雨の午後と雨上がりの朝

 高校2年生になった時、僕は生まれて初めてバイトを始めた。その理由は欲しい物を手に入れたいからという単純なものだった。
親にはとても買ってもらえそうもない、30万円もする腕時計。僕はそれが欲しくて毎日せっせと働く事にしたのだった。
僕のバイト先はラブホテルだった。そこは築30年で部屋数が10室という、古くさくてこじんまりしたホテルだ。
僕の仕事は主にベッドメイキングと館内の監視だった。
ラブホテルはその性質上入口にドアマンを立たせるわけには行かないし、従業員が館内をウロウロするのもご法度だ。
しかし時々困った客がいるので、廊下や階段には何台もの監視カメラが設置されていた。
困った客とはほとんどが部屋を使用した後金を払わずに逃げようとする人たちの事だ。
ホテルの監視室はフロントの奥の狭い部屋だった。
パイプ椅子に腰掛けて壁一面に並ぶたくさんのモニターを眺める事は、僕の大事な仕事の1つだった。

 5月の雨の日。僕はその日の夕方4時頃ホテルへ出勤し、それからすぐに監視室へこもってモニターを見つめていた。
平日のこの時間、僕の仕事はいつも暇だった。
客が帰ったらすぐに部屋の掃除をしなければいけなかったけど、この時間はほとんどの部屋が空室となっていたし、客が次々と入ってくるような事もなかった。
ホテルの屋根を叩きつける微かな雨の音がちょうどいい子守唄となり、1時間もモニターを眺めているとそのうち眠くなってきて欠伸が出た。
するとその時、退屈なモノクロのモニターに一組の客が映し出されたのだった。
僕はなんとなく違和感を覚えながら身を乗り出してモニターに映る2人を凝視した。 するとなんとなくおかしいと感じたのが何故なのかすぐに分かった。
その2人は両方とも男だったのだ。僕は男同士で入ってくる客をこの時初めて見た。
そのうちの1人は斜めにキャップをかぶり、緩めのジーンズを腰ではいていた。 そしてもう1人の男はスーツを身に着けたやたらと背の高い男だった。彼は雨に濡れた黒っぽい傘を右手に持っていた。
僕はその2人に興味を持ち、彼らの動きをモニター越しにずっと観察していた。
彼らはフロントの横を通り過ぎた後らせん階段を上り、2階の廊下を足早に歩いていった。
205号室。その黒いドアの前に立って先に取っ手を引いたのは背の高いスーツ姿の男の方だった。
そしてその男がドアの陰に消えた時、斜めにキャップをかぶった若い男が天井からぶら下がる監視カメラをじっと見上げた。
モニターを通して彼と目が合った時、僕は思わず息を呑んだ。


 2時間後に彼らが帰った後、僕は掃除用具を一式抱えて205号室の前に立った。
明かりを落とした廊下に佇んで天井からぶら下がる監視カメラに目をやると急に心臓がドキドキしてきた。 その後黒いドアをそっと引いて部屋の中へ入ると、僕はますますドキドキした。
205号室はとてもシンプルな造りの部屋だった。
ドアを開けるとすぐ右側にバスルームとトイレがあり、廊下を真っ直ぐに進んで木のドアを開けると大きなベッドのある部屋が出現するのだ。
掃除機のノズルを引きずって廊下を歩き、そっと木のドアを押すと淡いオレンジ色の光で照らされる部屋の様子が明らかになった。
いつもながらに使用後の部屋の中はひどく乱れていた。
テーブルの上には飲み終えたビールの缶が横たわっていたし、青いバスタオルはシワクチャになって床の上に落ちていた。
僕は掃除機やバケツを部屋の隅にそっと置き、奥のベッドへゆっくりと近づいていった。
丸まった掛け布団はベッドの上からずり落ちそうになりながらもかろうじて端の方に乗っかっていた。
無数にシワの寄った白いシーツに手を触れると、男たちの汗を吸ったせいか生地が若干湿っていた。 そして頭の形にへこんだ枕がその上に2つ並べて置いてあった。
それから僕はなんとなくベッドをくっ付けてある鏡の壁に目をやった。するとその時、表面の汚れに気がついた。

 ベッドの上に乗ってみると、ミシッと音がして湿ったシーツに更にシワが寄った。
枕の上に膝をついてもう一度鏡を見つめると、暗い目をした自分と目が合った。
少しだけ目線を横に散らすと、鏡の壁に両手をついた跡が残されているのがよく分かった。
その跡は僕の肩と同じぐらいの高さにあった。5本の指の跡がはっきりと残る左右の手型は、だいたい50センチほど離れて存在していた。
僕は鏡の上に残る薄い手型の上に自分の両手を重ねてみた。
少し視線を落とすと、今度は鏡に浴びせられた精液が雨のように滴り落ちていった痕跡を発見した。
射精後随分時間が経っていたのか、鏡に残る白っぽい雨の痕跡はすでに乾いているようだった。
僕は冷たい鏡の上に両手を置いたままそっと目を閉じてあまりにもいやらしい妄想を頭に浮かべた。
ベッドの上に膝をつき、両手を鏡に押し付け、パートナーの硬いものがグイグイと体の奥へ入ってくる。
その様子を思い描いた時、僕は興奮して股間を膨らませた。

 我慢ができなくなった僕は右手を鏡から放し、身に着けていたジャージのズボンとトランクスを急いで下ろした。
鏡に両手をついて射精したのはいったいどっちの男だったのだろう……
熱くなったものを指で擦り付ける時、鏡の前で何度も何度もそれを考えた。
そして結局、手の位置からいってそれが彼の方であるという結論に達した。
彼の連れは随分と背の高い男だった。あのスーツの男なら、鏡に手をつく位置はもっともっと上の方だったはずだ。
そう思った時、瞼の奥にモニター越しに見つめ合った彼の顔が浮かんだ。
大きな二重の目と、丸い鼻と、薄い唇。
あの時僕を見つめたのは、間違いなく同じクラスの中村久志だった。
彼は学校では優等生として知られていた。教師からの信頼も厚く、現在は風紀委員を務めているような人だ。
明るくて、成績が良くて、清潔なイメージの優等生。
僕は品行方正な中村のもう1つの顔を知ってしまったのだ。これが興奮せずにいられるか。
マスターベーションを始めると、今までにないほど強烈な快感が全身に襲い掛かってきた。
あっという間に先端が濡れてしまい、右手の指も徐々に湿ってきた。
難しい数式をいとも簡単に解く彼がこんな所で射精した事を想像すると、興奮はますます高まっていった。
僕は裸になった彼が鏡に手をついて喘ぐ姿を頭に浮かべた。
パートナーが体の奥へ入ってくるたびに小さな尻が突き上げられる。
気持ちがよくなった彼は腰が砕けそうになるけど、鏡にしっかりと両手をついてなんとかそれを堪える。
彼は時には喜びの声を上げる。そしてパートナーの動きが静かになった時にはもっと激しくしてくれと注文をつけたりもする。
ベッドはミシミシと不定期に音をたて、湿ったシーツにどんどんシワが寄っていく。
その行いが長くなると、彼の華奢な肉体に汗が浮かぶ。そして立ち上がった先端には汗とは別なものが浮かぶ。
その時僕は自分の身を投じて彼を射精に導きたいと思った。 彼の細い腰を支えて体の奥へどんどん入り込み、右手の指で濡れた先端をくすぐってあげたいと思った。
そんな妄想を何度か繰り返すと、僕は遂に射精した。
すごく気持ちがよくて、膝がガクガクと震えて、鏡に置いた手が汗ばんだ。

 射精を終えてゆっくり目を開けると、鏡に飛び散った白い雨が滴り落ちていく様子が見えた。
スーッと鏡の上を滑り落ちる雨は濡れて光っていた。
僕は彼の分身に潤いを与え、彼と鏡の上で結ばれたのだった。
「はぁ……」
1つ大きく息をついてなんとなく膝の下の枕に目を向けた時、その横に何か赤っぽい物が落ちている事に気づいた。
右手でそっと拾い上げると、それが学業のお守りである事が分かった。


 一晩中降り続いた雨は夜明け間近になってようやく止んだようだった。
学校へ続くアスファルトの歩道には所々に水たまりが残されていた。朝の太陽が水たまりに反射して、時々鋭い光を放った。
登校中の生徒が誤ってその中へ足を踏み入れると、水たまりの水が乾いたアスファルトの上に飛び散った。
僕はそれを目撃するたびに鏡に浴びせられた白い雨を思い出した。
僕の通う高校は町の真ん中に存在していて、道路は朝から交通量が多かった。 車のタイヤが道路に残った水たまりを蹴ると、細かい水しぶきが僕の足元にまで飛んできた。
「おはよう!」
歩道をずっと歩き続けて行くと、やがて右手に灰色の校舎が見えてきた。
中村がそう言って後ろから僕の肩を叩くのは、毎朝だいたいその頃と決まっていた。
彼は笑顔を浮かべて僕の隣へやってきた。体にピッタリ合う学ランを身に着けた彼は、とても清潔な印象だった。
大きな二重の目と、丸い鼻と、薄い唇。そのすべてが朝日を浴びて輝いていた。
「なぁ、国語の宿題やってきた? やってあるなら見せてよ」
彼は真っ黒な髪を両手でそっと撫でながらいつもと変わらぬ様子でそんな言葉を僕に浴びせた。 しかし彼が宿題を忘れるのはとても珍しい事だった。
「宿題を忘れたの? いったい昨日何してたんだよ」
きっと中村は僕が口にした言葉の深い意味などまったく理解してはいなかった。

 中村の笑顔が消えた。
彼は眉を下げて困り果てたような表情を作り、それからゆっくりと下を向いた。
「大事なお守りをなくしちゃったんだ。 昨日はずっとそれを探し回ってたんだけど、鞄の中にも洋服のポケットにもどこにも入ってなくてさ……」
登校中の生徒たちの声に、彼の言葉がかき消された。
スッと大きく息を吸うと、雨に濡れたアスファルトの独特な香りがした。
隣を歩く彼はそれから下を向いたまま何も喋らなくなった。 彼の足が水たまりを蹴ると、乾いたアスファルトの上に水しぶきが飛び散った。
その日は本当によく晴れたさわやかな朝だった。
僕は遠くの空を見つめながらズボンのポケットの中にそっと右手を滑り込ませた。するとすぐに四角く小さな物が指先に触れた。

 「これが君の探してる物だろう?」
ポケットから取り出した物を見せてそう言ったら、きっと中村は笑顔を取り戻すだろう。
その後彼は、こう言うに違いない。
「これ、どこにあった?」
その質問にはっきりと答えたら、僕は彼を手に入れる事ができるだろうか。
30万円もする腕時計なんか、もういらない。
僕はそんな物よりも彼が欲しくてたまらなかった。

終わり