薪さんと父性
シリーズ中でも最高傑作と名高い7巻ですが、読んでいて一点だけ気になったことがありました。それは「なぜ薪さんがあのタイミングで千堂咲の出生の秘密をバラしたか」ということです。
ようやく親子対面が叶うというその矢先、薪さんは千堂大臣に娘との血縁関係がないことを明かしました。
犯罪者になってでも守りたかった最愛の娘が、実は娘ではなかったのです。
千堂は深いショックを受け、自分を裏切った妻と、それに類する者として咲を切り捨ててしまいました。
自己中心的な千堂の性格を考えれば、こうなることは明白だったはずです。
どうして薪さんは娘との面会前にあえて千堂に話したのでしょう。
──時間が迫っていて、あの時しか時間は取れなかった?
いいえ、薪さんは話の途中で面会の時間が来たからと切り上げようとしました。
つまり後日でも構わなかったのです。
──妻に騙されている千堂が忍びなくて?
「英雄扱い」という言葉を使ったことからも分かるように、
薪さんは明らかに千堂に対して好意を持っていません。
わざわざ職分を超えてまで彼のために何かをしてあげるような動機はありませんでした。
──では、千堂に捜査妨害をされたことへの意趣返し?
薪さんの公正さを考えたら、それもふさわしくありません。
また千堂個人に対してならまだしも、娘を巻き添えにするようなことを絶対にするはずがない。
ならばやはり私怨を交えず、公僕として義務を果たしただけなのだろうと、
最初はそう思ったんです。
ところがいざ大臣が面会を拒否すると、薪さんはひどく驚いていました。
要は大臣の反応を想定できていなかったばかりに、
あの最悪のタイミングで打ち明けてしまったと、ただそれだけだったんですね。
ここが私にとっては疑問でした。
私自身読んでいて大臣の手の平返しはごく自然なものに思えたのに、
薪さんにはそれが分からなかったのです。
薪さんは人間心理をよく知っている人です。
犯罪に繋がるような、人の後ろ暗い部分に関する心理については、特に。
(5巻ではそれで雪子さんに「想像力がない」とまで説教していました)
その薪さんにしては随分見通しが甘すぎるような気がしました。
薪さんが大臣を信じていたということなんでしょうが、
それまで散々彼の身勝手さや傲慢さを見ていて、そこまで大臣を信用できるものでしょうか?
しかし、シーズンゼロでようやく明かされた薪さん自身の出生を考慮すると、
この不可解な行動論理にも納得がいくと思い直しました。
つまり、薪さん自身になさぬ仲の父親に愛された記憶があったから、
大臣もまた同じように娘を受け入れられると考えたのではないかと。
事実、薪さんは大臣に「あなた達には十四年間の絆がある」と説得を試みていました。
血の繋がらない自分を我が子として愛し、育んでくれた薪俊。
薪さんの本質がこれほど真っ直ぐなのも、子供時代に彼に育てられた記憶があったからこそと思います。
薪さんの根底には薪俊の姿があり、薪俊の父性があった。
海のように大きく、温かな愛情を持った父性が。
薪さんにとって父性というものがそれだけ神聖なものだったから、
大臣のように卑小な男でも、娘への愛を貫けると信じたのではないでしょうか。
もちろん7巻時点でシーズンゼロの構想が綿密にできていたとまでは思いませんが、
清水先生の中にぼんやりと「血縁関係の薄い薪さん=血の繋がらない他人に育てられた」
という設定があったとしたら、
薪さんがあんなに無条件に家族の繋がりを信じられたのも頷けるような気がします。
その後の8巻の居酒屋シーンで誰かと連絡を取るような描写がありましたし。
あれって家族にしてはよそよそしいけど、薪さんにしては親しみやすさがありましたよね。
だから当時は、お世話になった恩人かなあと思っていました。
(昔の恩師や遠い親戚などを想像してました)
なんにせよ、薪さんが時折見せるお人よしさ、人を信じすぎる無垢さが
残酷な形で発露したのが7巻のあのシーンであったろうと思うのです。