真夏の昼の夢
彼らは外部と連絡をとるため、あらゆる手段を試みた。全員で携帯を持って部屋中をうろつき回り、あちこちに手を伸ばしたが、わずかでも電波を拾える者はいなかった。電気が復旧しないので、当然電話やパソコンなどの通信機器は役に立たない。非常ベルも動かなかったし、室長室に設置された通報ボタンを押しても、階下から警備員がやってくることはなかった。
そうなると後は原始的な方法しか残されていない。
叫んで助けを求めるのは不可能だった。このMRI捜査本部は、部屋全体に防音効果が施されている。多少の大声を上げたところで、外に漏れることは絶対にない。
しかし、音は無理でも振動ならどうだ。物理的な力で多少でも天井を揺らせば、階上にいる人間にそれが伝わるかもしれない。かすかな希望にすがって、職員たちは天井をどんどん叩き続けたが、二十分後には音も止み、それぞれ血の気の下がった腕をやるせなく揉んでいた。
ついには椅子を窓に投げつける者まで現れたが、何度繰り返しても、防弾性強化ガラスにひび一つ入ることはなかった。ここで働く者達を守るために取り付けられたそれが、結果的に彼らの身を脅かすという皮肉な事態になったわけである。
クーラーの切れた室内で、各人が汗だくになって動き続けた。その努力が全て徒労に終わり、肉体的にも精神的にも疲労困憊になった頃、岡部が薪に話しかけた。
「薪さん、もう後はあれしかありません」
そしてちらりと天井を見る。
即座に薪は、彼の視線の意味を正しく理解した。だがそれは簡単に頷けるものではなかった。
目を瞑って腕組みをする。深呼吸を一つした後、彼は重たげに口を開いた。
「……いいだろう。人命には変えられまい」
薪の許可を得て、岡部がすぐさま行動に移る。靴を脱いで椅子の上に上がり、更に机にも乗った。他の人間はぽかんとその様子を見ている。
机の上で、岡部は尻のポケットから何かを取り出した。それは彼が煙草を吸うときに使っているライターだった。ここに来て、ようやく他の職員達も岡部の意図を察する。
「岡部さん、それはさすがにまずいんじゃ……」
曽我が青ざめて言う。答える岡部も苦しげな表情をしている。
「ああ、分かってる。だが、これしかないんだ。閉じ込められてもう二時間近く経つっていうのに、一向に救助が来ない。これは本来ならありえないことなんだ。だから、考えられるとしたら……」
言いにくそうにする岡部の言葉を引き継いで、薪が言う。
「異変が起こっているのがこの部屋だけで、他は皆、通常通りに業務しているということだ」
「そんな……」
「誰でもいい。そこから窓の下を見て見ろ。庭に人が集まっているか? 消防隊が壁に梯子をかけているか? 何もないだろう。つまり、そういうことだ。あの落雷は、科警研自体には何も影響していなかったんだ」
薪の言葉に全員が息を呑み、そして岡部を振り返った。ライターを持った岡部が見据える先にあるもの、それはスプリンクラーである。
スプリンクラーは、非常時に備えてバッテリーが内蔵されている。だから停電時も変わらず動作することができる。さすがに水がまき散らされれば、他の部署にもここの異変が伝わるだろう。水は低きに流れて、いつかは階下に達するのだから。
だが、この部屋でスプリンクラーが発動するというのは、すなわち──
職員たちは再度薪を見る。彼はうだるような暑さの中でも一人だけ着崩さず、冷静な様子で天井を見つめていた。
スプリンクラーがもたらす被害に考えの及ばない彼ではない。周囲に迷惑をかけることは勿論、この部屋のMRI機器もおじゃんになるのだ。そして何より恐ろしいのは、その中に保存されているデータが消えてしまうことである。被害者が死ぬ前に残した無念、彼の最後の思いを受け止めるのが自分たちの仕事なのに、それを自ら失うわけには──
「もう少し待ってみたらどうですか? だってまだ二時間でしょう?」
「そうですよ。焦らなくたって、そのうち誰かが気付いてくれますって」
曽我や宇野が明るく言って、何とか楽観的な空気を作ろうとする。しかし薪は固い表情を変えない。
「これからどんどん日が落ちて、外からこの部屋の様子は見えにくくなるだろう。夜になればいっそう発見は困難になる。この中に家族と同居している者はいない。つまり、今日一日連絡が取れなくなったからと言って、騒ぎにはならないということだ。まして、僕らは過去の事件の捜査中だ。職場に泊まり込んだからって、誰が疑問に思う。他の部署と共同捜査しているわけでもない。二、三日連絡が取れなくても、秘密主義の第九がと思われておしまいだ」
「それは……」
皆の顔が蒼ざめる。
「明日は土曜だ。今日を逃せば、助かる機会が三日伸びる。今は夏場だ。水もない、食料もない。クーラーは効かなくて、窓一つ開けられない。そんな状況で三日も閉じ込められるわけにはいかないんだ。つまり……行動するなら今しかない」
「でも、そうしたら事件は……!」
叫ぶ小池の肩を今井が抑え、悲しげに首を振る。
薪も声を絞りきるようにして言う。
「……ここの操作機器が使えなくなっても、まだ下の階に予備がある。そしてデータには必ずバックアップがかかる。万が一消えてしまっても、技術部の力を借りれば復元することができるはずだ。……多少、時間はかかるかもしれないが」
その時間が重要なのだ。データが回復するまでに、次の犠牲者が生まれたら? 犯人が国外に逃亡してしまったら? 重要な証拠が消されてしまったら? 警察の対応が遅れることで、取り返しのつかないことになる可能性は十分にあるのだ。
だが、誰もそれを口に出さなかった。なぜなら室長の薪こそが、そのことを一番理解していたからだ。
薪は体の横につけた両手をぎゅっと握りしめる。
「お前たちの命には代えられない……」
先ほど岡部に許可を与えた時と殆ど同じ内容だったが、今度は誰の胸にもその言葉が響いた。
薪の思いがありありと伝わってくる。あの鬼の室長が自分たちのことを、何よりも大切に思ってくれているのだと──
それからの行動は早かった。彼らは室内にあるビニールシートをありったけ集めて機器に被せ、それぞれ重要な書類や記録メディアを持って、壁際に避難した。岡部の分は青木が受け持った。
全員の準備が整ったのを確認すると、岡部は薪に向かって頷き、ライターを点火した。そして天井に向かって右手を伸ばすと、器具の下に炎を近づけ、円を描くように回し始めた。
誰かが唾を飲み込んだ音さえ聞こえるくらい、部屋の中はぴんと張りつめていた。小さな炎のゆらめきを全員の目が追いかける。岡部は辛抱強く手を動かし続けた。
そして数分が過ぎた頃、彼はライターの蓋を閉め、机を下りた。そして薪に告げる。
「どうやらこれも駄目のようです、薪さん」
皆が一斉に大きなため息を漏らした。一時はMRI機器と引き換えにしてでもと思い詰めただけに、落胆は大きかった。
青木もがっくりと肩を落とし、思わず近くのデスクに手をついた。そこはビニールシートが間に合わなくてむき出しのままだった。すると──
ぶぉん──
彼の耳に何かの音が届いた。どこかで聞いたことのある音。機械音のように無機質な──機械?
顔を上げた青木の目に映ったのは、薄暗い部屋の中で光るMRI端末の電源ランプ──絶望の中に輝く、希望の光だった。