Ordinary World

 職場に着くと、青木が「仮眠室に行ってきます」と言った。
「始業時間まで寝てくるのか?」
「いえ、服を着替えてこようかと思って」
 第九では何日も泊まりこんでの捜査も珍しくない。なので、捜査員たちは各々最低限の着替えを常備している。青木もロッカーから替えのワイシャツを取り出した。
「ついでにシャワーも浴びてきたらどうだ。今の時間帯ならすいてるだろう」
「あ、いや、友達の家で借りたんで、大丈夫です」
 青木が仮眠室に行き、捜査室の中は今井一人になった。珍しく室長の薪もまだ来ていない。誰もいない早朝の空気は爽快だった。これなら集中できそうだ。今井は張り切って仕事に取りかかった。
 それからしばらく作業に没頭していたが、ふとコーヒーが飲みたくなった。顔を上げると、まだ青木は戻っていなかった。今自分が席を立つと、この部屋が無人になってしまう。誰か来ないだろうかと入り口に目を向けた時、まるでタイミングを見計らったかのように扉が開いた。
 一瞬青木が戻ってきたのかと思ったが、そうではなかった。そこにいたのは女性だった。白衣を着ているから所員だろう。少し不愛想だが、きりっとした美人だった。
 彼女は今井に目をとめた後、視線を外して部屋の中を見回した。誰かを探しているようだった。
 今井は席から立ち上がって彼女に話しかける。
「何かご用ですか?」
「ええ、その……他の人は、まだ?」
「そうですね、今のところ出勤しているのは私だけです。失礼ですが、所属を伺っても?」
「第一の三好です」
 彼女は胸元のIDを示しながら答える。今井はなるほどと思った。彼女の鋭い眼差しや女性にしてはぶっきらぼうな態度、そして白衣からかすかに感じる薬品の匂いは、いかにも監察医という職務にふさわしかった。
「では今日ここに来たのはあなたが最初で、他にはまだ誰も来ていないのですね?」
 彼女は念を押すように、同じことを尋ねてくる。
「はあ、そうですが……」
「分かりました。それなら結構です。失礼しました」
 彼女は軽く会釈して、そのまま帰ろうとする。今井は慌てて彼女を引き留めた。
「あの、ご用件はなんでしょうか? よければ私が伝言を承りますが」
「いえ、結構です。たいしたことではありませんので。お仕事のお邪魔をしてすみませんでした」
 彼女は今井の申し出を素っ気なく断り、部屋を出て行ってしまった。
 一体なんだったのだろう、今のは。今井が首を傾げていると、再びドアが開いて、今度は小池がやってきた。
「あ、今井さん、おはようございます。早いですね」
「ああ、おはよう。そっちも早いじゃないか。何かあったのか?」
「いやあそれが、週明け一番に出せって言われてた報告書の直しを忘れちゃって。昨夜寝る前に思い出したんですよね。飯も食わないで慌てて来ましたよ」
 小池は手に持ったコンビニの袋を見せつけるように持ち上げる。どうやらそれが彼の今朝の朝食らしい。
「ってことは、さっきの第一が用があったのは小池じゃないのか……」
「え、なんです?」
「いやな、今エレベーターの所で女とすれ違わなかったか?」
「あー、はい。俺が乗ってきた奴に乗り込んで行きましたね。それが何か?」
「うちに用があって来たそうなんだ。第一の三好っていうらしいんだが、心当たりはないか?」
「さあ? 聞いたことないですねえ」
 小池はきょとんとしている。先ほどの女性とすれ違いのように出社してきたので、てっきり彼が彼女と何か約束でもしていたのかと思ったのだが、どうも違うらしい。
「第一がうちに用ってことは事件絡みですよね。何の事件だったんですか? それで担当者が誰か分かると思うんですけど」
「いや、それがたいしたことじゃないからって、何も言わずに帰っちまったんだ。それでちょっと引っかかってな」
「ふうん」
 第九が第一と関わるのは、事件が発生した直後、司法解剖の報告を受ける時である。だが、それは向こうの検視室で行われることが多いし、そもそもこの週末で何か事件が起こったという話は聞いていない。
 こんな早朝にわざわざ向こうから足を運んでおいて、手ぶらであっさり帰ったというのが、いまいち釈然としなかった。
「その人のお目当て、薪さんだったんじゃないですか? ほら、いつも朝一に来るのあの人じゃないですか。第一に内々に何か依頼をしてるのかもしれませんよ」
「ああ、なるほどな」
 薪の秘密主義を考えたらありえそうな話だった。また特捜の案件のように、同じ第九の捜査員同士でも情報を共有し合わないケースもある。それなら伝言を頼まず、本人に直接伝えようとするのも頷ける。
「ちなみにですけど、その女、美人でしたか?」
「まあ、割と」
「へえ」
 何を考えたのか、小池がにやにやと意味深に笑う。
「もしかしたらその女が来たのって、仕事関係の目的じゃなかったりして」
「は? 仕事関係じゃなくって……まさか」
 今井ははっと鼻で笑う。
「あの薪さんが職場で女と逢引なんてするわけがないだろう」
「別に相手は薪さんとは限らないじゃないですか。うちの誰かとこっそり付き合ってるのかもしれませんよ」
 今井は彼女の面影を思い出す。扉を開けた時のむすっとした表情。とても浮かれて恋人に会いに来たようには見えなかった。
「そんなタイプには見えなかったがな」
「いやいや、女は外面では分かりませんって」
 小池はすっかり面白がっている。今井は段々面倒になってきた。
「もういいって。それより報告書の方はいいのか。提出朝一なんだろう?」
「おっとそうだった」
 小池ははっとしたようにデスクにつき、MRI機器を起動させる。その時、ようやく青木が仮眠室から戻ってきた。
「あ、おはようございます、小池さん」
「おう、おはよう。ちょうどいいところに。コーヒー入れてきてくれないか?」
「いいですよ。今井さんも飲みますか?」
「ああ、頼む。戻ってきたばかりで悪いな」
「いえ、気にしないでください」
 青木は気前よく返事をして、再び部屋を出て行った。新人が居つかない第九研究室ではいまだに彼が一番の下っ端で、こういう雑用をたびたび言いつけられている。
 しかし青木自身はそのことに不満を覚えている様子はない。職場の年功序列制に従っているからというより、元々の気質が大らかなのだろう。口の悪い小池などに言わせれば、下僕体質らしいが。
 コーヒーを待っている間に、今井は思い出した。先ほど三好女史は「他には誰もいないのか」と聞いていたが、青木がいることをすっかり失念していた。
 まあいい、後で本人に確認すればいいだけの話だ。小池のくだらない冗談のように、彼女が個人的に青木に会いに来たということはないだろうし。
 そして三人分のコーヒーを持って戻ってきた青木に、「第一に何か事件に関する報告を受けるような予定はあるか」と聞くと、案の定彼は否定したのだった。

コメント

なみたろうさん

あれ?あれれ?
前回の青木のお泊まり相手はもしかして雪子?
でも鈴木さん…

てか最初は薪さんかと思ったんです。
すっかり青薪デキてる頭でいました(笑)でもそうなのけ?
沈丁花さんたらわざとどうにも取れるように書いてますか?
やだテクニシャン!!(°▽°)
大人しく続きをお待ちしております。

テクニシャンだなんて、そんな……(ぽっ)。
それで言うなら薪さんですよー。絶対お上手なはずですよー。
あ、でも真面目な話、どっちの方がテクあるんでしょうね?
青木にあまり上手そうなイメージがないんですが(失礼)、
よく考えたら薪さんは薪さんで4巻でマグロでしたよね。
好きな人の時だけ本気出すパターンなのかもしれませんが、
普段の不愛想無気力(事件のこと以外)を思い出したら、
ベッドで生き生きしてる薪さんっていうのも違和感あるのかもしれない……?
いやあ、青木の方が上手いとき、薪さんの方が上手いとき、両方下手な時と、
いろんなパターンが楽しめますね! これはぜひ書かねば!(鼻息)
ちなみに私のおすすめは、
「薪さん最初はマグロで、青木もお姫様扱いするんだけど、段々学習していって、
そのうち青木のことを翻弄できるまでに上達する」です!
それで、えーと……何の話でしたっけ?
あ、そうか。青木の相手の話でしたね。続きをお楽しみに〜。

 

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