帰り道、夕日に照らされて

 夕焼け空は赤かった。
10メートル手前を歩く信ちゃんの髪も夕日に照らされて赤く染まっていた。
5月に入ってからしばらく晴れの日が続いているせいか、土の道はなんとなく埃っぽかった。

 信ちゃんの長い影が僕の方に向かってスーッと伸びていた。
僕はせめてその影に追いつこうとしたけど、彼がサッサと歩くのでスローな僕はいつまでたっても彼の影を踏む事さえできなかった。
僕らの歩く道の左側には誰かの家の庭を囲む白い塀があった。
僕は信ちゃんの歩くスピードについていけず、少し息を切らしながら白い塀につかまって立ち止まった。
「待ってよ、信ちゃん!」
しかしその叫びはあたりに空しく響くだけだった。
学ランを着た信ちゃんの影は僕の声に耳を貸す事なくどんどん先へ進んでいってしまった。
彼の影は一歩歩くたびに左右に大きく揺れていた。彼が肩を揺すって歩く時は、すごく怒っている時と決まっていた。
「もう……何怒ってるの?」
僕は再び彼を追いかけ、ふくれっ面でそうつぶやいた。
信ちゃんは最近いつも機嫌が悪いのだ。
僕はバカだけどすごくがんばって勉強して4月から信ちゃんと同じ高校へ通う事ができるようになったのに、彼は学校帰りになるといつもこうして不機嫌なそぶりを見せた。

 僕が早足で歩くと、信ちゃんも突然早足になった。僕が走り出すと、信ちゃんもすぐに走り始めた。
結局僕たちの距離は一向に縮まる事がなかった。
信ちゃんは僕よりずっと背が高くて足が長いので、こんな事を続けていたら絶対彼には追いつけないと思った。
そのうちにだんだん僕もイライラしてきた。僕はきっと信ちゃんと同じぐらい腹が立っていた。
彼との距離は10メートル。
僕はもう本当に頭にきて、道の真ん中に転がっていた石ころを彼に向かって思い切り蹴った。
すると灰色の石が乾いた土の上を転がり、見事に信ちゃんの黒いローファーに命中した。
「痛いなぁ、もう!」
すると信ちゃんがやっと立ち止まって後ろを振り向いてくれた。
彼は背中を夕日に強く照らされ、肩まで伸びた髪が少し透けて見えた。
彼を振り向かせたのはいいけど、眉間のシワとつり上がった目がすごく怖かった。
僕が少しだけ前へ進むと、信ちゃんも少しだけ後ずさりした。僕たちは正面から向き合ったけど、その距離はちっとも縮まっていなかった。
少し怖かったけど、僕は恐る恐る1番聞きたい事を彼に尋ねてみた。
「どうして怒ってるの?」
「怒ってなんかいないよ」
「嘘だ! 絶対怒ってるじゃん」
「怒ってないって言ってるだろ? しつこいぞ!」
「やっぱり怒ってるじゃん!」
僕たちの距離が縮まらないように、僕たちの会話もちっとも前に進まなかった。
信ちゃんの目はつり上がったままだったし、眉間のシワもくっきりと刻まれたままだった。

 もうこんな時が長く続いていたので、僕は本当に悲しかった。
やっぱり僕は信ちゃんには相応しくないのかもしれないと思った。
信ちゃんは昔から頭が良くてスポーツも得意で、いつも皆の輪の中心にいる人だった。でも僕はいつも信ちゃんの陰にくっ付いているだけの弱虫だった。
「同じ高校に行こう」
中学2年の秋頃彼にそう言われた時はとても嬉しかった。信ちゃんと一緒に図書館で勉強した日々は僕の大切な思い出だった。
僕は彼がいたからがんばれたのに。先生や親にも絶対無理だって言われた高校へ合格できたのは、全部彼のおかげだと思っていたのに。 ずっと信ちゃんのそばにいたいから、だからずっとがんばってこれたのに。
それなのに、高校生になった僕たちはいつもこうして小さなケンカを繰り返していた。

 「もういいよ。そんなに僕が気に入らないなら、もう話し掛けないで」
僕はもう信ちゃんを見なかった。その後は黙って地面を見つめ、さっきの彼のようにサッサと歩いてあっという間に彼の影を追い越した。
信ちゃんの横を通り過ぎる時、ほんのり甘いコーヒーの香りがした。 彼はコーヒー味のキャンディーがお気に入りで、いつもガリガリと奥歯でそれを噛み砕いていた。
もう僕の前に影はなかった。正面には真っ赤な夕焼け空が見えるだけだった。
本当は心細かった。僕はいつも信ちゃんの影を追いかけていたから、彼を追い越した後は心細くてたまらなかった。
でも怒ってばかりいる信ちゃんなんか大嫌いだった。僕が大好きなのは、いつも笑顔を絶やさない彼だった。
「待てよ!」
信ちゃんの足音が背後に近づいてきた。彼が小走りで僕を追いかけてきた事はその足音ですぐに分かった。
僕は待つつもりなんかなかったから、少し大またで走り始めた。
信ちゃんは僕よりずっと背が高くて足が長い。信ちゃんが小走りで僕を追いかけるなら、逃げる方の僕は大またで走るしかなかったのだ。
「ちょっと、待てってば!」
「嫌だ!」
僕はもう信ちゃんの怒った顔を見たくなかった。だから必死で彼から逃げた。
でも本当は逃げ切れない事をちゃんと分かっていた。 中学校の運動会で3年間ずっとリレーの選手だった彼が、僕に追いつかないはずなんかなかったからだ。

 「捕まえた!」
50メートルぐらい逃げた時、僕は彼に後ろから右腕を掴まれた。
夕日があまりにも眩しくて、僕は後ろを振り返った。するとそこには真っ赤な夕日に照らされる優しげな信ちゃんがいた。
「お前、俺から逃げられると思ってるの?」
信ちゃんはクスッと小さく笑って僕をじっと見つめた。その時彼の頬は真っ赤だった。
もう彼は怒ってはいなかった。目の表情が穏やかになっていたし、眉間に刻まれたシワも姿を消していた。
「早く帰ろう」
信ちゃんは僕を促して歩き始めた。この時僕たちはようやく2人並んで歩く事になった。
ふと振り向くと、2つの影がちゃんと僕たちを追いかけてきている事が分かってほっとした。
信ちゃんの長い影は、もう左右に揺れ動いてはいなかった。

 それでも僕はまだ安心していなかった。これは最近いつも続いているパターンと同じだったからだ。
朝一緒に学校へ行く時、彼はいつも機嫌が良かった。
でも学校帰りになると何故だか機嫌が悪くなっていて、僕らはいつも同じようなケンカを繰り返していた。
今日はなんとか仲直りできたけど、明日も同じ事を繰り返すのかと思うと少しだけ気が重かった。
「ねぇ信ちゃん、もう怒らないでね」
彼と並んで歩きながら、僕は小さくそう言った。夕日に照らされる道は、僕たちが歩くたびに少しだけ土埃が舞い上がった。
信ちゃんがいつも不機嫌になる訳を知らない僕は、その原因を取り除いてあげる事すらできなかった。
何か悩みがあるならちゃんと話してほしかったけど、彼が何も言ってくれないのはきっと僕が頼りないからだと思っていた。
「お前こそ、あまり俺を怒らせるなよ」
「え?」
僕は信ちゃんの横顔を見上げた。
彼は少し俯き加減で、いつものようにコーヒー味のキャンディーをガリガリと噛み砕いていた。
「僕がいけないの? 僕が何かした? 僕がいつも信ちゃんを怒らせてたの?」
「そんなにまくしたてるなよ」
「だって、信ちゃんを怒らせたくないもん。僕に悪いところがあるならちゃんと言って!」
信ちゃんはそれからしばらく黙っていた。
彼は大粒のキャンディーを口に入れていたので、左の頬が少しだけ膨らんでいた。そしてその頬はやっぱり真っ赤だった。
僕は信ちゃんがキャンディーを噛み砕く音をしばらくそばで聞いていた。
キャンディーが全部溶けてコーヒーの味が彼の口の中から消えたら、きっと何か言ってくれると思っていた。

 「高山ってヤツと、あまり話すなよ」
キャンディーの砕ける音が止んだ時、思った通りに信ちゃんが口を利いた。
夕日に照らされる彼の頬はもう膨らんではいなかった。
「高山くんって……僕のクラスの高山くん?」
「あぁ、他にいないだろ?」
信ちゃんはもう怒ってはいなかったけど、あまり機嫌が良さそうでもなかった。 僕は彼の言っている事がよく分からず、しばらく夕日を眺めながらその意味を考えた。
僕と信ちゃんは同じ高校へ通っていたけどクラスは別々だった。
僕が1年B組で、信ちゃんが1年D組。彼の言う高山くんは僕と同じB組で、僕と彼とは高校入学以来の友達だった。
高山くんはごく普通の少年だった。わりと背が高くて、メガネをかけていて、読書が好き。彼の特徴といえばその程度のものだった。
「どうして? どうして高山くんと話しちゃいけないの? ねぇ、どうして?」
「だから、まくしたてるなよ」
「だって……」
その時の僕には本当に何も分からなかった。
高山くんと口を利くなと言われる所以も、信ちゃんが不機嫌になる訳も、僕にはさっぱり分からなかった。
「もう、お前はトロいから何も分かってないんだよ」
もう怒らないでと言ったのに、信ちゃんの肩がまた揺れ始めた。
そして早足で歩く彼の影が少しずつ少しずつ僕から遠ざかろうとしていた。
「待って。僕、よく分からない」
僕は2メートル、3メートル、と離れていく彼の影を急ぎ足で追いかけた。
でもやっとなんとか彼に追いついても、信ちゃんはすぐに歩く速度を速めて僕の前を行こうとした。
「ねぇ、何? さっきの、どういう事?」
僕は最終的には走って必死に彼を追いかけた。信ちゃんの長い影は、できればずっと僕の後ろに置いておきたかった。

 するとある時、彼が道の真ん中でピタッと立ち止まった。
僕たちが夕日に照らされて向き合うと、2つの影が僕らの横にしっかりと並んだ。
信ちゃんは困ったような、呆れたような、すごく複雑な表情を見せていた。
彼は大きくため息をつき、それからゆっくりとした口調でこう言った。
「高山ってヤツ、お前の事好きだろ?」
「え?」
「お前には分からないかもしれないけど、俺には分かるんだよ」
「……」
「だから、お前があいつと話してるとムカつくんだよ」
伏し目がちな信ちゃんの頬は真っ赤だった。
僕には彼の言っている事が正しいのかどうかはよく分からなかった。
ただ信ちゃんが僕の事をすごく好きだって言ってくれている事だけはよく分かった。
僕が笑うと、信ちゃんが怖い顔をして僕を睨み付けた。

 「信ちゃん、大好き」
思い切り信ちゃんの胸に抱きつくと、不意をつかれた彼が少しだけよろめいた。
その時、僕たちの横に伸びた影が1つになった。
「バカ、離れろよ。人が来るぞ」
信ちゃんはそう言ったけど、僕は決して彼を離さなかった。 信ちゃんの背中に手を回して彼の顔を見上げると、真っ赤な頬がとても愛しく感じた。
「信ちゃん、顔が真っ赤だよ」
「……夕日のせいだろ」
彼は不機嫌そうな顔で僕をじっと見下ろしていた。
僕は今日から彼のつり上がった目も、眉間のシワも、どちらも大好きになれそうな気がしていた。

終わり