45 年中無休










 今日は暑くもなく寒くもなく風が気持ちいい。
 桜庭は、窓から中途半端に引かれたカーテンを揺らして入ってくるそれにあくびをかみころした。
 昼休みが終わってからの授業はたたでさえひどく眠たい。
 クラスの一番後ろ側の席は、実際以上に教壇が遠く感じられた。ぼそぼそと漢文を解説する痩せた中年教師の声は、枯れていて聞く者に相当な努力を払わせている。
 早々に授業を聞くことはあきらめ、桜庭は周りを見渡した。
 誰も通らない廊下、突っ伏して眠る背、うとうとと舟を漕ぐ肩、携帯を打つ手、明るい光が教室全体をあたためている。
 眩しいくらい鮮やかで光を透かしていた新緑も、そろそろ落ち着きだした。教室のある二階を見下ろして伸びる桜の枝が、窓際の、ちょうどカーテンを引いていない窓際の床にゆらゆらと影を落としている。
 窓際から二ばんめ最後列の自分の席で、桜庭は自分の足のあたりで揺れる光を眺めた。
 睡魔が忍び寄る。
 このまま寝たら気持ちいいだろな。
 思って頬杖をついたとき、ぐおうぐおう、妙な音が聞こえた。
 眠いので余計に慌て、桜庭首を振り辺りを見回した。
 誰のいびきというわけでもない。
 自分の他にその音に気を払うものはいない。
 気のせいかな。
 思うとまた、ぐお、ぐお、と聞こえた。
 一体何だ。
 放っておけばいいと思いつつ桜庭は回らない頭で思考をめぐらした。
 音の発生源は教室ではないらしい。
 なら外からの音だ。
 それだけのことを考えるのに数分を費やし、桜庭はそっと窓の外を見た。あまり覗き込むようにすると隣に変に思われるから耳の神経だけを窓の外に集中させる。
 あらためて注意を払うと、確かに音は外の、下の方からだ。
 何があったっけ、と思う。
 桜庭の席からはちょうど地面すれすれまでしか見えない。
 今頃鳴く動物は何だろう。
 ああ、そっか。
 蛙だ。
 うしがえる。
 のんびり、にはほど遠く唱和する蛙の鳴き声に、桜庭はどこか緊張した。
 昔ながぐつ履いて皆で探検した池の端で、丈のある草の中で姿を見せずに鳴くうしがえるは怖かった。池で遊んではいけないと言われていたのに、ここからは行ってはいけないと自分たちを遮るフェンスを桜庭たちは時々登って越えた。その先には立つ場所も大体地面もなく池の濁った水面があるだけだったが、フェンスを伝って向こう側へ、足を伸ばせば靴の先に水が触れるというそれだけでスリルに満ちていて興奮した。誰でもフェンスを登る勇気があるというわけでは無かったから、登れることは小学生男子にとって一種のステイタスだった。女の子たちは危ないからやめよう、と言って心配し、それを聞いて自分たちはますます背に向こう見ずにフェンスに足をかけた。体重で揺れる不安定なそれは、手に汗をかかせたし、途中で飛び降りる子も多かった。大人に見つかればこっぴどく怒られたから、ほんとうにその最中は気が気でなかった。そういうときうしがえるが不気味に鳴くとびくっとする背を必死で押さえた。
 でも何でみんなあんなに一生懸命やったんだろ。
 今まで思い出すこともなかった記憶が不意によみがえって、桜庭は息をついた。
 言葉にならないけど、何となく分かる。
 ちらちらと足元で揺れていた光は、いつのまにか机の上で遊んでいた。
 太陽が角度を下げている。
 太陽の方向を見ようとして、桜庭は固まった。
 窓際の前から五列目。
 ちょうど進の前のあたりで薄いクリーム色のカーテンは終わっていて、風は快いと感じるくらいには強かった。
 ひるがえるカーテンに半ば埋もれて授業を受けている二つ斜め前の進の横顔。
 また風が吹いてカーテンがはためく。
 今度は進だけが教室から隔離された。
 吹き出しそうになってみていると、手がカーテンをのけ、中から相変わらず表情を動かさない進が現れた。
 我慢できずでも声は殺してぷぷ、と腹筋で笑った。
 目が離せない。授業も眠気もそっちのけで桜庭は進に注目していた。そうして見ていると、数分に一回はそれを繰り返す。
 そのうち進は窓の外にカーテンを出してみたが、それすら風は無視してカーテンで進を取り囲んだ。
 どうしようもなくなったという風に、カーテンの波の中でほんの少し眉をひそめながらノートをとり続ける進は綺麗な姿勢を崩さない。
 カーテンそのものをどかせばいいのにと思ったが、桜庭の机の上の光はなかなか強烈でこれをじかに浴びたら熱すぎるだろう。
 よく見ると、進の首筋に汗が滲んでいた。桜庭はかすかに息を飲んだ。桜庭は逆にさきほどからの風で手足が冷えている。
 自覚した途端、うしがえるの声だと思い当たったときのような緊張で胸のあたりがしめつけられた。
 ずっと見ていよう。
 それから授業が終わったら進の机までいってカーテンのことを笑って、それから蛙が鳴いてたの知ってた、って聞いてみよう。
 知らなかったら二人で窓から地面を覗いてみたりしよう。
 机の上は相変わらず眩しく光が遊び、桜庭はその熱で冷えた手をあたためた。
 教室の壁にかけられた時計は授業の終了まであと十五分を指している。
 チャイムが鳴るまできっと泣きたいほど幸福だと思った。



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