風邪っ引きラプソディ
薪は室長になってから一度、体調不良で仕事に遅れたことがある。
朝起きてからどうにも立ちくらみがやまなかったので、出社前に早朝からやっている病院に立ち寄った。すると貧血と軽い栄養失調だろうと診断され、点滴を受けることになった。なるべく最短でと頼んだが、それでも小一時間はかかるとのことだった。そこで副室長代理の岡部に連絡を入れて、薪にしては珍しく重役出勤をすることになった。
職場に到着して入口の扉が開くのと、部下の声が耳に飛び込んできたのはほぼ同時だった。
「こういうのを鬼の霍乱って言うんだよなー」
その台詞が自分を指して言ったものであることは、明白だった。発言元が第九の失言マスターたる糸目の彼だったことも、薪には「またか」くらいにしか思われなかった。
よく勘違いされるのだが、薪が感情的になりやすいのは専ら仕事方面のことだけで、自分自身に関しては彼はそれほど短気ではない。だからこんな風に陰口を叩かれても、毛ほども気にしていない。そんなことをいちいち思い悩むより、その分仕事に頭を使った方がよほど有意義だと考えている。
その時も彼は、凍りついた部屋の空気を読みながら、発言に対しては特に何も思わなかった。小池の誤用について「それは違う」と考えていたぐらいで。
──鬼の霍乱というのは、平生病気をしない人間が体調を崩すことを指して言っているのであって、「鬼の」と枕詞を付けて呼ばれる人間のことを言うのではない。まして僕のように人事不省に陥るのが日常茶飯事なタイプには、全くふさわしくない表現だ。
しかし彼はお世辞にも親切とは言えない性分だったので、職員たちの誤解を解くことはせず、むっつりとした表情──ただの無表情なのだが──を保ったまま、室長室に直行した。
そう、彼は短気ではないが、多分に根性が捻くれている。三回転半ぐらいねじ曲がって、メビウスの輪のような状態になっているのだろう。薪はその日いっぱい、小池がびくびくする様子を見て楽しんだ。
それから程なくして、薪は慣用句を本来の意味で使う機会を得た。
第九研究室で一番若さと体力に溢れた男が、風邪を引いて仕事を休むという報告を受けたのだ。
「鬼の霍乱、か……」
そう呟いた途端、視界の端で部下の一人がびくりと肩を揺らしたのが見えたが、薪は気付かない振りをした。そして頭の中で彼にこう話しかけた。
──分かったか、小池。こう言うのを本当の、鬼の霍乱と言うんだ。