忘れないで

 砂のクッションはまだ温かい。ドラム缶の背もたれはとっくの昔にさび付いてしまった。
海の波はとても穏やかだった。ちっとも穏やかじゃないのは、俺の心の中だけだった。
空が茜色に染まると、海も同じ色に染まった。
静かな波の音色に混じってどこからかカモメの鳴く声が聞こえてきた。
足元に転がっている石を掴んで海へ投げ込むと、それは波にさらわれてすぐに見えなくなってしまった。

 「拓郎くん、ごめん!」
和馬が走って俺の隣へやってきたのはちょうどその時だった。
彼は砂のクッションに腰掛け、俺と同じようにさび付いたドラム缶にもたれ掛かった。
9月の海風は温かった。腕時計の針は、そろそろ午後6時を知らせようとしていた。
「ごめんね、ごめんね、拓郎くん」
和馬は息も絶え絶えにそう言った。でも俺は彼の顔を見る元気さえ失っていた。
「俺は絶対に悪くない。悪いのはこいつの方だ」
心の中でそうつぶやいた後、右足で思い切り砂を蹴った。

 9月12日。今日は俺の16回目の誕生日だった。
今年の誕生日はちょうど日曜日と重なったから、今日は午後から和馬と2人きりで俺の誕生日祝いをする約束をしていた。
なのに彼はあっさりとそれを忘れて別な友達と遊びに行ってしまったのだった。
俺は連絡の取れない和馬をずっとずっと探し続け、今から20分ほど前にやっと彼を見つけたのだ。
その時彼は中学の時の同級生と一緒にゲームセンターにいた。これでは俺が怒るのも無理はないはずだ。
だけどこんな事は一度や二度ではなかった。和馬はいつも俺との約束をすぐに忘れてしまうのだ。
「ごめんね……」
静かな波の音と彼の「ごめんね」が何十回も俺の鼓膜を揺らした。
こんな時彼は一切言い訳をしなかった。言い訳も何もせず、俺に許してもらえるまでひたすら何度も謝り続けるのだ。
「俺は絶対に悪くない。悪いのはこいつの方だ」
俺は心の中で何十回もそうつぶやき、自分の正当性を訴え続けていた。
でも彼の「ごめんね」が聞こえなくなると、俺の正義はいとも簡単に揺らぐのだ。

 「ごめんね」が聞こえなくなって5秒が過ぎた時、横目でチラッと和馬の様子を観察した。
彼は砂の上に体育座りをしてじっと俯いていた。白いポロシャツの襟は海風に揺れ、ジーンズの裾にはわずかに砂がこびり付いていた。
俺の視線に気付くと、和馬は遠慮がちに顔を上げた。ここまで走ってきたせいか、彼の頬は上気して赤く染まっていた。
そして涙をいっぱい浮かべた目が刺すように俺を見つめていた。その目はダイヤのようにキラキラとした光を放っていた。
すごく悔しいけど、俺はこの目に死ぬほど弱いのだ。
このまま放っておくとふっくらした頬にダイヤのかけらが零れ落ちてしまう。
そんな事になったら俺はしばらく罪悪感と共に生きる事になる。たとえどんな理由があろうとも、彼を泣かせる事は罪なのだ。
和馬の柔らかい髪に触れた時、そこからパラパラと砂が舞い落ちた。
両手で彼を抱き寄せると、ダイヤのかけらが温かい水に変わって俺のシャツに吸い込まれていった。


 「夕日が綺麗だよ」
彼の気持ちが落ち着いたのを見計らってそう言うと、和馬の乾いた目が静かな波を見つめた。
もう一度強い力で細い背中を抱き寄せた時、彼が俺の耳元でクスッと笑った。
「夕日が沈んだらキスしてあげる」
静かな波の音色と和馬の囁くような声が俺の鼓膜を揺らした。
その時俺はここぞとばかりに彼に強く訴えたのだった。
「今してくれよ」
「ダメ。夕日が沈むまで待って」
「嫌だよ。そんなの待てない」
「ねぇ、あっちへ行ってみようよ!」
和馬はすっかり元気を取り戻し、勢いよく砂を蹴って立ち上がった。
本当はまだ同じ訴えを続けていたかったのに、俺も彼に促されて仕方なく立ち上がる事になってしまった。
和馬は俺の手をグイグイ引っ張って海辺へ駆け出した。 引きずられるようにして砂の上を走ると、波の音が少しずつ大きくなってくるのを感じた。
俺の小さなため息は、その音にすっかりかき消されてしまったのだった。
「ギリギリのところまで行ってみよう」
彼はそう言って茜色に染まる海へ更に近づいた。
そして靴が濡れるギリギリ手前まで行き、波が押し寄せると慌てて二、三歩後ろへ下がるのだった。

 俺にはもう分かっていた。
和馬はとっくにキスをする約束なんか忘れてしまっている。
彼はいつもこうだった。いつもいいところまで行くのに、ギリギリのところで大事な事を忘れてしまうのだ。
俺は彼の背中を見つめてもう一度大きくため息をついた。生温い風が肌にまとわり付くと、その瞬間に大きな不安を感じた。
こいつ、まさか俺が「好きだ」って言った事まで忘れてるんじゃないだろうな……
そんな不安を抱く時、実は俺も今まで怒っていた事をすっかり忘れてしまっているのだった。

終わり