夏になると、影が濃くなり、アスファルトの灰色はうすくなる。
 油絵の具の盛り上がりのように、倦んだ緑の、音もなくかすかに揺れ、ばかみたいに色がうすい逃げ水が見える。
 桜庭は坂道の途中で自転車から降り、滲む汗を片手で拭い、狭い道路のガードレールの向こうを見下ろした。そこからは、山と海に囲まれた小さな町の平地部分が一望できる。
 海岸線に程近く船の影があちこちにあり、水平線上をコンテナ船がゆっくり動いていた。昼の海は、恐ろしい青と灰色を交互に照り返し、細かい粒子状に眩然と光が跳ね回っている。波が三角に打っていた。夏が来たのだ。















サマー・サマー・ヴァケイション!!






















7/23

 狭い砂浜でビーチバレーに興じていた筧が、時計を見て一人輪から抜けて桜庭のいる岩場の方に走ってくる。岩場の近くにある、防波堤から砂浜に下りるコンクリの階段を目指して、筧が太陽の方から駆けてくる。そのふくらはぎに目を奪われ、桜庭は慌てて足元の潮だまりに目を落とした。
「行かねぇのか」
 岩の陰で座り込んでいる桜庭に気づき、筧は桜庭を見下ろした。軽く息を弾ませている筧の、額に浮いていた汗を見て桜庭はとっさに身を引いた。この岩場は、クラスメートたちが遊んでいる狭い砂浜の北の終りになっていた。筧の肩を見ないように、桜庭は答えた。バレーをしている筧の、綺麗な筋肉を見てはいけない。
「うん、今日はちょっと」
「……そうか」
 桜庭は海に入る用意もしてきていない。それを目に留めたが、結局筧は何も言わなかった。
 ぼんやりと筧を見上げ、桜庭は軽く目を見張った。
「駿はその格好どうしたんだよ、」
 筧は白いタンクトップにバミューダ丈の藍色の海パンだ。
「……ちょっとな」
 決まり悪そうに筧は目を逸らした。珍しい。筧は、生まれてからずっとこの町で過ごしているにも関わらず海で泳げない。それが、他所から来た同じく海で泳げなかった桜庭と仲良くなったきっかけでもあった。自分が目を逸らしたことに気づいて筧は不機嫌そうに眉を寄せた。その様子に、桜庭には思いつくことがあった。口を開こうとして、ゆるく開いた胸の辺りに目をやってしまい、健康的な色に焼けた肌に乾く唾を飲み込んで、ようよう桜庭は尋ねた。
「駿、もしかして最近一緒にいる背高い人と約束?」
「ああ、あいつが泳ぎを教えるってうるさくて仕方ねえよ」
 筧の背後に、入道雲が立ち上がり、灼けるような白い砂と青い海が目を射る。ぎらぎらした夏しかない。
「へえ」
 桜庭は九年前に越してきたときから一度も、泳ぐ筧を見たことがない。きっかけは間違いなく、夏休みに入る直前から見かけることが多くなったあの金褐色の髪の青年だろう。二人が一緒に夕方の海にいるのを桜庭は見たことがあった。懐かしいような、侵し難い雰囲気が二人を包んでいた。
「かけい〜!早く来いよ!待ってんだかんな!」
 思い描いた途端、タイミングよく大声が耳に入った。筧よりも少し背の高い青年がぴょんぴょん、右手の方幅の狭い防波堤の上で跳ねている。その跳んだ高さはゆうに一メートルを超えていた。
「何考えてんだあのバカ」
 青くなって赤くなって、それからぐったりと筧は項垂れた。
「うわ、運動神経すごすぎ!名前何ていう人だっけ?何してる人?駿より背、高いよな」
「水町健悟。イルカの調教師しててこれから、しばらくしてこっちに住むらしい」
 興味だけで訊ねた桜庭に、ゆっくり筧は答えた。
「へえ。社会人なんだ、大学生くらいかと思った」
「もう二十七だ。」
「マジで!?若っ」
 驚嘆した桜庭の反応に、筧が嬉しそうに口元を上げた。筧自身が気づいているのか知らないが、筧が喜んだことが桜庭は分かった。珍しい。
「かけい〜」
ぶんぶん手を振る水町に、筧は仕方なさそうに小さく手を挙げ怒鳴った。
「飛び跳ねるな!」
ええー、と不服そうな水町に待ってろ、と叫び筧は「じゃあな」と桜庭に背を向けた。そして数歩も行かないうちに思い出したように振り返った。
「春人、俺大学行くことにした。そんで戻ってくる。」
「え、ええ!?初耳なんだけど、駿!」
「詳しいことはまた話す。じゃあな」
 迷いのない足取りで歩いていく筧の肩を見送り、桜庭は俯いた。日射しが腕と髪を焼く。
 熱い。寒い。熱が肌に篭る。自己嫌悪が血管を駆け巡る。浅ましい。眠たくて堪らないときの、吸引力のような、落下するに近い快感の芽が這い出てくる。
 筧相手に、それを覚えてしまった。ずっと、ただの仲の良い友達以上の何でもない筧に。
 筧は小学校の頃からの遊び仲間で、進ほど無口でも頑固でもなく気が合った。
 進を特別視する桜庭にとって、適当に言い合える筧がいわゆる親友だった。その筧を、一瞬でもそういう目で見てしまったそのどうしようもなさと、桜庭がくだらないことに囚われている間に筧は将来のことを考えているという衝に、無防備な腹に拳を入れられた気がした。
 過疎が進む町は、水産物と釣り客、観光客でどうにかなっている。
 桜庭が転校してきた小学三年生の当時、既に高齢化は進行していた。それまで、衛星都市の勤め人が多い住宅街しか知らなかった桜庭は、年寄りの多さ若者の少なさに恐れさえ抱いた。
 まず一歩電車から降りて潮の匂いがする町だと思った。
 何時間も電車に揺られ、離婚した母親が桜庭を連れて出戻ってきた町は、時間が流れていないようだった。昼日中の死んだような人の少なさにも、田舎の熱く淀んだような空気にも、桜庭は恐怖さえ抱いた。
 お気に入りのスポーツブランドのリュックを背負い、遠くに見える海には見たことのない古びた船が舳先を並べていた。全く見も知らぬ場所に来たと体中が緊張に張りつめ、手に汗がにじんだ。
 桜庭は昨日のことのように覚えている。
 祖父母の家は藺草の匂いと古い家の匂いがした。
 初めて見る家は、それまで住んでいたマンションの新しさとは正反対だった。どこかで聞いた記憶しかない木造平屋建ての古い家。一階だけの家があるということが、桜庭にはとんでもなく時代遅れに思えた。古い匂いのしみついた暗い緑のカーペットの床が桜庭は恐ろしかった。風呂は広かったが、旧式でタイルの浴槽は、どこか綺麗でなく冷えやすく、トイレは水洗でもない。
 そして、タイル敷きの寒い風呂と照明の都合でドアを閉めると真っ暗に近いトイレ、それらをつなぐ廊下。電気を点けていないと廊下は昼でも先が見通せないほど暗かった。黒光りする床がいつもどこかにできる影から手を伸ばして、走り、背中から飲み込みそうで、引越しからしばらく、桜庭は言い知れない恐怖のうちに寝起きした。母親は離婚のことで桜庭をかまえるような状態でなかったし、結婚してから殆ど顔も見せなかった末娘が突然出戻ってきたことで、祖父母と母の間はまだぎくしゃくして桜庭には親しみにくかった。
 今、祖父母と母、桜庭の四人が生活していくには足りる。
 高校の近くには歩けばコンビニもあったし電車で三十分揺られればデパートもあった。特急でない普通電車は数時間に一本しか通らないが、電車が近くを通るだけまだ随分と便利だった。山の方では車無しでは何も立ち行かない。
 越してきて九年、この港町で暮らしていくことには慣れたが、桜庭はどこか完全には馴染めていないままだった。将来を、桜庭は、この町で祖父母を継いで農業をやっていくと決めることもできなかった。骨を埋めるような気にはまだなれない。かといって、もう、小学生の頃に住んでいた場所にも戻れない。都会に行きたいとも思う。けれども、やりたいことも目的もない。
「桜庭、そんなところに帽子もかぶらずにいたら日射病か熱中症だ」
 不意に後方から影ができて、頭に何か軽いものが置かれた。
「高見さん」
「それ、かぶっておけ」
 振り返ると、高見が載せたキャップが落ちた。ありがたくかぶり直し、桜庭はうだる熱の中で伸びをして疑問を口に出した。
「高見さん、どーしたんですか」
 一年先輩の高見は、今年受験生だ。夏に入ってからは去年までのように海に来ることも殆どなかった。
「うん、若菜がいるだろう。ちょっと息抜きに」
「あ、そっか。仲いいですよね」
「そんなこともないよ」
 高見は静かに笑って、はしゃぐ桜庭のクラスメートたちを見やった。水着の若菜たちがはしゃいでいる声が、波の音と共に途切れ途切れに聞こえる。高見と若菜は付き合っている。今年の冬のバレンタインでくっついたのだ。二人も成績優秀でお似合いだといわれていた。
 胸が痛い。桜庭は顔をしかめ、膝の間に顔を埋めた。高見が隣に腰を下ろす気配がする。
「……行かないんですか」
「邪魔しても悪いよ。それに」
 すいと指が伸びて桜庭の額に触れた。
「桜庭の方が具合が悪そうだ」
「……そんなこと」
 高見は、色が白く長い指を持っている。高見に対しては、桜庭は男に対するような緊張を抱かずに済んだ。
「……若菜、可愛いっすよね」
「やらないよ。……そういえば、桜庭は若菜と付き合ったことあるんだっけ」
「あんなの、付き合った内に入らないですよ」
 ふざけて覗き込んでくる高見に、桜庭は苦笑して返した。
 若菜と桜庭が付き合ったのは、中学二年生の夏の始まりだった。
 学年一可愛いと言われていた若菜と、桜庭は元々仲が良かった。桜庭が引っ越してきた当時から、若菜はくるくるとよく気がついて人を和ませる明るい女の子だった。中学生になって一緒にいるところをよくからかわれ、気づいたら公然と付き合っていることになっていた。
 気恥ずかしくて、同時に自慢したいような気分で、冷やかされる中二人で下校した。それでも、盆踊りの夜店で手をつなぐくらいが精一杯で、それ以上のことは思いもつかなかった。それが原因でもないだろうが、冬が来るまでに結局自然消滅していた。その頃になると、周囲もそれくらいで騒ぎ立てることはなくなっていた。
 若菜よりも、あの頃は進が訳も分からず気になってどうしようもなかった。
 今ならはっきり言える。進が好きだ。若菜と付き合っていたときも、全く若菜に対して何かしたいとは思わなかった。別れてからおかしいと思った。
 進が好きだ。男が好きだ。抱かれたい。
「参加しないのか」
「はい、ちょっと気分悪くて」
 違うクラスの進は、今日はいない。もしあの輪の中に居たら、どんな体調でも少しでも進の近くにいるだろう。進を近くに見ていたい。
「そうか、じゃあその帽子かぶっとけ」
「はい、でも俺そろそろ帰ります。宿題しないと」
 自分が気持ち悪い。
「桜庭?」
 帽子を高見に押し付けて返し、桜庭はサンダルで駆けた。
 防波堤の近くに停めてあった自転車で走る。高見が呼び止める声が聞こえたが振り返らなかった。
 影の短い日向を山の方に走る。高校を通り過ぎるときには、校庭は乾ききって白っぽい砂埃を一歩ごとに巻き上げた。運動部の練習のかけ声がする。網戸だけで開け放しの家々からは耳に障るテレビの音が聞こえた。そういえば、もうすぐ甲子園だ。




つづいていきます。

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