蛍族








 蛍袋には毒があるのだと沖田は信じていた。
 屯所の近くの煙草屋の小さな花壇には毎年蛍袋が咲く。今年も咲き始めたある日、沖田は煙草屋の前でしゃがみこんでそれと相対していた。
 こんな頼りなげな花が猛毒を持つのかと、沖田は最近では感心している。
 数年前までは、あの垂れ下がった釣鐘の花が食虫花に見えて前を通り過ぎる度に緊張した。触れてはいけない。草の汁だけでも危険らしい。
 じっと柔らかな産毛を見つめる。薄紫の花は雨上がりの水滴をぴんと跳ね返し下を向いている。山の草の濃色が、やはり今でも緊張を促した。
 大体、蛍袋などという名前もいけない。蛍を入れて遊べそうなのに、毒があると聞けば蛍を溶かしているとしか想像できない。袋の中で、ゆっくり蛍が溶けていく様とその間の花の蠕動運動を思い描いて、沖田は首を竦めた。
 この、独特の臭気に近い青臭さと甘さの混じった匂いも、大概気持ち悪い。毒を吸い込んでいる気分になって、ここに蛍袋が咲くと知った年は通るたびに息を止めた。大人が平然とその横の自販機でだらだら煙草を買っているのでどうやらそれは考えなくていいらしい。
「沖田さん、さっきから何花とにらめっこしてんですか」
頭上から煙草屋から出てきた山崎が呆れたように声をかけてきた。
どうせスーパーの帰りに出会ったここの婆さんに寄り道をすすめられて、ついでに店の中で茶の一杯も振舞われてきたに違いない。山崎は女子供にやたらと人気がある。
聞こえないふりをしていると、山崎は店内に振り返って「ありがとうございました」と頭を下げた。暗い奥からはテレビの音をかき消して「退ちゃんまたおいで」と声が返る。
「で、何してんですかこんなところで」
再度尋ねた山崎は、膨れたスーパーのビニル袋を両手に提げている。紙袋からは雑多な日用品が覗いていた。それを一瞥して面倒くせェと思った。
「あ、それ蛍袋ですね、こんなところに咲くもんなんですねえ」
勝手に沖田の視線をたどり、山崎は懐かしそうに目を細めた。
「俺それに蛍入れたくてねえ。露草あるじゃないですか、あれなら昔蛍草とも言うって教えてもらったんだけど、やっぱりこっちの方が蛍に似合うっていうか」
べらべら喋り、山崎は躊躇いなくそれに手を伸ばす。
沖田は思わずそれを叩き落していた。
「イテッ、何すんですかアンタ」
眉を顰めた山崎は、沖田の表情に面食らったようだった。
「……そこに手があっただけでさァ」
ちぃ、沖田は舌打ちした。
まったく何なんですか瞳孔開いてこっち見ないでくださよ怖いから、ぶつぶつ言って山崎はひとり帰って行った。その日は全員、山崎が貰ってきた去年の素麺を食べさせられた。







 それから二週間ほどした真夏日の夕方、沖田は煙草屋の前で再度山崎に出くわした。蛍袋の花は淡い紫色で相変わらず下を向いている。水遣りついでに水を撒かれたばかりのアスファルトは蒸れて黒く、湿気がひどい。 不恰好なきゅうりの山を抱えて店から出てきた山崎は、例のごとく店の中に向かって挨拶をし、それから前回と変わらず植物と目の高さを同じくしている沖田に何気なく話しかけてきた。
「またやってんですか」
「何だィ今日も素麺か」
「今日は違いますよ、そこのきゅうり貰ったんです。」
 沖田は山崎の指差す方に目をやった。確かにプランターが真緑に茂っている。意識は蛍袋から逸れた。
「きゅうりできるんなんてもうそろそろ夏ですね。蛍見たいと思いませんか?」
 梅雨も来週末には明けるらしい、山崎は他愛ない世間話を続ける。
「ところでちょっと調べてみたら蛍袋に似た、ハシリドコロという草があるんですよ。」
 沖田は殺気すら篭った目で山崎を見た。
 山崎は気にした風もない。
「……花の形だけは確かに似てるんですけどね、あっちは一本につき一つだけしか咲かないんです。こんなに高くもならないし。あっちは草全部が猛毒でしてね、特に根茎に有毒成分が多く、誤って食べたら興奮、狂躁状態を引き起こし、遂に昏睡して死に至るらしいです。そうそう、それで俺、見つけたんです。ハシリドコロに触った手で眼をこすったら、瞳孔が開いて眩しくて眼が開けられなくなるときがあるって書いてたんですけど、俺瞳孔開いたら眩しいっていうの初めて知りました。沖田さんはどうですか?」
 山崎は好奇心を滲ませつつ割合ゆっくりした速度で語る。
 太陽はまだまだ沈まなかった。
「土方さんに聞きなせェ。多分色も分からねえ真っ白な世界で生きてるお人でさ」
「聞いたらどうせ殴られんだろうなあ…」
 しょぼくれた情けない顔で山崎が俯く。
「仕方がねェ、ここは俺が一肌脱いで見せまさァ見てろよ山崎」
 沖田は立ち上がり、振り向いて歩いてくる隊服に叫んだ。
「おーい土方っ」
 山崎が青ざめた。
「あぁ?呼び捨てにしてんじゃねえ」
「これ何色ですかィ?」
 手加減なしに睨まれる。沖田は少し憂さが晴れるのを感じ、毛羽立った蛍袋の茎をつかんで花を示してみせた。汗が隊服の背を伝う。
「おい逆光だ逆光。見えねーよ」
「やっぱり眩しいらしいですぜ山崎ィ!」
 毒を持たないと知れば植物はあまりに無味乾燥で、その存在を沖田はすぐに忘れた。
 


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