3月10日午後6時。
俺は今、マンション建設現場のそばにぼんやりと突っ立っている。
以前公園があったその場所には、高層マンションが建てられようとしていた。
さっきから青い作業着を着た建設作業員が俺の目の前をせっせと動き回っている。
緩やかな春の風が土埃を舞い上がらせる。そのせいか、時々目にゴミが入って痛い。
5分経って何も変わらなかったら、さっさと家へ帰ろう……
この辺りはここ4〜5年で随分変わった。
昔は公園や空き地がいっぱいあったのに、今ではマンションやアパートが建ち並んでいる。
見上げる空が小さくなったのは、きっと気のせいではない。
右を向いても左を向いても緑はほとんど目に入らない。公園の芝生の匂いや、空き地にうっそうと茂っていた雑草の匂いがすごく懐かしい。
腕時計に目をやると、午後6時を2分過ぎている事が分かった。
あと3分。あと3分ここにいて何も変わらなかったら、本当に家へ帰ろう……
俺は今、この場所で中学の時の同級生を待っている。
俺たちが高校を卒業した年の3月10日、午後6時。この日のこの時間に彼と会う約束をしたのは、俺たちがまだ中学1年の時だった。
忘れもしない、5年前の今日。
もうすぐ学校が春休みになるという時、俺は突然拓海にこんな告白をされた。
「俺、転校するんだ」
俺はいつも彼と一緒に遊んだ公園でいきなりそう言われた。夕暮れ時、芝生の上には誰かが投げ捨てていったペットボトルが転がっていた。
彼との思い出の場所は、今ではマンション建設が進んでいる。
その時俺は彼の告白をすぐには信じなかった。またいつもの冗談だと思っていたんだ。拓海はいつも陽気で人を笑わせるのが得意な奴だったから。
でもその時の彼はいつもと違ってひどく歯切れが悪かった。
「……冗談だろ?」
俺は思った言葉をすぐ口にした。でも彼はそれには答えなかった。学ラン姿の拓海はただ俯いて黙っていた。その沈黙が彼の答えだった。
「嘘だろ? 本当は冗談なんだろ?」
拓海はそれにも答えなかった。彼はただ俯いたまま黙って首を振った。
「引っ越すのか?」
今度は拓海がウン、と頷いた。
「いつ? いつ引っ越すんだ?」
「……春休みになったら、すぐ」
それを聞いた時は、心が乱れた。
拓海の引越し先は随分遠い所のようだった。それを知った時、俺は絶望的な気持ちになっていた。彼が引っ越す理由は、父親が転勤になったためという単純なものだった。
俺はその少し前に彼への思いを打ち明けたばかりだった。
俺はずっと前から拓海の事が好きだった。でもなかなかその思いを打ち明けられず、2月の末にやっと思い切って彼に告白をしたばかりだったんだ。
放課後の教室で拓海の目を見つめながら 「好きだ」 と彼に告げた時は、緊張して心臓がバクバクいっていた。
その時はいい返事をもらえるなんて思ってもみなかった。だけど拓海は嬉しそうに微笑んで俺の両手をしっかりと握ってくれた。
「俺も好きだよ」
彼の口が、そんなふうに動いた。そして拓海はもう一度白い歯を見せて笑った。
パチパチと瞬きを繰り返す彼の目は夕日の色に染まっていた。伸ばしかけの髪は、うまくまとまらずに毛先が少し跳ねていた。
俺はその時、これからずっと拓海と一緒にいられるんだと信じて疑わなかった。
「行くなよ」
5年前の今日。俺はあの日、拓海に何度もそう言った。
でもそんな事を言っても無駄だという事は分かっていた。俺たちは親の庇護の元で生きる無力な子供だったからだ。
でも、それでも俺はそう言わずにいられなかった。
拓海は芝生の上に立って両手の拳を握り締めていた。その時俺はあまりにショックで涙を流す余裕さえ失くしていた。
色白で小柄な拓海が、いつもよりもっと愛しく感じた。
俺はどうしてもその欲求を抑えられず、両手で彼の頬を包み込んだ。それから少し腰を低くして拓海の唇にキスをした。
遠くの方で子供の笑い声が聞こえた。時々どこからか自転車の走る音も聞こえてきた。
公園の真ん中でキスをするなんて、よくあれほど大胆な事ができたものだ。
その光景を誰かに見られる可能性は十分にあった。
でも俺たちに残された時間はわずかだった。だから人の目なんか気にしてはいられなかったんだ。
唇を押し付け合うだけのキスが済むと、拓海は潤んだ目で俺の顔をじっと見つめた。
そして俺たちは5年後の約束を交わした。それは拓海の方から言い出した事だった。それは絶望的な約束だった。守れるはずのない、空っぽな約束だった。
「高校を卒業する年の今日、今と同じ時間にもう一度ここで会おう。その頃ならきっと、俺たちは自由になってるはずだから」
拓海と指切りした時の感触は、まだなんとなく覚えている。あいつの指は、細くて短かった。
風が吹いて芝生の香りが鼻をついた。遠くの方で、また子供の笑い声がした。
小柄な拓海は、足元に転がっていたペットボトルを思い切り蹴った。
あのツートンカラーのペットボトルは、いったいどこへ飛んでいったのだろう。
思い出の詰まった公園には、今ではマンションが建設されようとしている。あの日俺たちが踏みしめた芝生は、もうとっくに消え去ってしまっていた。
腕時計に目をやると、時間は午後6時5分になっていた。
タイムリミットだ。やっぱり彼は来なかった。でもこうなる事は最初から分かっていた。
俺はもう3年以上彼と話をしていなかった。年賀状のやり取りさえ、もうとっくに途絶えていた。
あれから5年。拓海にはきっと、かわいい彼女ができただろう。
彼は今日の約束なんかとっくに忘れているだろう。今日のこの時間に俺がここにいる事を、彼はきっと知りもしないのだろう。
少しずつ空が薄暗くなり始めた。あの日の空も、きっとこんなふうだった。でも、見上げる空はあの頃よりたしかに小さかった。
本当は、全部分かっていた。
俺が告白した時、拓海はもう自分が転校しなければならない事を分かっていたはずだ。
彼はあの時、俺を傷つけないために嘘をついたんだ。「俺も好きだよ」 という拓海のセリフは、彼の優しい嘘だった。
2人で一緒にいられる時間は残りわずかだった。拓海はそれを知っていて、俺に短い夢を見させてくれたんだ。
「……家に帰って泣こう」
俺はそうつぶやき、肩をすぼめて歩き出そうとした。
マンションの建設現場も今日の作業が終わったようで、5〜6人の作業員がほっとした顔で去っていくのが見えた。
一歩足を踏み出すと、靴の下でジャリッと音がした。そして次の一歩を歩み出そうとした時、突然目の前が真っ暗になった。
小さな空。マンションの建設現場。舞い上がる土埃。そのすべてが突然俺の視界から消え去った。
後ろから回した誰かの手が、俺の両目を塞いでいた。瞼の上に、誰かの指の感触があった。
でもそれは俺の知っている指ではなかった。拓海の指は、もっと細くて短かった。
「だーれだ?」
耳元に初めて聞く男の声が響いた。それは俺の知らない声だった。
でも陽気に弾むその口調は、俺がずっとずっと好きだった人の言い回しに酷似していた。
「この辺りは変わったね。公園を探して町内を2周してきちゃったよ」
拓海?
俺は目に覆いかぶさる指を振りほどいてすぐに後ろを振り返った。するとそこには、見た事もない男が立っていた。
赤いパーカーを着て、白いキャップを斜めにかぶって、白い歯を見せて笑っている男。その人は、俺よりずっと背が高かった。
キャップのつばが影を作って、その人の右目はよく見えなかった。でも色白な肌とそれ以上に真っ白な歯はちゃんとはっきり俺の目に映った。
その人は5年前と同じように俺の両手をぎゅっと握り締めた。でもその手は以前よりずっとずっと大きくて、すごく厚みがあった。
「あんまりかわいくなってるから、びっくりしちゃったよ」
その言い方は、昔とちっとも変わっていなかった。声は随分低くなっていたけど、背は俺よりずっと高くなっていたけど、目の前にいる人は間違いなく拓海だった。
5年分の涙が急に目から溢れ出し、次々と冷たい頬を流れ落ちていった。
俺は人目も気にせず彼に抱きついた。すぐ近くで建設作業員たちの笑い声が聞こえた。時々俺たちのすぐ横を車が通り過ぎて行った。
俺は右手で彼のキャップを剥ぎ取った。そして俺たちは5年間触れる事のできなかった唇を重ね合った。
5年ぶりに会う彼は、すごくキスが上手になっていた。俺たちのキスはもう唇を押し付け合うだけのものではなかった。
彼の温かい舌が俺の舌を激しく愛撫すると、すごく気持ちがよくて腰が砕けそうになった。
それにしても、拓海はこれほど激しいキスをいったいどこで覚えたんだろう……
俺はこの時、彼と舌を絡ませ合いながら心の中でそんな疑問をつぶやいていた。
でも今はもう少し彼と唇を重ね合っていたい。これからたっぷり時間はあるから、後でゆっくり彼を攻めてやろう。
5年ぶりのキスを終えた時、俺は昔みたいに彼の頬を両手で包み込んだ。拓海の柔らかい頬の感触は、昔も今もちっとも変わっていなかった。
「ねぇ、ちゃんと高校卒業した? まさか留年してないよね?」
その時拓海は早口でまくし立てるようにそう言った。彼はきっと、俺に会ったらまずそれをたしかめたかったんだ。
俺は彼の目を見つめて小さく頷いた。
拓海が何故そんな事を聞くのか俺にはよく分からなかった。
好きだとか愛してるとか、ずっと会いたかったとか、一生離さないとか、俺はそんな言葉を待っていたのに。
「卒業した後どうするの?」
「そんなの、分かんないよ。そのうちバイトを探すけど……」
泣きながらそう答えると、拓海は最高に素敵な笑顔を見せた。そして彼は強い力でぎゅっと俺を抱き締めてくれた。
「俺もこっちへ帰ってきてバイトを探すから、一緒に暮らそう」
俺の耳元で、彼がそう囁いた。その時、一瞬懐かしい芝生の香りが鼻をついた。
好きだとか愛してるとか、ずっと会いたかったとか、一生離さないとか。
この時拓海が口にした言葉は、それを全部合わせたものよりずっとずっと愛情が込められていた。
昔拓海が言っていた事は本当だ。5年前と違って、今の俺たちは自由だった。
終わり