明日は仕事が休みだ。
午前2時。今俺はゆったりしたソファーに腰掛けて映画のビデオを見ている。両足をテーブルに乗っけても、1人きりだから誰にも注意される事はない。
映画といってもかなり前にテレビで放映したのを録画した物だ。話の合間に入り込むCMがやけに古めかしくて、なんだかちょっと笑えた。
この部屋で1人暮らしを始めてからそろそろ2年になる。つまり、大学を卒業してから2年の月日が流れた事になる。
俺は必死に勉強していい大学を卒業し、名のある会社へ就職した。でも、だからといって幸せになれるとは限らない。
名のある会社で雑務をこなし、休みの前の日はたった1人でビデオを見る。空が白々してきた頃にやっと眠り、目が覚めると翌日の午後になっている。
こんな暮らしを続ける俺は、やはり幸せとはいえないだろう。
それでも俺は休みの前の日にこうしてビデオを見るのが好きだった。
ゴチャゴチャした部屋の中を覆い隠すために明かりを落とし、映画の世界に入り込んで現実逃避する。それが今の俺のささやかな楽しみだった。
今、大きなテレビ画面には2人の男が映し出されている。1人は金髪の美男子で、もう1人は太った中年男だ。
彼らは激しく口論しているのだが、俺はその理由が理解できなかった。
どうやらほんの2〜3分ぼんやりしている間に話の筋が分からなくなってしまったようだ。
しかたがない。ビデオを少し巻き戻すか。
そう思ってテーブルの上のリモコンに手を伸ばした時、俺は間違えてその横にある携帯電話を掴んでしまった。すると、なんともタイミングよく手の中にある携帯電話が震え始めた。
「誰だ? こんな夜中に」
これはもちろん独り言だ。
俺は一瞬嫌な予感がした。電話の相手をたしかめるために携帯電話を開いてみると、液晶画面に見知らぬ携帯電話の番号が表示されていたからだ。
「まさか仕事の電話じゃないだろうな」
これももちろん独り言だ。
俺は電話に出るかどうかしばらく悩んだ。昔一度だけこの時間に急な仕事で呼び出しをくらった事があるからだ。
たった今俺の携帯電話を震わせているのは、もしかして同じ会社の誰かなのかもしれない……
こうして俺が悩んでいる間も、携帯電話はブルブルと震え続けた。
「まいったな……」
俺は三度目の独り言をつぶやき、しかたなく電話に出る事にした。
「もしもし、まだ起きてた?」
電話の相手は最初にそう言った。それは若い男の声だった。
「起きてたよ」
俺はひとまずそう答えた。だけど電話の相手が誰なのかという事はよく分かっていなかった。ただ彼の話し方がやけに親しげだったので、電話の相手はきっと俺の知っている誰かなのだろうと思っていた。
「今大丈夫? 少し話したいんだ」
「あぁ、いいけど……」
いいけど、君は誰?
俺は続けてそう言おうとした。でもその前に電話の相手が突然泣き出してしまい、結局俺は絶句した。
「マサルの奴、また僕に嘘ついたんだ。今日は仕事で会えないって言ったくせに、本当はケンジと2人で遊びに行ったんだよ」
彼はそれから延々と "マサル" に対する不満を語り続けた。涙声で、息もつかず、そして俺に喋る隙を与えないほどに。
彼の話では、マサルが自分に嘘をつくのはこれで二度目だという。
一度目の嘘はこうだ。
彼はマサルと映画に行く約束をしていた当日、突然電話がかかってきてその約束をキャンセルされた。しかしその後、マサルが彼との約束を断って別な人とドライブに出かけた事実が発覚した。
その時彼は泣きながらマサルを責めたらしいが、当のマサルは自分の嘘を決して認めなかったという。
そして、以下がマサルの二度目の嘘についての彼の見解だった。
「今日の夕方マサルのバイト先に電話したら、あいつが休んでる事が分かったんだ。マサルは絶対ケンジと一緒に遊びに行ったんだよ。 昨日2人でコソコソ何か話してたもん。あの時、きっと今日の遊びの計画を練ってたんだ。絶対そうに決まってるんだ。それなのに、さっきマサルに電話したら今仕事してるって言い張るんだよ。マサルはそのうち勝手に電話を切っちゃって、もう二度と電話がつながらなくなったんだ。ねぇ、僕はどうしたらいい? このままマサルの嘘に付き合うしかないのかな? だってあいつ、絶対自分の嘘を認めないんだもん。僕がしつこく責めると怒り出すし……僕もうどうしていいのか分からないんだ。マサルの事がすごく好きだから、本当は怒らせるような事はしたくない。でも、でも……」
そう言われても、俺もどうしていいのか分からなかった。
俺は "マサル" を知らない。そして、"ケンジ" も知らない。
恐らく彼は相当動揺していた。
話の最後の方は喋っているというより泣き叫んでいるような状態で、ひとしきり話を終えた後にも電話の向こうからすすり泣く声が聞こえていた。
だいいち、彼は大事な話を打ち明ける相手を間違えていた。
こんなに大事な話を打ち明けるぐらいだから、彼が本当に電話したかったのは本人にとってかなり信頼できる相手だったに違いない。
でもとにかく電話の向こうの彼はかなり取り乱していたから、俺としては今更間違い電話の指摘をするのも気が引けた。
それ以上に、なんとか彼を落ち着かせてやらないとこのまま死んでしまうのではないかと思った。彼の声は俺にそう思わせるほど切迫していたんだ。
困ったなと思いながらふとテレビ画面を見つめると、さっきまで口論していた2人の男たちが握手を交わして微笑んでいた。
彼らがいったいどうして口論になったのか俺には分からなかったけれど、ちゃんと2人の関係は修復されていた。
やがて2人の笑顔が画面から消えると、映画が終わってエンドロールが流れ始めた。
「マサルは、いつも自分の嘘を認めないんだろ?」
「うん」
俺は電話の向こうで泣きじゃくる彼にできるだけ優しく語りかけた。
どうしてそんな事をしたのかと聞かれると困ってしまうが、この時の彼の声を聞いていたら、きっと誰でもそうしたのではないだろうか。
「それは、お前と仲良くしていきたいと思ってるからだよ」
「……」
俺は間違い電話をかけてきた彼の事が羨ましかったのかもしれない。
俺はもう長い間真剣に人を好きになった事がなかった。
その人の事を考えて泣いたり、夜中に間違い電話をかけてしまうほど動揺するだなんて……今の俺の暮らしの中では、到底そんな事は考えられなかった。
「たまにはよそ見する事もあるけど、マサルはお前の事を絶対に手放したくないんだよ」
「……そうかな?」
「そうに決まってるだろ? マサルは、最後はお前の所へ戻ってくるんだよ」
「……」
彼は俺の言葉を聞いて少しは落ち着きを取り戻したようだった。その証拠に、もう電話の向こうから泣き声が聞こえてくるような事はなかった。
それからしばらく俺たちの間に沈黙が走った。よく耳を澄ますと、電話の向こうから微かに車の通り過ぎるような音が聞こえてきた。
彼はもう大丈夫だろう。俺はそう思い、そろそろ電話を切ろうとした。
この電話が間違いだという事はあえて言う必要はないだろう。そのうち冷静になった時、彼自身がその事に気づくはずだから。
「じゃあ……」
じゃあ、そろそろ切るぞ。
俺は続けてそう言おうとした。でもその前に電話の相手がもう一度語りかけてきて、結局俺は絶句した。
「あんたは、優しいね」
「……」
「僕、あんたの事を好きになればよかった」
「……」
彼がそう言った後、突然テレビ画面が砂の嵐に変わり、チカチカする光が俺の足元を微かに照らした。
「ねぇ、今からでも遅くない? あんたの事を好きになってもいい?」
見知らぬ彼にそう言われた時、携帯電話を持つ手にじっとりと汗が滲んだ。
耳元で囁く彼の声はとても魅力的で、そしてわずかに挑発的だった。
「これから会いに行ってもいい?」
「……うん。いいよ」
俺は電話の向こうの魅力的な彼にできるだけ優しく返事をした。
どうしてそんな事をしたのかと聞かれると困ってしまうが、この時の彼の声を聞いていたら、きっと誰でもそうしたのではないだろうか。
「待っててね。今すぐそっちへ行くから」
ドキドキするような声が、耳元でそう囁いた。
俺は目の前に広がる砂の嵐を見つめ、どうしても聞きたかった事を彼に尋ねた。
「ところで……君は誰?」
終わり