沈丁花








「あれ、何かいい香りがしますね」
 気づいて壬生は言った。
 春を告げる、うららかな陽射しの落ちる庭を何ということもなく二人で眺めていた、其処に少しまだ肌寒い風が吹いた。光は温かいので、それさえも肺腑に快い。そうして伸びをし、
「洗剤変えたんですか?」
壬生はごく自然な流れでそれを口に出した。
「は?何言ってるんだい君」
 しかし店の主は、もうすぐ近所の白木蓮が咲くようだね、と庭の事情を観察するのに忙しく、壬生の発言は冗談なら笑えないよ、とすげなくあしらわれた。
「え?だってこれ、洗剤の香りじゃないんですか」
 困惑した声にようやく如月が茶碗を戻し、
「……、」
「……、」
二人して、あまり表情には出ないが同じくらい驚いて向かい合う。
「……君には全く情緒というものが欠如しているんじゃないのかい?」
「……」
まったく呆れた、とわざとらしい溜め息をひとつ落とし、
「ほら、あれだ。」
家主が指した先には潅木の茂みがあった。深い緑に白い小さな花が映える。
「あ、」
「沈丁花だよ。」
軽く目を瞠った壬生に気づいているのかいないのか、
「近づいてみるといい。」
そういって如月が下駄をつっかけて庭に下りる。壬生もそれに従った。
「ほら。これだろう?」
如月が、随分と成長したその枝を指してみせる。
「はい。確かに。」
壬生は深く息を吸った。甘い香りが強烈に入り込む。確かに自分はこの香りを知っている。この花の記憶が、洗剤の記憶と同じ源にあるから、こんな思い間違いをしていたのだろう。今気づいた。
そうして、しばらく庭を見て回り、また二人して日のあたる縁側に戻る。
「もう少ししたら白木蓮も満開だ」
「それは楽しみですね」
返事して寝転ぶ。あたたまった床の感触は気持ちよくてとにもかくにも春だ。
「しかし君、どうしてまたそう思い込んでいたんだい?」
 おかしいとは思わなかったのか。
再び腰を下ろした如月の問いに、壬生はぼんやりと昔を想った。
「……そういえば春になるとよくこの香りがしていたと思うくらいで。沈丁花、という名前はよく知っていたんですけどね。」
「随分ぼんやりしていたんだね君。意外と言うべきか」
「……そうかもしれませんね。たしかに」
 言われてみれば人工のものではありえないこの香りを十年程も洗剤だと信じていたのは我ながら随分間抜けな話だ。 他にもそういえば思い当ることがいくつかあって、壬生は黙った。
心地よい沈黙が訪れる。
どこかでひばりが鳴いた。風が温まった床で遊ぶ。
 怠惰といってもいいくらいの格好で寝転ぶ壬生を、如月は表情を変えずに見ていたが、一瞬笑いを堪える気配がしたような気がして、如月が口を開く。
「……まあ、ゆっくりしていくといいよ。今日は確か来客が多い」
その言葉が終わらない内、二人ともお馴染みの気を感じる。
「おおい、翡翠、邪魔するぞ」
「如月サーン、」
「ああ?壬生来てんのか、」
がやがやと騒ぐ声の主は、龍麻と雨紋と蓬莱寺だ。
「ちょっと待っていてくれ」
それだけ言って如月がいそいそと出ていく。取り残された壬生は、目を閉じた。
春の陽だまりをあの頃の記憶として覚えている。背にあたたかい陽光、台所で母の立てる水音と、開いた窓からこの香り。
瞼の裏にも春の陽射しはまぶしい。
「龍麻、聞いてくれ、」
「どうした、随分ご機嫌じゃないか」
遠くの会話を聞くともなしに聞きながら、壬生は束の間の午睡に身を預けた。


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