63 でんせん








 あれから数年が経った。
「獏良くん!ここにいたんだ、みんな捜してたんだよ!」
 王家の墓からの帰りに立ち寄ったスークで獏良がふらりと姿をくらませてから三十分。遊戯が見つけたとき、鶏の糞や埃に物の腐る臭いが何種類も混ざり合った市場の片隅に、獏良はじっと立っていた。物乞いも観光客目当ての売り子も寄せ付けない、拒絶しか知らないような空気を纏ってただ佇んでいた。
「ねえ、遊戯くん」
 駆け寄ってきた遊戯を真直ぐ見据えたまま一言も謝らないで、獏良は逆に問いかけた。
「結局何だったんだろう彼は」
 静かにそして歌うように軽やかな調子だった。視線はすでに遠くに外れている。
あれから数年の間、獏良は一言たりともバクラのことを口にしなかった。なかったことのように振舞っていた。
「消えたんだよね、きっと。もう一人の遊戯くんとの闘いに破れて。あれはもう一人のぼくなんかじゃなかったから。」
「……獏良くん、」
 イシズに招待された今回のエジプト旅行に獏良を誘ったのは遊戯だった。
 久しぶりに会った獏良は少し背が伸びて骨格が青年になった以外、少年の頃の肩の薄さも痩せた身体も綺麗な笑みも変わっていなかった。ただ、無口になっていた。
 エジプトに入ってからはますますそれが酷くなり、王家の谷を訪れる前夜からは、遊戯が話しかけても気鬱の滲んだ笑みが返ってくるだけで、獏良は殆ど何も喋らなくなっていた。
「でもぼくに言わずに消えるなんて、憎んで憎んで負けて消えるなんて」
 迸る激情を堪えて堪えきれなくなったその奔流が獏良に口を開かせた。囁くような恨み言は、魂の悲鳴で否応なく遊戯の胸を抉った。そしてどこか焦点の合わない遠くを見つめたまま、獏良は涙を流した。確かに笑顔であって、口元はいつものように綺麗に笑みを形作っているのに、目からは睫毛を濡らして絶え間なく透明なものが滴っていた。
「ぼくには彼しかいなかったのに、ぼくには彼だけだったのに!」
 四年持ち堪えて漸く決壊した慟哭だった。
 その悲働を、獏良は誰にも伝えようとしていなかった。手は小刻みに震え、戦慄いて、それを彼は俯いて握りしめようと必死だった。笑みと裏腹なそれが頼りなくて、稚さの残る細い手首を遊戯は掴んだ。獏良は瞬間遊戯の手を振り解こうと抵抗して、すぐに項垂れた。色素の薄い髪が幾筋か、射殺すほどの眼差しを隠そうとして乱れ頬にかかった。
「ぼくの身体を、もうずっと彼は勝手に使っていた。ほんとう、遊戯くんたちにもいっぱい迷惑かけたね。でもぼくは、それを憎んで怯えてもう愛していた」
 その告白は、懺悔のようであり、宣言のようでもあった。懐古のようでもあった。
 夕陽が影を延ばしていた。地面に積まれたペットボトル入りの水を、店先に掛けられた光る金物を、遊戯は視界の端で捉えた。煙草が乱雑に台の上に散らばり、得体の知れない果物が熟れる、ハイビスカスの乾燥した花が秤にかけられる。誰も獏良を見ない。しつこいはずの物売りは素知らぬふりで市場の人間と世間話に興じていた。
 獏良は生活の横切っていくのを無視して目線を上げ、いつものように笑んだ。
「消える前の最後の記憶が、デブのバカだよ。滑稽で仕方ない。……こんなの、遊戯くんに言える筋合いじゃないんだけど」
 髪も地面も、肌も白かった。
 数時間前までそこにいた、死者の対岸を遊戯は思い出した。
 ロバに引かせた草を積んだ荷車と時々行き合う外は、トウモロコシを栽培している畑が延々続き、バスは荒れた土にタイヤを踊らせながら 進んだ。生きたものの気配は、丈の高い緑にも関わらず皆無に近かった。埃と相俟って白い、砂の中の廃墟は、今でも墓と呼ぶので精一杯だった。
「遊戯くん?」
 遊戯は詰めていた息を、長く吐いた。ほんの少し赤い目尻からは、まだ堰を切った涙が溢れるままになっている。遊戯は、重ねたままだった手はそのままに、もう一方の手でそっとその涙を拭った。
途方に暮れたように白い顔は、塵芥に薄汚れていた。
 盗賊の村は、続いている。
 砂の中に点在する煉瓦作りの家と、空を分断する電線でそれと分かった。
 電線は、砂漠をひたすら縦断するのだという。南に向かって、道路沿いに。
 遊戯の手を握りしめたままひとしきりすすり泣いた後、獏良は頼りなく澄んだ声で、「つ〜きの〜つば〜くを〜」と童謡の一節を口ずさんだ。
「月の砂漠は、エジプトじゃないらしいけど、でも、こんな世界にあいつがいたらいいのに、って思うんだ」
 獏良の哀しみはようやく滾々と流れ出し、凍っていた感情が獏良の中で溶けてゆく。
 獏良は再び脈打ち始めた想いを噛み締めるようにはっきり発音した。
「……やっぱり好きだよ、今でも」
 そこには誇りと諦めもいっしょくたになって混ざり合い回転している。
 遊戯は口を引き結んだ。
 揚げられたままの魚が悪臭を放ち、山羊の群れが市場を駆け抜けていった。






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