奪われた物

 中学校へ入学して10日目の夕方。
学校帰りの静かな道で、僕は初めて会う少年にカツアゲされた。
僕が歩いた道の片側には灰色の高い塀が長く続いていた。その向こうが刑務所である事は、近所の人なら誰もが知っている事だった。

 「なぁ、金くれない?」
その少年は僕の前に立ちはだかって淡々とそう言った。
それは決して人を脅すような口調ではなかった。でも言っている事はものすごく非常識だった。
その時外はまだ明るかった。でも高い塀の影がアスファルトの道の半分ぐらいを黒く染めていた。
僕と彼は日の当たらないアスファルトの上でしっかりと向き合っていた。
その道には僕と彼の他に誰も見当たらなかった。あたりはとても静かで、風の音さえ聞こえてこなかった。
少年は僕より2つか3つぐらい年上に見えた。
彼は首周りが伸びているトレーナーと膝に穴の開いたジーンズを身に着けていた。ボロボロの洋服を着た細身のシルエットが、すごく印象的だった。

 彼はそう悪い人には見えなかった。
少し垂れ下がった目はかわいいイメージだったし、短く刈り上げた髪は清潔そうに見えた。
おかしな事に、僕はこの人になら少しぐらいお金をあげてもいいと思っていた。
でもこの時僕はお金を1円も持っていなかったのだ。朝家を出る時は給食費を持っていたけど、それはもちろん学校の先生に渡してしまっていた。
「ごめん。今お金持ってないんだ」
正直にそう言うと、彼は小さくため息をついた。
首周りが伸びているトレーナーと膝に穴の開いたジーンズは、彼が着ていると妙にオシャレに見えた。
「じゃあ何か食う物持ってない? 俺、腹が減って死にそうなんだ」
少年は困ったような顔をして今度は僕にそう言った。
でも僕は黙って首を振る事しかできなかった。僕はお金も食べ物も何も持っていなかったからだ。
この時僕は口の中にオレンジ味のキャンディーを一粒入れていた。僕はそのキャンディーを舐めずに取っておけばよかったと少し後悔した。
僕が何も持っていない事を知ると、少年は俯いてまた1つため息をついた。俯く彼のまつ毛がすごく長くて、僕は一瞬ドキッとした。

 やがて少年は顔を上げ、諦めてその場を立ち去るかに思われた。
でもそれは少し違っていた。彼は一歩前へ歩み出て右手の指で僕の顎をしゃくり上げ、いきなり僕の唇を奪ったのだった。
その時僕は本当に驚いて、一瞬体が凍りついた。
僕はそこから一歩も動けず、彼に逆らう事も、息をする事もできなかった。
とにかくその瞬間は何がなんだか分からなかった。僕と彼のキスは、多分ほんの2〜3秒ぐらいの短いものだった。

 気がつくと、僕の目の前で彼がにっこり微笑んでいた。
僕の口の中にはオレンジの味と彼の柔らかい舌の感触が残されていた。
目尻を下げて微笑む彼は、僕の口から奪い取ったキャンディーを奥歯でガリガリと噛んでいるようだった。
「ごちそうさま」
少年は最後にそう言って、今度こそ本当に僕に背を向けた。
彼は少しお腹が潤ったのか、口笛を吹きながら軽い足取りで歩いて行ってしまった。彼は2度と振り向かず、ずっとずっと真っ直ぐに日の当たらない道を歩いて行った。

 中学校へ入学して10日目の夕方。
学校帰りの静かな道で、僕は初めて会う少年にカツアゲされた。
その時僕が奪われた物は、ファースト・キスと食べかけのキャンディー1つだった。

終わり