連続する奇跡

 それはあまりにも突然の出来事だった。
3月に入って雪融けが始まった頃、僕と柳田先輩に緊張が走った。
でも本当は、いつかこんな日が来るんじゃないかと思っていた。


 その日の放課後。僕はいつものように寮の部屋で柳田先輩のベッドに寝そべっていた。
この習慣は、ずっと前から変わっていない。先輩が授業を終えて帰って来るまで、彼のベッドで過ごすのが僕の日課だった。ただ以前と違うのは、こうしている事を隠さなくなった事だ。
308号室には、春の香りが漂っていた。明るい日差しも、冬のものとは少し違っていた。
先輩を待っている間は暇だから、友達が貸してくれた雑誌を読む事にした。
ベッドでうつ伏せになって適当にページをめくると、ちょうど恋愛の特集記事が目に入ってきた。だけどそれは当然のように男女の関係が想定されていて、あまり参考になりそうな事は載っていなかった。
ただ一つだけ気になったのは、吊り橋理論というやつだった。
ひどく緊張感のある状況で誰かと一緒に過ごすと、その相手に恋愛感情を抱きやすくなるというものだ。
僕はもう少しその続きを読もうとしていた。S学園で恋愛を繰り広げるためには、常に緊張が強いられる。だからその話に、少しだけ興味を持ったんだ。
でもその時、外から先輩の足音が近づいてきた。その瞬間に、もう雑誌は用済みになった。
僕はすぐに飛び起きて、ドアへと向かった。
急ぎ足で帰って来た先輩は、眠そうな目を僕に向けてそっと微笑む。
「ベッドを温めておきました」
少し背伸びをして、彼の耳に囁いた。
僕たちはこの時間、いつも温められたベッドで愛を確かめ合うのだった。

 先輩と1つのベッドに寝る瞬間は、いつも奇跡を信じた。
以前の僕は、こんな日が来るなんて夢にも思っていなかった。でも今は、広げた両手の中に確かに彼がいる。
息がとても苦しいのは、激しいキスの最中で口を塞がれているからだ。
先輩はこうして僕を黙らせて、器用に制服のズボンを脱がせていく。少しでも早く彼が欲しいから、僕は自分の手でパンツを下ろした。
キスを終えて深く息を吸い込むと、先輩はすぐに僕の中に入ってくる。
2つの体が繋がった時、溢れんばかりの幸せを感じた。
幾つもの奇跡が重なって、僕らは今こうしている。

 2人で天国へ行った後、先輩は腕枕をして抱き寄せてくれる。その時僕は、もちろん彼の左側にいた。
「大好き」
先輩の耳に、何度も繰り返し愛を囁いた。
激しく愛を確かめ合うのも好きだけど、こんな穏やかな時間も大好きだった。
訳もなく笑顔を交わしたり、なんとなく肌に触れたりする。こういうなんでもない時間を先輩と一緒に過ごせるのが、本当に嬉しかった。
名もないこの時がずっとずっと続く事を、僕は心から願っていた。
だけどその後、2人だけの幸せな時間が突然遮断された。二度目のキスをしようとした時、不意に部屋のドアがノックされたんだ。
「柳田くん、高橋くん」
外から僕らに呼びかけたのは寮長だった。
その声を聞いた時、先輩も僕も慌てて身なりを整えた。急いでズボンを上げて、ブレザーを羽織って、乱れた髪を両手で撫で付ける。
「奥へ行ってろ」
先輩が小さくそう言うから、それに従った。
僕が学習机に向かうのを見届けた後、彼は静かにドアを開けて対応に当たった。
「学長がお呼びだ。2人とも、すぐに学長室へ行きなさい」
背中でそれを聞いた時、急に動悸が激しくなった。
学長に呼ばれるなんて、ただ事ではない。彼は僕らにとって遠い存在で、普段は近づく事さえできないのだから。

 寮長が去った後、先輩が緊張の面持ちで僕に近づいて来た。
春の香りがするこの部屋に、不穏な空気が広がった。
「先輩……」
僕は不安で、すぐに彼に駆け寄った。すると先輩は薄く笑って、僕の両手を握り締めた。
「大丈夫だよ。俺たちは何もやましい事はしていない。学長とは俺が話すから、お前は隣にいるだけでいい。もしも何か聞かれたら、絶対に嘘は言うな。嘘は必ずバレるから」
柳田先輩は、何も言わなくても分かっていた。
もしかすると、彼もいつかこんな日が来る事を予想していたのかもしれない。
僕たちが呼び出されたのは、マミの事と関係があるに違いなかった。
決して彼女の名前は口にしなかったけど、その時彼は間違いなくマミの事を念頭に置いて話していた。


 急いで外へ出ると、緩やかな風が僕らの頬を撫でていった。
寮と校舎を結ぶ道は、雪が融けてシャーベット状態になっていた。靴が濡れないように気をつけて歩いても、爪先の方がすぐに湿って冷たくなってきた。
「足元が悪いな」
隣を歩く先輩は、小さくそう言って苦笑いをした。僕は不安でたまらなかったのに、彼はすごく落ち着いていた。
この時校舎へ続く道を歩いているのは僕たちだけだった。
最近は日が長くなって、夕方でも外は随分明るかった。遠くの空は青く、日差しはとても穏やかだ。
「それにしても、今頃なんだっていうんだよ。あれから一度も連絡して来ないから、もう終わったと思ってたのに」
柳田先輩は、独り言のようにそうつぶやいた。
彼女と最後に会った日以来、僕らは一切マミの事を話さなかった。きっと2人とも、もうマミの事は忘れたいと思っていたんだ。
だけど僕は、彼女の事が忘れられずにいた。マミの笑い声がどうしようもなく耳に残っていて、いつまで経っても消え失せる事がなかったんだ。


 学長室は、校舎の2階の奥にあった。
幅の広い階段を一歩ずつ上っていくと、そこが死刑台へ続く道のように思えてならなかった。
これからいったい何が起ころうとしているのか、その時にはまだ想像もつかなかった。ただ一つ理解していたのは、今から起こる事が決して愉快なものではないという事だけだった。
瞼の奥に浮かぶのは、吹雪の光景だった。
横なぐりの雪の向こうに、マミの姿が見え隠れする。長い髪や、表情豊かな2つの目が、雪の向こうにチラつくんだ。
だけどある時、そのすべてが突然消えて視界が真っ白になる。
それはあまりにも非現実的な出来事で、あの日屋上で見た光景が本物なのか幻なのか、僕にはもう分からなくなっていた。

 学長室のドアの前に立った時、柳田先輩が黙って僕を見つめた。
彼はあの頃よりも背が伸びていて、顔つきも少し大人っぽくなっていた。だけど眠そうな目だけは、当時とまったく変わっていない。
「心配するな。全部俺に任せとけ」
小さな声でそう言われた時、ほんの少しだけ不安が遠のいた。しかしこのドアの向こうでは、想像を超える出来事が待っていた。


 先輩は1つ深呼吸をした後、ドアをコンコンとノックした。
「入りなさい」
その声を聞いてドアを開けると、奥の机に学長の姿が見えた。
机は窓の手前にあったから、明るい日差しに照らされていた。禿げ上がった学長の頭は、日差しを浴びてピカピカと光っていた。
この部屋へ来るのは、もちろん初めてだった。右の壁には2枚の油絵が飾られていて、左の壁には歴代の学長の写真が並んでいた。
「柳田くんと高橋くんだね?」
「はい」
2人の返事が重なった。
学長は僕らの名前を確認した後、ツイードのジャケットの襟を整えながら、ゆっくりとこっちへ近づいて来た。
無理やり笑顔を作っているけど、目はちっとも笑っていない。
近くで見る彼は、思ったよりも背が高かった。年老いて顔はしわくちゃだったけど、体つきだけはやけに若々しく見えた。
「刑事さんが君たちの話を聞きにいらしてるんだ。緊張しなくていいから、聞かれた事を正直に答えなさい」
彼が目の前でそう言った時、背筋が凍り付いた。
僕たちは運命に勝ったと思っていたのに、そうではなかった事をこの時に知った。
僕は一瞬体が震えて、すぐにそこから逃げ出したくなった。だけどそんな事ができるはずもなく、動揺を隠すだけで精一杯だった。
ほんの少しで構わないから、落ち着きを取り戻す時間がほしかった。しかしそれさえ叶わず、事態はどんどん動き始めた。

 心の準備が整わないうちに、学長は机の横のドアを開けて僕たちを隣の部屋へ導いた。
日当たりのいいその部屋には、大きな応接セットが置いてあり、そこには紺色のスーツを着た中年の刑事が待機していた。
僕たちは、テーブルを挟んで刑事の向かい側に座らされた。窓際に先輩が座って、その左側に僕が座り、少し間を空けて学長がその横にゆっくりと腰を下ろした。刑事と僕らを隔てる大理石のテーブルは、重く冷たい印象だった。
「奥が柳田くんで、手前が高橋くんです。私も同席させていただきますよ。何を聞きたいのか知りませんが、手短かにお願いします」
学長は淡々とした口調でそう言った。
細身の刑事は笑顔で頷いたけど、やはりその目は笑っていなかった。
応接室が静まり返った時、僕の心臓は今にも壊れそうなほどドキドキしていた。革のソファーは冷たくて、その感触はまるで電気椅子のように思えた。
「山倉マミさんを知ってるね?」
「はい」
低い声で最初の問い掛けがあった時、返事をしたのは先輩だけだった。僕はあまりにも怖くて、頷く事しかできなかった。
「彼女は去年から行方不明なんだ」
「え!?」
刑事が言葉を続けると、僕たちの声が重なった。
それは僕が想像していた事だった。だけど想像が明らかな現実になった時、本当に驚いて声を上げてしまったのだった。
心のどこかに淡い期待があった。マミは何事もなく家に帰り、今も元気に暮らしている。そうである事を、心の底から願っていた。でもその願いは、この瞬間に断ち切られた。
柳田先輩と顔を見合わせた時、彼は顔面蒼白になっていた。
僕らはかなり動揺していた。それでも刑事は、構う事なく話を続けた。
僕はその後、一度も喋る事ができなかった。それから続く刑事と先輩のやり取りを、固唾を飲んで見守っていた。
「マミさんとはどうやって知り合ったの?」
「友達と町に出てはぐれてしまった時、困っている俺にマミちゃんが声を掛けてくれたんです」
「その時にマミさんと友達になった?」
「はい、そうです」
「去年の11月13日、君たちはマミさんと会ってるね?」
「はい」
「その時どこへ行ったの?」
それは当然の問い掛けであり、一番聞いてほしくない問い掛けでもあった。だけど先輩の言う通り、嘘はいけない。刑事は嘘をすぐに見抜くはずだ。
中年の刑事は鋭い目つきで僕らを観察していた。柳田先輩は一つ一つの問い掛けにきちんと応じていたけど、その声は少し上ずっていた。
「マミちゃんの母校へ行きました。廃校になった小学校です」
「そんな所へ行って何をしたの?」
「校舎の中を見回って、それからかくれんぼをしました」
「かくれんぼ?」
「はい。マミちゃんが突然かくれんぼをしようと言い出して、俺がオニに指名されました」
先輩はその時の事を正確に刑事に伝えていた。
マミはオニは100数えるまで動かないでと言って、僕と一緒に教室を飛び出した。
先輩は彼女の言う通り、たった1人で100まで数えた。そしてカウントが終わると、校舎の中を走り回って僕とマミを探し始めたのだった。
その事実を話し終えた後、先輩は僕が知らない事を少しだけ語った。
埃にまみれた教室に1人残されて、とても不安だったと彼は言った。
それを聞いて、胸の奥が痛くなった。あの時僕は、どうして彼を置いて廊下へ飛び出したんだろう。
マミの提案なんか受け入れず、ずっと先輩の側にいれば良かった。
そうしていれば、僕らは今、きっとここにはいない。

 この時僕は、眼光鋭い刑事の様子をじっと見ていた。
刑事は僕らがあの小学校へ行った事を知っていたんだろうか。先輩がその話をしてもメモを取るわけでもないし、顔色一つ変えなかった。
もしかすると、その質問で僕らが嘘をつくかどうかを試したのかもしれない。
マミと僕らを結び付けたのは、携帯電話の通信記録だろう。刑事がそれを調べたのは、容易に想像がつく。
でも彼女の母校へ行く事になったのは、完全にあの日の思い付きだった。だからそれは、通信記録にはない情報だ。
あの付近に人の気配はなかったし、駅と小学校を往復する間も誰とも会わなかったはずなのに、それが刑事に知れるとしたらどんな状況が考えられるだろう。
もしかすると誰にも会わなかったと思っているのは僕たちの方だけで、実はどこかでこっちの様子を見ていた人がいたのかもしれない。
だとしたら、刑事は最初の段階で目撃者の話との擦り合わせをしたという事なんだろうか。
「俺は校舎の中を随分探しましたが、マミちゃんを見つける事はできませんでした。あの時もう彼女は校舎の中にはいなかったと思います。マミちゃんには何度電話してもつながらなくて、本当に困りました。そのうちに帰りの列車の時間が近づいて来て、仕方なく高橋と2人で駅へ向かいました。彼女の事は気になっていましたが、どうする事もできませんでした」
先輩は毅然として刑事にあの日の事を語り続けた。その声はもう上ずってはいなかった。
彼の言葉に嘘はなかった。あの時マミは校舎の中にいなかったし、携帯電話もつながらなかった。
あれ以上先輩にできる事は何もなかったはずだ。彼は最善を尽くしたと言えるだろう。
しかし刑事は納得しなかった。彼は身を乗り出して、鋭い視線を先輩に向け、きつい口調で問い詰めたのだった。
「君は一緒にいた友達の行方が分からないのに、黙って帰ったのか? 警察に通報するとか誰かに相談するとか、そういう事は考えなかったのか?」
一瞬にして、部屋の空気が凍り付いた。風もないのに、窓を覆う薄いカーテンが揺れ動いたような気がした。
僕は先輩を助けたいと思ったけど、何も言えなかった。鋭い目つきの刑事はものすごく迫力があって、見えない力に制圧されていた。
それでも先輩は弱腰な態度は見せず、一瞬たりとも刑事から目を逸らす事がなかった。
その時僕は、彼の強さを目の当たりにしていた。何も言えない僕と違って、先輩は自信を持ってそこにいるようだった。
お前は隣にいるだけでいい。
僕は先輩のその言葉を信じる事にした。彼の様子を見て、それが最善の策だと思ったからだ。
その時は少しの沈黙に息が詰まりそうだった。応接室の空気は淀んでいて、春の香りは一切感じられなかった。
柳田先輩は感情を押し殺すように右の拳をぎゅっと握った。そして彼は、静かな口調で語り始めた。
「彼女は校舎の中にはいませんでした。なんとか連絡を取ろうとしても、一度も電話に出てはくれませんでした。 外はひどい吹雪で、校舎の出口は雪に埋まりかけていました。もう少し遅かったら、俺たちは中に取り残されていたと思います。 あの時は必死に雪をかき分けて、なんとか校舎を脱出しました。 あそこは田舎で、列車の本数がすごく少ないんです。 午後の列車に乗らないと、その日のうちに寮へ帰る事ができなくなります。 だから校舎を出てから、駅へ急ぎました。もしも列車に乗り遅れたら、大変な事になるのが分かっていたからです。 俺たちは吹雪の中を必死に走って、ギリギリで列車に乗り込みました。 その時は体中が雪まみれで、もう疲れ切っていて、何もする気力が起きませんでした。 あの時は、それほどまでに追い詰められた状況だったんです。 今思い出してもゾッとします。 あそこを出るのがもう少し遅くて、校舎の中に取り残されていたら、今頃どうなっていたか分かりません。 俺には先輩として高橋を守る義務がありました。 列車とバスを乗り継いで、実際に寮へ着くまで、まったく気が抜けませんでした。 あの時は本当に自分たちの事で精一杯で、マミちゃんの事を考える余裕なんかなかったんです。 まさかこんな事になるなんて、思いもしなかった。俺に過失があるなら謝ります。申し訳ありませんでした」
先輩がそこまで追い詰められていたなんて知らなかった。
僕はあの時屋上で起こった出来事が気がかりで、ずっとその事しか頭になかった。
今考えると、あの時は自分たちの身が危険にさらされていたんだ。先輩はそれをちゃんと察知して、僕を守ろうとしてくれたんだ。
先輩は刑事に嘘は言わなかった。ただし、僕らが帰りの列車の中で性的な行為をした事だけは黙っていた。
その時頭の隅に、さっき見たばかりの言葉が突然浮かんできた。
列車の中で先輩が僕を好きだと言ってくれた時、それがやけに唐突に思えたけど、今になってようやく分かった。
恐らくあれが、吊り橋理論というやつだ。
僕たちはあの時、思考は違っていても究極の緊張状態にあった。
僕も先輩も、一歩間違えればどうなっていたか分からない。お互いのその恐怖が、2人を深く結び付けたんだ。

 普段は物静かな先輩が雄弁に語ると、見事に刑事は押し黙った。
凛として刑事と対峙する彼の横顔はとても素敵だった。眠そうな目は影をひそめ、まっすぐ前を向く透明な視線がこの部屋の空気を支配している。
背筋をスッと伸ばして、握った拳を膝の上に置き、まったく表情を崩さない佇まいは、すべてを引き受けるという意思を体現しているかのようだった。 頬を照らす早春の日差しが、更にその様子を引き立たせているように僕には見えた。
なんて頼もしくて、なんて凛々しい姿だろう。
僕の目に狂いはなかった。この人を好きになって本当に良かった。
彼はきっと、いつでも僕の盾になってくれる。怖かった吹雪の日もそうだったし、今だってそうだ。
吹雪が卑しい僕の心を覆い隠してくれたように、これからは彼が僕に付きまとう邪悪な物を包み込んでくれるはずだ。
僕は先輩のその覚悟を感じ取っていた。決して真っ白ではない僕の心を、白く染めてくれるのは彼なんだ。

 絶妙なタイミングで、頬に涙が流れ落ちた。それは喜びの涙だったけど、誰もその事に気づく人はいなかった。
僕が泣き出すと、刑事は少し困ったような顔をした。涙で視界は歪んでしまったけど、刑事の目が泳いでいるのははっきりと分かった。
柳田先輩は、僕の手をそっと握ってくれた。先輩に少し触れられるだけで、心が落ち着いた。
「ごめん。怖かった時の事、思い出させちゃったな」
優しく声を掛けられて、ますます涙が溢れ出た。
僕にはもう怖い物なんかなかった。先輩と一緒なら、何があっても平気だと思っていた。
僕たちはもうすぐこの部屋を出る。そして雪解けが進む寮への道を、何事もなかったかのように歩いて帰るんだ。
この時僕は、それを確信していた。これ以上刑事に話す事は、何もないのだから。

 少し離れて座っていた学長が、身を乗り出す気配を感じた。とめどなく溢れ出す涙は、その様子を僕には見せないようにしていた。
「刑事さん、彼らはまだ10代の子供なんですよ。もう少し配慮してください。これじゃあまるで尋問じゃないですか」
「いいえ、そんなつもりはありません」
「あなたも刑事なら分かるでしょう。柳田くんは嘘は言ってません。これ以上続けるなら弁護士を呼びます。 今すぐ答えてください。彼らに過失はありますか?」
僕は涙を拭って刑事を見つめた。
学長の問い掛けに、彼は小さく首を振った。それから少し目の表情を和らげて、僕たち2人に優しく語った。
「君たちの判断は正しかったよ。あの後校舎は雪の重みで潰れたんだ」
その時、今度こそ僕たちが運命に勝った事を知った。
僕の頭に、雪に埋もれる校舎の様子が浮かんできた。マミが学んだ教室は跡形もなく崩れ、数年分の埃が舞い上がり、逃げ惑うネズミたちが方々へ散っていく。
壊れた窓も、屋上のフェンスも、すべてが真っ白な雪の下に沈んで見えなくなっていく。
僕らの足跡は、もうどこにも残っていないだろう。僕とマミが屋上へ行った事実は、永遠に闇に葬られる事になる。
涙が止まらないのは幸運だった。そのおかげで、刑事にほっとした顔を見せずに済んだからだ。
最後に刑事は、涙を拭う僕にたった一つだけ問い掛けた。
「高橋くんは、マミさんがどこに隠れたか知らない?」
その時先輩が、僕の手を一瞬強く握った。それは恐らく、嘘は言うなという合図だった。
僕はちゃんと先輩の言う事を聞いた。涙を拭う手を止めずに、黙って首を振ったんだ。
だって僕は、マミがどこに隠れたのかを見ていなかったから。だから僕は、まったく嘘は言っていない。


 刑事が帰った後、僕たちは学長室の机の前に立たされた。
学長はため息をつきながら椅子に腰かけ、僕たち2人に苦言を呈した。
「外に友達を作るなとは言わないが、おかしな事に巻き込まれるような行動は慎みなさい」
「はい」
また僕たちの声が重なった。
確かにあの日の行動は、うかつだったと言わざるを得ない。
「今日の事は誰にも口外しないように。分かったね?」
「はい」
その時、学長が初めてほっとしたように微笑んだ。今度はちゃんと2つの目も笑っていた。
「失礼します」
最後にそう言って、僕たちは学長室を後にした。
ここへ来る事はもう二度とないだろう。そう思ったから、廊下へ出る前に左右の壁にもう一度目をやった。
歴代の学長の写真は、全部で6枚あった。そのうちの2枚は白黒で、写真の中の男の人は着物を身につけていた。 そして壁に掛けられた油絵には、色とりどりの春の花が描かれていた。


 2階の廊下から階段を下りる時、先輩が僕を気遣って体を支えてくれた。
自分でも気づかなかったけど、僕の体は緊張で固まっていた。彼はちゃんとそれを知っていて、優しくエスコートしてくれたのだった。
「大丈夫か?」
「平気」
左の耳でその返事を聞いて、彼が眠そうな目を僕に向けた。凄まじい緊張状態を共有した僕たちは、以前よりもっと絆が深まったように思えた。
僕は安心して彼に身を預けた。柳田先輩は力強く僕の腰を抱いて、最後の一段を下りるまでしっかりと見守ってくれていた。

 校舎を出ると、薄い日差しが僕らを照らした。
寮への帰り道は、さっきと変わらずシャーベット状態のままだった。
先輩は靴が濡れる事も恐れず、融けかかった雪を蹴りながら楽しそうに歩いた。時々わざとその足を僕に向けると、ズボンの裾に彼の蹴った雪が飛び散って冷たかった。
「ズボンが濡れちゃうよ」
「すぐに脱ぐから構わないだろ?」
その言葉を聞いて、僕はすごく嬉しくなった。早く部屋へ戻って、彼ともう一度愛を確かめ合いたかった。
深く息を吸い込むと、体の中に新鮮な空気が入り込んできた。応接室の淀んだ空気と違って、春の香りが混じった美味しい空気だった。
その時先輩が、シャーベット状態の道の上に何かを見つけた。彼がしゃがんで手を伸ばし、拾い上げたのは1円玉だった。
「冬の間に誰かが落としたんだな。雪に埋まっていた物が、春になるとこうして出てくるんだ」
先輩はそう言って軽く微笑み、拾った1円玉を僕に渡してくれた。冷たい掌に銀色のコインが乗せられると、日差しが反射して眩しい光が放たれた。
その時僕は、マミが帰ってきたのかと思った。
彼女に初めて会った時、僕が見たのは真っ白な光だった。マミは輝くようなかわいい少女だった。そしてその姿が、何度も僕をイライラさせた。
でも今は、とても穏やかな気持ちで彼女を受け入れている自分がいた。
彼女がいなければ、僕と柳田先輩が結ばれる事はなかった。
マミはいつも僕たちを掻き回した。そのたびに様々な心の動きがあって、結果として僕たちを結び付けてくれた。
最後の日に母校に行けて、彼女は幸せだったはずだ。
マミは雪まみれになった僕を指さして、声を上げて笑っていた。あんなに楽しそうに笑っていたんだから、きっとそうに違いない。
僕は掌の上の光に向かって、心の中で語り掛けた。
『もうかくれんぼは終わりだよ。だから早く出ておいで。もうすぐ春がやってくるよ。だから早く姿を見せて』
柳田先輩が僕に接近した。すると日差しが遮られて、掌の上の光は消え去った。
「早く帰ろう」
彼が珍しく乱暴に僕の手を引っ張った。その衝撃で、銀色のコインはどこかに落ちてしまった。
僕の側から光が去ると、先輩は優しく微笑んだ。それから僕を促して、寮へ帰る道を歩き出した。
少しずつ日が傾き始めて、空は夜に近づきつつあった。今は緩やかな風も、そのうち冷たい夜風に変わるだろう。
先輩はまた融けかかった雪を蹴って歩いていた。僕はすぐに彼の左側に回って、同じ道を歩き始めた。


 308号室へ戻ると、緊張の解けた僕たちは、柳田先輩のベッドに倒れ込んだ。その頃部屋の中は、もう薄暗くなっていた。
ベッドは冷え切っていた。お尻が冷たい。足も冷たい。だけど先輩の温もりがあれば、他には何もいらなかった。
おあずけになっていた二度目のキスは、とても情熱的だった。お互いがお互いを求め合い、夢中になって舌に食い付くような、そんな激しいキスだった。
僕は早く彼が欲しかった。背中を軽く叩いてそれを伝えると、名残惜しそうにキスを止めて先輩が制服を脱ぎ始めた。僕もそれに続いて、急いでブレザーを脱ぎ捨てた。
僕らはあっという間に裸になり、すぐに体を重ねた。先輩を体の深いところへ招き入れたくて、両手で冷たいお尻を引き寄せた。
「感じる?」
「……うん」
「俺の事好き?」
「……大好き」
霞がかかった視界の先に、僕を見下ろす先輩がいた。彼は穏やかに微笑んでいたけど、腰の動きは穏やかではなかった。
あまりにベッドが大きく揺れるから、すぐに酔ってしまいそうな気がした。
硬いものが体の奥を何度も突いて、興奮気味なペニスが濡れていた。冷たい指がその先端に触れて、一瞬体がブルッと震えた。
先輩の指が、僕を天国へ導いてくれる。その瞬間は、目を閉じていても視界が真っ白になる。
すごく気持ちが良くて、意識が飛びそうな感覚に陥り、ペニスの先から吐き出されたものが、冷たい彼の手を温める。
ほんの一時の快感はすぐに去り、僕は不安に駆られてしまう。真っ白な視界の中に彼がいない事に気づいて、すごく怖くなってしまうんだ。
『先輩。柳田先輩。どこにいるの?』
声にならない声で叫びながら、僕はゆっくりと目を開ける。するとぼんやりした景色の向こうに、薄っすらと先輩の顔が見えてくる。
両手を伸ばして抱き付くと、彼の肌の感触がはっきりと全身に伝わってきた。
2人は強く抱き締め合って、お互いの存在を確認していた。

 僕たちは、楽しい時間のやり直しをした。先輩に腕枕をしてもらい、微笑み合ったり、肌に触れたりして、名もない時を過ごすんだ。
毛布の下では、2人の足を絡ませ合っていた。そうしていれば、すぐに足の冷たさが解消する事を知っていたからだ。
僕たちは電気も点けずに時間を惜しんで触れ合っていた。夜になっても朝になっても、ずっとこうしていたかった。
「先輩、素敵でした」
その言葉には2つの意味が込められていた。彼が素敵だったのは、セックスと、応接室での振る舞いだ。
「お前が好きだよ」
「僕のどこが好き?」
左の耳に問い掛けると、先輩が微笑みながら髪を撫でてくれた。
ベッドはもう温まっていた。彼の息をすぐ側に感じる。そんな僕はきっと、世界中の誰よりも幸せだった。
「屋上のドアは歪んでいて、もう内側からは開かなかった」
いきなりそう言われて、心臓が止まるかと思った。
彼の腕に包まれながら、眠そうな目を至近距離で見つめた。時を刻む毎に暗くなっていく部屋の中で、その目は微かな輝きを放っていた。
先輩は僕たちが屋上へ行った事を知っていた。彼がそれを語ったのは、この時が初めてだった。
「屋上へ向かう足跡は2つあったけど、屋上から戻る足跡は1つだけだった。よく1人で戻って来てくれたな。廊下でお前を見つけた時、すごく嬉しかったよ」
「……」
「あの日は奇跡の連続だった。煩わしい物は全部雪の中に消えて、右の耳で甘い囁きを聞いた。お前が奇跡を起こしてくれたんだよ」
「……」
僕は何か言わなければならないと思って、口を開きかけた。 するとその時、乾いた口が先輩の唇に塞がれた。それはきっと、何も言うなという合図だった。
あの日の出来事について、今まで核心に迫る言葉を交わした事はなかった。でも先輩は今、沈黙を破って率直な思いを口にした。
屋上でマミが消えた時、僕はそこから逃げ出した。彼はその行動を肯定してくれたんだ。
屋上へ続くドアが開かなくなり、携帯電話がつながらなくなって、帰りの列車の時間が近づいてきた。
その時先輩は、皆で破滅するか2人で助かるかの選択を迫られたんだ。そして彼は、後者を選んだ。
その判断は正しかった。それは刑事も認めた事だ。先輩が何を思ってそうしたとしても、彼を責める事は誰にもできないだろう。
奇跡を起こしたのは僕じゃない。あの日は僕たち2人で奇跡を起こしたんだ。
目を閉じると、視界が真っ暗になった。
先輩の姿はもう見えない。柔らかな唇の感触だけが、その存在を知らしめている。
帰りの列車に乗り込む時、僕は間違いなくマミを振り払おうとしていた。それが残酷な行為だと知りながら、必死になって彼女に背を向けようとしていた。
煩わしい物は、全部雪の中に消えた。
その言葉は重かった。先輩はそれを口にする事で、僕と同じ罪を背負ってくれたんだ。
校舎を出る時、眩しい光の差す方向に先輩がいた。彼は希望の光を背負って、僕に両手を差し伸べてくれた。
その手を掴んだ瞬間が、僕たちの始まりだったような気がする。
冷え切った体を奮い立たせ、吹雪の中を走って、列車に乗るまですごく怖かった。それはきっと、先輩も同じだった。
僕たちはあの時、同じ目的を持って危険な吊り橋を渡ったんだ。あれほどの恐怖を乗り越えて結ばれたんだから、僕たちの愛は永遠だ。
唇が熱い。頬も熱い。目の前は真っ暗だけど、2人の未来は光り輝いている。
柳田先輩は、僕と一緒に暗闇の中にいてくれた。手を伸ばせば、すぐに彼の温もりに触れられる。
幾つもの奇跡が重なって、僕らは今こうしている。
終わり