいない町だ。 やけつく光線に思考力が奪われていく。悪寒がした。 自販機まで戻り、適当にボタンを押して、筧は冷たいしずくを垂らす清涼飲料水の缶を取り出した。 咽喉を通りすぎていく冷たい液体の触感に筧は溜息をついた。たちまち汗が滲んでくる。 蝉時雨が聞える。ラジオがノイズ雑じりに歌っている。そういうものは確かにここにあるだけに悪い夢のようだと思った。 蒸した空気がアスファルトの匂いを漂わせてくる。ようやく筧は道が濡れていることに気づいた。誰かが打ち水でもしたのだろう。 小さい水たまりが足元に出来ている。軽く飛び越えられるほど小さくても、それは空を映していた。入道雲が、実際より鈍く輝いている。その灰色は筧に水族館の水の暗い揺らぎを思い起こさせた。 「?」 何かの影がよぎった気がして、筧は水溜りを覗き込んだ。雲ではない何か、もっと量感のある丸くて光る。 ぱしゃん。魚のはねる音。 音が意識から消える。 筧は息を呑んで目を疑った。水たまりが映す中で、魚の群れが泳いでいる。 どう考えてもありえない。思考が麻痺したまま、筧は思わず足を出した。スニーカーが浅い水を突っ切って、アスファルトを踏んで濡れる。 水面は乱れきり、魚たちの像もぶれてゆがんだ。しばらくすると筧が起こした波紋は収まり、水たまりが映す空で、魚たちは何事もなかったように泳いでいる。 目を見開いて、筧は水たまりに釘付けになった。腰を落として覗き込む。 銀色の腹を見せて泳いで細長い魚の一群が展開する。 ふと、頭上をまた何かが通り過ぎた気がした筧は、上を見上げて今度こそ絶句した。 空中を魚が悠々と泳いでいる。 水たまりの中と同じ銀色の魚の群れが筧の頭の上を、まるで水の中と同じに泳いでいる。 よろよろと立ち上がった筧の周囲で、魚はどこからともなく現れ増え続けた。 銀色、青色、赤、黄、黒。大きいものから小さいものまで、エイから熱帯魚の群れ、深海魚に至るまできらきらと鱗が光って明るくなった。 呆然と眺めているうちに、魚たちはますます縦横無尽に空気の海を泳ぎまわる。 商店街の一角だけに現れていた魚は既に通りを溢れていった。 触ろうと手を伸ばしても、筧の手をすり抜けていく。 小さな青い魚の群れがざわわと見事に動きを揃え、壮大な銀色が行き来する。 水族館にいるより海にいる。空気までも青く水を含んだようだった。音がしない。 中に一匹、橙黄色の魚が筧の目を引いた。 背鰭のぎざぎざの切れ込みと色が、水町の髪を連想させた。 どこかとぼけたような目も少し似ている。 筧は知らず口元を綻ばせた。魚は筧にちらりと目をやり、すいすいとさっき水町と別れた路地へ入っていく。 気になって追った筧の額にぽつりと冷たいものが当った。 見上げる間もなく、バケツの水をぶちまけたような雨がいきなり地面を叩き出し、それに打たれた橙色の魚は手を伸ばした先で跡形もなく消えてしまった。振り返ると、他の魚たちももう見当たらない。夕立だ。 筧は屋根の下に戻ることも思いつかず、雨に濡れてつい今の今まで魚たちが泳いでいた空中を見つめていた。 不意に音が戻った。 ばたばたと突然の雨に洗濯物を取り込む音、雨だと忙しなく知らせて回る声、埃が浮き上がる雨の匂い。 元通りの町だ。 日に灼かれて萎れていた雑草が、みるみる勢いを取り戻す。 筧は虚脱したようにそれをぼんやりと眺めていた。 頭上から叩きつける雨の勢いをそのまま受けているうち、どうにもならないほど濡れて、いっそ爽快だ。 「筧!」 叫ばれて筧はようやく我に返った。 「悪ィ、マジごめん!」 筧と同じくびしょ濡れの水町が猛烈な勢いで走ってくる。 「うわっ、ずぶ濡れじゃん筧!」 「あ、ああ。」 「ゴメン!急いだんだけどさ、ってかマジごめん、」 「別に構わねえよ」 手を合わせて謝る水町に、ようやく筧はまともな言葉を発することができた。 「おまえだってひどい格好だ」 「あー、気持ち悪ぃ。シャツびたびた張りつくしもう脱いだ方がいいよな、筧も脱いだら?」 あっという間にシャツを脱ぎ、水町は空を見上げてうんざりしたように眉を寄せた。 「マジ最悪!もう止んだし」 水を滴らせながら水町は筧の横に並んで歩き出す。雨雲など疾うになかったような夕焼けが広がり始めていた。 「あー、でも良かった。夜店出るよちゃんと」 「夜店?」 「そう、俺んちの近所今日何かの祭あって夜店出るんだって。町内会とか青年団とかでイトコの兄ちゃんが手伝ってくれって言うからちよっとだけ手伝うけど、その後一緒に回ろ」 「最初からそう言え」 早口で告げられた言葉に、筧はぶっきらぼうに返して先を歩き出した。頬が熱い。 「……今までどこにいたんだよ?」 追いついてきた水町に問うと、 「……さあて、ね。」 そのときだけ水町はひっそり笑って筧の手を引いた。 そして二人とも夕焼け色に染まって歩いた。 |
水町には妹がいたりしたら萌え。 そしていっそのこと、筧にとって水町はこのくらい謎であるといい。 そして珍しくファンタジー風味で(こんなの筧&水町じゃない)。 二人は勝手に出来上がり勝手に甘くなりました。何これ。ちなみに、魚は、一応モデルがいますがあんまり似てないので黙ります。 |