68 蝉の死骸 |
やたらと目に痛い太陽の照射。流れるせせらぎに光彩は乱れ散らばる。 木暗れの影は点々と濃い。 みぃんみんみんみんみぃ、みぃんみんみんみんみぃ。 はじめ耐えられないと思った蝉の声に、ゆっくりと耳が麻痺していく。そうすると、そこには静寂が詰まっている。熟れた果実のような息苦しい量感で迫ってくる。圧されるように如月はようやく足を止め、ハンカチで額の汗を拭いた。 飛水の本家に近い京都の山中だ。例年通り人は如月の他無い。 盆の帰省といえばそれらしいが、そんなものはとっくに上手くない口実に成り果てていた。 みぃんみんみんみんみぃ、みぃんみんみんみんみぃ。 みぃんみんみんみんみぃ、みぃんみんみんみんみぃ。 幾百の蝉の気狂いじみた蝉噪は、空間に噛み付き砕きたいと言わんばかりで、如月まで無意識のうち狂おしくさせる。如月が現在立つ日向は直照り、うだる暑威に支配されている。身動きせずとも、浅い呼吸のたびに汗が項を滑ってゆく。 雲の羽衣蝉の羽の、薄き手拭暑き日に。貫く汗の玉造。 ふとその文句が意識に上った。何で聞いたのだったろう。頭の隅で考え始めると、気づいたときには胸元のポケットに手を伸ばしており、如月は一瞬の静止ののち元の通りだらりと腕を下げた。 東京では警戒心もなく鳴いていたこの蝉の声は、西では少し山の方に入らねば聞くことがなかった。 十メートル程先の流れはちょうど山の陰に当たり、水は冷たいのだろうが、二時間歩き通してねじが緩んだか、足を進める気にはなれなかった。 代わりに、手近の木にもたれ、如月はその僅かな蔭にずるずると行儀悪く座り込んだ。背中にあたるごつごつとした木肌が火照った身体を冷やしてくれる。休まる。 ほうと息をついて、如月は白い陽射しを見上げてしまった。眩しすぎて目を瞑る。 みぃんみんみんみんみぃ、みぃんみんみんみんみぃ。 瞼の裏では蝉に呼応でもするように赤や緑が跳ね回る。 蝉の雨に打たれながら如月はもう一度頭の中で先の一節を繰り返した。 雲の羽衣蝉の羽の、薄き手拭暑き日に。 ああ、曽根崎心中だ。 思い当たって目を開けば、世界は必要以上に光に満ち溢れていた。くらくらと視界が暗くなった。 今年の夏も、見ることになるだろうか。彼らの心中を。 ……ひどく、暑い。 影は幾分伸び始めたが、夕刻までまだ随分と間がある。登り始めが正午過ぎだったことを考えると、やはり今が一番気温が高い。 如月は再度ポケットに手をやり、今度は煙草を取り出し火を点けた。ラークワンのパッケージの灰色は、天然光の下では色褪せ鈍く反射する。それが気に入ってここに来るときは毎回この銘柄に決めていた。 いつからか、足を向けるには煙草が必要になった。そして年を追うごとに本数が増える。あるかないかの風が頬を撫でる。煙がゆらゆらとなびいた。 時間をかけて、ゆっくりと一本目を吸い終わる。まだ早い。如月はいがらつく咽喉で二本目を抜き取った。 そうして影が指の関節一本分ほど伸びていく間、思い出が滲んでは消えていく。二本目の煙草を消費したとき、みぃんみんみんみんみぃん、みぃんみんみんみん、 じぃぃ。 一斉に蝉の声が、止んだ。 一つ向うの木蔭で空間がたわんだ。ひんやりとした山の気に、如月は身を震わせた。 蜃気楼のように、目の前に、あの頃の龍麻と壬生が現れる。 こちらからでは、表情は陰となって見えない。まだ頬に幼さが残って見えた。 二人は黙って目を伏せ、ちらと幸福そうに笑う。腕を互いの身体に巻きつける。そして、龍麻が壬生の背に回した手で鳳凰を打つ。同時に壬生が刃物を龍麻の背に突き立てる。 そのまま、二人は祈るように崩れてゆく。そして、離れず、折り重なり落ちる、絡まり合って倒れ込む直前、ふつり、彼らは消える。 時間にして数十秒、それを如月は食い入るように凝視した。 暑いせいばかりでない汗が、背中に貼り付いている。 みんみんみんみんみいぃ。 蝉が何事もなかったように鳴き騒ぎだした。姿は見えない。 もうそこには何もなかった。彼らの幻は跡形もない。 眩しい緑。一面の緑。 目を閉じ、再び開くとそこにはもう面影ひとつ留めていない。沈黙が、再び喧しい蝉に埋め尽くされる。 白い光線に透かされた緑、鮮やかで暗い緑が目を開くと視界を埋め尽くす。緑以外の色は緑に殺されている。立ち込める草いきれに息が止まる。 植物と地面だけが色を主張して澄んで冴えている。暗緑、草緑、深緑、青い空は見えない。 息をつめてそれを確認し、如月は立ち上がった。もう一本煙草が欲しい。 背を向け、そのまま立ち去るには少しばかり年月が経ち過ぎていた。如月はその場で三本目の煙草を取り出した。惜しむように。 厄介なものだ、と慣らい性になった溜め息を落とす。それが少し笑んでいるように聞こえて、それこそ苦笑した。 みぃんみんみんみんみぃ、みぃんみんみんみんみぃ。 耳をふさいでも、蝉の声が鳴き止まない。 蝉が見せる白昼夢かもしれなかった。こうして、いつも。 何度行くまいと決めても、まるで魅入られたかのように、如月はこの場に立ってしまう。 最初は、偶々彼らは何を見たのだろうと暑さと感傷にやられた頭での酔狂だった。一年経てば否が応でも記憶は薄れる。見たものに息を呑み、突っ立っていることしかできなかった。次に、目を離せなくなった。そして、毎年来るようになった。今は、疲れている。 おそらく、言うならばこれは、あまりに蛇行した流れが真っ直ぐになるとき、切り離されて残ってできた三日月湖のようなものだ。 あまりに強い感情を浴びて、時間から切り捨てられて閉じられた小さな記憶の環が、この心中だ。それが行き場を失くしている。 龍麻は、あの頃、恋をしていた。周囲からはそう見えた。しない方がましだと思えるような。そのときの彼らは、鬼気迫るものがあった。 如月がまだ十八の夏、龍麻と壬生は行方をくらませたことがあった。三日の間。 大学は休みで、本来なら誰もそれに気付きもしなかったろう。何の気なしにかけた誘いの電話を、普段と変わりなく壬生は取った。 「ああ、如月さん。どうしたんですか」 「面白いものが入ったんだ。よければ家に来ないかと思ったんだが、今外かな」 入る嵐のような雑音にたずねると、くすくすと滅多に無い壬生の笑い声がそれに紛れ、 「正解です。今ね、ちょうど血のような夕焼けが海の向うに沈むところなんです。」 酔ったような饒舌が続いた。電波が悪いと思わせたのは波の音なのかと理解した途端、背を悪寒が這った。 「あなたにも見せたいな」 「壬生、君今どこにいるんだ!」 冷静さをかなぐり捨てて如月は怒鳴った。 「今、ですか、あ、」 答えようか思案する壬生の声が小さく驚きを露にして遠くなり、もう一つの気配がもしもしと言って寄越したので、携帯を横から奪われたのだということが分かった。 「相変わらずだな」 笑いを湛えた声に、如月は息を呑んだ。そんな予感はあった。 「……」 「聞こえてるんだろ」 「……龍麻」 とうとう、観念して如月は相手の名を呼んだ。 「よお、久しぶり」 忘れた頃にふらりと如月の前に現れては気軽に言ってのけるいつもの挨拶が返ってきた。いつもと同じく、その中に懐かしさとでも言うに近い龍麻の思いを如月は読み取った。 「君たちはっ、何をしようとしている!?」 「ちょっと旅行してるだけだって。」 そんなに心配するなと宥める龍麻の声は、相も変わらず心地よかったが、如月は何となく、龍麻の無理を感覚的に悟り、息を呑んだ。 「本当この夕焼けおまえにも見せてやりたい。じゃあな、充電が切れる」 「龍麻!!」 「すぐ帰る」 プツ、ツーツーツー。 呆気なく、どこか遠い場所を繋ぐその線のような通話は切れてしまった。 慌ててかけ直しても、電源が切られたらしく空しいアナウンスが流れるだけだ。 如月は顔面蒼白のまましばらく愕然と手元の電話機に目を落としていた。 あの頃の龍麻と壬生なら、帰らな、それならまだしも、心中などといったもはや「無理」を冠することなく聞かないような話が俄かに現実味を帯びるのだった。そしてそれが時代錯誤に思えなかった。彼らを知る者にとって説得力をもって頷かせようとしてくる、如月は、それが恐ろしかった。 電話機を睨んだまま、束の間逡巡した。信じて待つべきか、それとも。 手が震えた。彼らは追われたいのか自由になりたいのか。 情報が集まりきる前に、如月は京都行きの新幹線に飛び乗った。あの場所が和歌山なら、それから彼らは京都に行くという確信めいたものがあった。 如月が肌にはっきりと覚えているのは、そろそろ夕暮れが兆そうかという頃の山の空気だ。そこに、如月は、何事もなかったかのように山を下りてくる二人と行き遇った。 「何だ、如月だったのか」 必死の形相の如月に目を見張り、龍麻は照れたように笑い、壬生も苦笑していた。山に入るには余りに身軽で、ちょっと近所に散歩といった風情だった。 如月はもうそれで何も言えなかった。 結局そこで何をしていたのか、二人は語らなかったがそれもどうでもいいと思った。死んだのだ。あのとき、彼らの恋が。 真昼の蝉時雨の中で、龍麻と壬生が抱き合い心中する。 それは現実にあったことでは無い。 彼らが、心中をしたというのは出鱈目だ。 無明に囚われて、彼らは彼らだけしか見ず、閉じられてそれを繰り返す。 現実の彼らが、歳を重ねてもそこは、ただひたすらその日をなぞるのだ。 思いの深さか執着か、何にせよそれは事実さえ捻じ曲げ、彼らは毎年同じ日に心中を繰り返して山に棲んでいる。 その様が幾度も再生されるのが、もしかしたら現実に生きている彼らの、望みなのかもしれなかった。 煙草が根元まで燃え尽きかけているのが目に留まり、如月は我に返って火を消し、足元に蝉の死骸が幾つも折り重なっているのを見つけた。 熱を篭らせる太陽は随分と傾いていた。 手は、冷えている。 かさかさ、一歩歩むごとに死骸を踏んだ。 山道に長く影が伸び、夕餉の匂いが無性に恋しかった。 蝉の叫び声の中で、彼らは真夏の心中を遂げる。 あの日、鬱蒼と茂った枝々に遮られて届く消えゆく光よりも、血液のような夕陽が海をぬらしたその日その場所を、できれば共有したかった。 |