つないだ手の温もり

 同じクラスの結城くんは、いつも僕の事を見ていた。
高校へ入学してから1ヶ月。僕は一度も話した事のない彼と何万回も目が合った。
僕らの通う高校は男女共学で、うちのクラスの男子は17人。
結城くんはどちらかというとやんちゃで、勉強よりも髪型ばかり気にしているような子たちと仲良くしていた。
そして僕は昔から優等生を演じていたから、マジメでおとなしい子ばかりと付き合っていた。
僕はちょっとずるいのかもしれない。大人はバカだから、いつも人の表面的な部分しか見ないものだ。
おとなしくマジメな子たちと付き合っていれば、先生が僕に向ける目は温かくなる。
僕はそういう事がよく分かっていたから、ずっと優等生を演じ続けてきたんだ。

 学校のランチタイム。
僕はいつも仲良くしている友達と5人で集まって机の上に弁当を広げていた。
僕らの教室は日当たりが良くてその時はすごくポカポカしていたから、ほとんどのクラスメイトたちは制服のブレザーを脱いでいた。
相変わらず、上辺だけの友達との会話は退屈だった。
4人全員がメガネをかけている彼らは、勉強の話かマンガの話しかしない。
この世にはもっと大事な事やもっと楽しい事がたくさんあるのに……彼らはきっと、まだその事を知らない。
僕は彼らの話に適当に相づちを打ちながら、何気なく窓の方へ目を向けた。
すると、また結城くんと目が合った。
彼は窓に沿って並んでいる本棚の上に仲間たちと腰かけ、白い牛乳パックを手に持ってストローをくわえていた。
彼の友達はパンをかじりながら談笑していたけれど、彼だけはじっと僕を見つめていた。
結城くんは絶対女の子にもてるタイプだ。 少し長めの後ろ髪は太陽に透けていて、袖をまくったワイシャツから伸びる腕は細く、ダボッとした制服のズボンがすごくよく似合う。
僕はそんな彼がいつも自分だけを見つめている事に対して優越感に浸っていた。
「ねぇねぇ……」
僕は彼から目を逸らし、退屈な仲間たちと顔を寄せ合って内緒話をしているフリをする。
そんな時横目に見える彼は、いつも淋しげに俯いていた。

 僕は決して優等生なんかじゃない。絶対に大人が思うようないい子なんかじゃない。
タバコを吸った事もあるし、お酒を飲んだ事もあるし、万引きした事だってある。それに、人に平気で嘘をつく事もできる。
友達にそんな事を話しても信じてもらえないと思うけれど、それは本当だった。

 結城くんはスポーツ万能だった。体育の時間、彼はいつもヒーローだった。
その頃体育の授業はバスケットをやっていて、二面あるコートのうち半分が女子、そしてもう半分を使って男子が試合をやっていた。
締め切られた体育館の中にはボールをドリブルする音が響き、そのボールを追いかけて結城くんが華麗な走りを見せる。
彼の運動能力はズバ抜けていて、誰も彼について来れない。
しかも彼はジャージがよく似合う。いや、ジャージが似合うというより、長身で体型が綺麗だからきっとなんでも似合うんだ。
ダサい学校指定のジャージすらかっこよく着こなしてしまう彼。
コートの中を駆け回り、次々とゴールを決める彼。
隣のコートはいつの間にか試合が中断し、女子も男子も皆が彼の動きに注目している。
結城くんはすごくかっこいい。彼は普段から素敵だけれど、動くともっとかっこいい。
ボールを追いかける真剣な眼差しや、揺れる髪や、飛び散る汗がいつも僕をドキドキさせる。
そんな彼は試合が終わるとタオルで顔の汗を拭きながらチラッと僕の方を見る。
皆が彼に注目しているその時でも、彼の2つの目はじっと僕を見つめていた。

 僕が彼と目が合わなくなったのは、間違いなくあれがきっかけだ。
結城くんはあれ以来まったく僕を見なくなった。
情報処理の授業の時、僕らは別室へ移動する。
僕はその日、どうしてか分からないけれど授業が始まる寸前に情報処理室へ滑り込んだ。
その日も外の日差しが強く、その部屋のカーテンはすべて閉ざされていた。そうしないとパソコンのブラウザが見づらいからだ。
情報処理室には、2人が座って使える横幅の広い机が2列に並べられていた。
僕らの通う高校は公立のせいか貧乏なようで、1台のパソコンを2人で使う事になっていた。
その時すでに僕が仲良くしている他の4人は席に着いていて、1番後ろに並ぶ2つの机だけに空席が2個あった。
1番後ろの机の右側には、結城くんが1人で座っていた。そしてその隣の机には、いじめられっ子の吉田くんがいた。
僕はその時、結城くんの横へ座るか吉田くんの横へ座るかの選択を迫られていた。
結城くんは硬い椅子に腰かけたまま、緊張の面持ちで僕を見つめていた。そしてちょっと太めの吉田くんは立ち上げたばかりのパソコンの前に座って俯いていた。
その時僕は迷わず吉田くんの隣に腰かけた。
普通なら、特に女の子ならこんな時、絶対に結城くんの隣へ座ったはずだ。でも僕は結城くんにやきもちを焼かせたかったんだ。
だから僕はその時間中、普段は鼻にもかけない吉田くんとわざとベタベタしてやった。
途中でチラッと結城くんに目を向けると、彼はまったく僕を見ず、苦虫を噛み潰したような顔でパソコンのブラウザを睨みつけていた。

 僕はそれ以来、結城くんと目が合わなくなった。
授業中も、お昼も、放課後も、彼はまったく僕を見なくなった。
体育の時間、彼は今日もまたヒーローだった。
決して僕を見ようとしない結城くんが、以前よりもっと眩しく見えた。
ボールを追いかける真剣な眼差しも、揺れる髪も、飛び散る汗も、彼のすべてが眩しく見えた。

 僕は彼と目が合わなくなっても、結城くんの事を見つめ続けた。
なのにあれから2週間たっても結城くんと目が合う事は一度もなかった。
僕はしだいにその事に対して苛立ちを覚えるようになった。
ほんの2週間前まで、結城くんは僕だけを見つめていたのに。 皆の視線を釘付けにするぐらいかっこいい彼は、この僕に釘付けだったのに……

 そのうち僕は、学校がつまらないと思い始めた。
気の合わない仲間たちと退屈な会話を交わし、興味の持てない授業を聞き流し、ランチタイムには代わり映えしない弁当を食べる。
結城くんと目が合わなくなってからの僕は、毎日がその繰り返しだった。
そして僕の苛立ちが頂点に達したのは、ある日の放課後メガネの4人組とアニメ映画を見に行くために街を歩いていた時の事だった。
映画館へ続く道は街1番の繁華街だから、人が大勢いた。夕方4時頃といえば、多くの学生たちが様々な場所へ寄り道する時間だ。 僕はそんな中を気の合わない4人組とトボトボ歩いていた。
通り過ぎるお店の中には僕らと同じ制服を着た人もいたし、別な制服を着ている人たちもたくさんいた。
壁全体をピンク色に塗った雑貨屋の中には若い女の子たちがいっぱいいたし、ゲームセンターの中には僕らと同じ年代の少年たちがいた。
僕はいつものように友達の話に生返事をしながら、ずっと道沿いに並ぶお店の中をぼんやりと見つめて歩いた。
そしてあるファーストフード店の前を通りかかった時、思わず僕の足が止まった。
ガラス張りの店内には他と同じく若い子たちがいっぱいいて、それぞれが席に座ってお喋りに興じているようだった。
そして僕はその中に結城くんの姿を見つけた。
彼は私服姿の女の子と向かい合って座り、右手にグラスを持ってストローを口にくわえていた。
彼と一緒にいる女の子は、僕に背を向けて座っていた。それはピンク色のカーディガンを着た髪の長い女の子だった。
彼女の正面に座ってジュースを飲んでいる彼は、とってもいい顔で笑っていた。 彼の綺麗な目はその時、目の前の彼女だけを見つめていた。
僕はすれ違う人たちと時々肩がぶつかりながらもそこから動き出す事ができずにいた。 僕は雑踏の中どのぐらいの時間動けずに彼を見つめていたんだろう。
やがて結城くんは僕に気付き……僕らは2週間ぶりに目が合った。
「何してるの? 早く行こうよ。映画に間に合わなくなっちゃうよ」
やっとやっと結城くんが僕を見つめてくれたのに、その幸せはほんの2秒で終わりを告げた。
僕の目の前に銀縁のメガネをかけた坊主頭の友達がやってきて、映画に間に合わないからとグイグイ僕の腕を引っ張り始めたからだ。
僕はその時、結城くんと引き離されるのが嫌だった。そして彼が女の子と一緒にいた事にものすごく苛立ちを覚えていた。
『君はずっと僕だけを見つめていたのに。ずっと僕の事が好きだったくせに……どうして僕たちはこんなふうになっちゃったの?』
僕の心がこんなに強く叫んでいるのに、誰もその声を聞いてなんかくれなかった。

 僕は横断歩道の手前で待っていた仲間たちの元へ引きずられていった。
メガネをかけた4人組は、僕が苛立っている事にも気付かずヘラヘラと笑っていた。
やがて信号が青になり、彼らは何事もなかったかのように横断歩道を渡り始めた。
僕はその時、すべての事に苛立っていた。 横断歩道の手前で立ち尽くす僕の肩にぶつかって歩く奴らにも、今にも雨が落ちてきそうな曇り空にも、湿度が高くてベタベタする外の空気にも。
僕はもう頭に血が上っていて、とても映画を楽しめるような気分ではなかった。 だいたい僕は、最初からアニメ映画になんか興味がなかったんだ。 退屈な仲間たちがしつこく誘うから、だからしかたなく付き合ってやろうと思っただけなんだ。
横断歩道の真ん中で、メガネをかけた坊主頭の男が振り返った。
彼が僕を手招きした瞬間、僕の思いは爆発した。
「アニメ映画なんか見たくない! そんなくだらない物、お前らだけで見に行けばいいだろう!」
僕は大きな声で思いを吐き出し、彼らに背を向けてその場を走り去った。
繁華街には人がたくさんいたけれど、誰も僕の事なんか気にしていないようだった。
僕はその翌日から結城くんだけでなく、誰とも目が合わなくなった。

 1人ぼっちがこんなにつらいなんて、今まで知らなかった。
僕は翌日からメガネの仲間たちに完全に無視され、孤独な日々が続いた。
優等生のイジメはとても陰湿だった。
僕はあれ以来、何回自分の物を隠されたか分からない。
ノートを隠され、その事で先生に宿題をやってこなかったと決め付けられて、皆の前で怒られた事もある。
ランチタイムにたった1人で弁当を食べるだけでもすごくつらいのに、そのうち弁当箱自体を隠されるようになった。
そのうち僕は、いつもランチタイムになると誰にも知られずに教室をそっと抜け出し、屋上でぼんやりと過ごすようになった。
その頃の僕にとっては太陽だけが友達だった。屋上に立って空を見上げると、いつも太陽が僕を照らしてくれたからだ。
太陽は誰の上にも平等に輝く。
こんなちっぽけな僕の事も、ちゃんと優しく照らしてくれる。

 あれは僕が1人ぼっちになって10日が過ぎた頃の事だった。
僕はいつものようにランチタイムになると教室を抜け出し、屋上へ行った。
屋上で風の音を聞くと、すごくほっとした。教室にいるとどうしても友達と仲良く話す子たちの声が耳に響いて泣きたくなってしまうからだ。
その頃の僕の友達は、太陽と屋上に吹く風だった。
あの時空から雨が落ちてくれば、きっと僕は雨の雫と友達になれただろう。
その日はランチタイムが済むと、情報処理の授業が待っていた。もうその頃、情報処理室での僕の席は決まっていた。
1番後ろに並ぶ机の右側に陣取るのが僕で、左側が吉田くんだ。
カーテンが引かれた薄暗い部屋の中。たった1人でパソコンのブラウザを見つめると、どうしてもあの日の事を思い出してしまう。
僕が吉田くんの隣に腰かけ、結城くんの嫉妬を誘ったあの時の事だ。
僕は彼にひどい事をした。
どうしてあの時、素直に結城くんの隣へ座らなかったんだろう……
でもそんな事、今更悔やんでも遅すぎる。もう何もかもが遅すぎるんだ。
僕がブラウザを見つめながらそんな事を考えていた時、背後でガラッとドアの開く音がした。
何気なく振り返ると、そこには結城くんが立っていた。
僕はその時、久しぶりに彼と目が合った。長い後ろ髪と、綺麗な目と、ワイシャツから伸びる細い腕。 僕がそれを直視したのは本当に久しぶりだった。
でも僕はすぐに彼から目を背け、再び前を向いてパソコンのブラウザを見つめた。
もう前の方の席は全部先に来たクラスメイトたちで埋まっている。
結城くんは今、僕の隣へ座るか吉田くんの隣へ座るかの選択を迫られていた。
でも僕にはもう分かっていた。彼はきっと、吉田くんの隣へ座る。そうに決まっている。
僕がそう思って小さくため息をついた時、黒板の横の白いドアが開いて情報処理の先生が教室へやってきた。
するとそれとほぼ同時に、僕のすぐ横に誰かの影が見えた。驚いてその影を見つめると、そこには結城くんが座っていた。
僕は心臓がドキドキして、彼の目を見る事ができなかった。せっかく彼が隣にいるのに、ただ俯く事しかできなかった。
先生がチョークで黒板に何かを書きながら大きな声で喋り始めても、僕にはそんな声がまったく耳に入らなかった。

 隣に座る彼が音をたてずにキーボードを打ち、僕を肘で突いたのは、授業が始まって10分が経過した時の事だった。
僕の右腕に彼の肘が軽く当たった後、僕はドキドキしながらブラウザを見つめて彼が打ち出した文字をじっと目で追った。
その文字は涙で滲んで見えた。

『絶対泣くなよ』

僕はその短い言葉を読み取った時、目から涙が零れ落ちる寸前だった。
でもギリギリのところでそれを食い止め、誰にも気付かれないように零れ落ちそうな涙をそっと手で拭った。
すると結城くんがまた音をたてずにキーボードを打ち、僕の肘を突いた。

『放課後教室に残って。話があるんだ』

その文字は、もう滲んではいなかった。
僕はたまらない思いでキーボードに指を乗せ、目を合わせずに彼と会話を交わした。
僕らはお互いの顔をまったく見ず、ただ白く光るブラウザに浮かび上がる文字を目で追っていた。

『この前はごめんね』
『気にしてないよ』
『隣にきてくれてありがとう』
『俺たち、話すの初めてだな』
『ほんとだね』
『周りにいっぱい人がいても、俺たちが話してる事はきっと誰も知らないよ』
『なんだかドキドキする』
『俺も』

僕はその次の返事を返すため、硬い椅子の上に投げ出された右手の指をキーボードの上へ乗せようとした。
だけど、それはできなかった。
僕の右手が突然結城くんの手に強く握られてしまったからだ。

『周りにいっぱい人がいても、俺たちが手をつないでる事はきっと誰も知らないよ』

結城くんは器用に右手の指だけでその言葉を打ち込んだ。


 放課後の教室。
クラスメイトたちが帰ってしまうと、僕らは2人きりになった。
日当たりがいい教室には相変わらず窓の外から太陽の光が入り込み、部屋いっぱいに並んでいる机の影が白い床の上に映し出されていた。 2人きりの教室は、とても静かだった。
結城くんは窓に沿って並んでいる本棚の上に腰かけて宙を見つめていた。
そして僕は自分の席に座って固まっていた。その時はすごく緊張していて、彼を見つめる勇気さえ失われていた。
「こっち来いよ」
結城くんは本棚の上に腰かけたまま自分の指の爪を見つめてそう言った。
僕はもうチャンスを逃すのが嫌だった。以前のように彼と隣になるチャンスを自ら投げ出して、後で悔やむのはもう絶対に嫌だった。
だから僕はすぐに立ち上がった。
僕が椅子を引いて立ち上がると、椅子の足と床の擦れ合うギギーッという音が教室の中にやけに大きく響いた。
僕はすぐに走って彼のところへ駆け寄り、本棚の上に腰かけた。僕は一度でいいからそこに座ってみたかったんだ。
お尻の下はすごくポカポカした。それはきっと、本棚がいつも太陽に照らされていたからだ。
僕が隣に座ると、結城くんが自分のリュックの中から何かを取り出した。
「ほら」
短くそう言って彼が僕に差し出した物は、青い巾着袋に入った僕の弁当箱だった。
僕はそれを受け取った時、胸がズキンと痛んだ。
僕を無視するメガネの優等生たちは、隠した弁当をいつも帰りまでに僕の机の中へ返しておく。
僕はその時孤独だった10日間の記憶が全部いっぺんに頭の中に蘇り、とうとう彼の前で泣いてしまった。
両手で抱える巾着袋の青が、零れ落ちる涙で紺色に変わっていく。
彼はしばらくその様子を見つめ、やがて紐で縛ってある白いカーテンに手を伸ばしてそれをシャーッと引いた。そしてその白いカーテンで、僕の涙を拭いてくれた。
「ハンカチなんて気取った物は、持ってないんだよ」
僕は彼の声を聞きながら震える手で白いカーテンの端をつかみ、堪えきれない涙をその布に染み込ませていた。

 「お前、弁当の時間どこへ行ってたんだ? 俺、探したんだぞ」
結城くんにそう言われ、僕は濡れた目で彼を見つめた。彼の顔はすぐ近くにあった。手を伸ばせばすぐ届く距離にあった。 こんなに近くで彼を見つめるのは、生まれて初めてだった。
結城くんは窓に寄り掛かり、長い後ろ髪をかき上げ、それから今日のお昼の出来事を僕に話してくれた。
「お前、最近メガネの連中と全然話してなかっただろう? あいつら、休み時間にお前が席を立つと必ずお前の机に近づいて何かゴソゴソやっててさ……俺、ずっとおかしいと思ってたんだよ」
僕はその時、初めて気が付いた。僕はしばらくずっと結城くんと目が合わなくなっていたけれど、だからといって彼が僕の事を全然気にしていなかったわけじゃないんだ。
お互いの目を合わせずパソコンのブラウザで会話した時のように、きっと彼と僕は静かにつながっていたんだ。
「お前が1人でメシを食ってるのも気になってたけど、そのうち昼になったらどこかへ行っちまうようになっただろう? きっと何かあるんだと思ってたよ」
僕はもう結城くんの顔を見る事すらできず、目に白いカーテンを当ててひたすら涙を染み込ませていた。
でも僕は悲しくて泣いていたんじゃない。結城くんが僕を気にかけていてくれた事が分かって嬉しかったから、すごく安心して泣いてしまったんだ。
彼と目が合わなくたって、僕らはちゃんとつながっている。今だって彼の目は見えないけれど、すぐ側で彼の声が聞こえる。
「俺、あいつらからお前の弁当をちゃんと取り返したからな。これで明日からお前の弁当は無事だぞ」
僕はその時、彼がどんな顔をして話していたのか全然分からない。僕は彼の顔も見られなかったし、彼の言葉に返事をする事すら困難だった。
「明日はここに座って、俺と一緒に弁当食おうぜ」
僕はそう言われ、やっと顔を上げた。僕は本当はずっとこの場所に座って彼とお昼を一緒に食べたいと思っていたんだ。
彼はその時、心配そうな目で泣き腫らした僕の目を見つめていた。
そして彼は僕が掴んでいる白いカーテンを引っ張り、僕らは窓ガラスとカーテンの間に挟まれて本当に2人きりになった。
2人きりの狭い空間は、窓の外から温かい太陽の光が差し込んでポカポカしていた。
きっと今からここが僕と彼の居場所になるんだ。僕にはその事がすぐに分かった。
やがてさっきまで器用にキーボードを打っていた彼の細い指が僕の頬に触れ、僕らは太陽に見守られながらキスを交わした。 それは唇と唇がそっと触れ合うだけの軽いキスだった。
僕はキスが終わると急に恥ずかしくなってしまい、もう本当に彼の目を見る事ができなくなってしまった。

 僕らはその後ほとんど言葉も交わさず、静かに校舎を出た。
帰りのバス亭へ続く道には、もうほとんど人がいなかった。 バス亭へ向かう道は右側が林で、左側が食料品を加工する工場になっていた。
僕らは埃っぽい道を並んで歩き、時々吹く風を肌に感じながら、2人きりのゆったりとした時間を過ごした。
辺りはとても静かで、まるで世界中で2人きりになったような気分だった。
「手、つなぐぞ」
しばらく歩くと彼がそう言って、僕にそっと手を出した。
僕が遠慮がちに彼の指を掴むと、彼は僕の小さな手をぎゅっと握り締めた。
僕らはバス亭へ着くまで、一度も目を合わせる事がなかった。
広いバス通りへ出ると、歩道の上にいっぱい人がいた。その道はバス通りだけあって、交通量もかなり多かった。
神社の前を通り過ぎると、赤いランドセルを背負った小さな女の子が僕らの前を歩いていた。
僕らは彼女を追い越さないようにできるだけゆっくりと歩いた。
でもやがて僕らの足音に気付いた彼女がパッと後ろを振り返り……その瞬間、つないでいた彼の手が僕から離れた。
僕らは何も話さず、お互いの顔も見ずにゆっくりゆっくり歩いた。
その間彼と目が合う事は決してなかったけれど、僕の手にはしっかり彼の温もりが残されていて……たとえ目が合わなくても、つないだ手を離しても、僕らの心はちゃんとしっかりつながっていた。

終わり