風邪っ引きラプソディ

 皿洗いを済ませた後、寝室を覗きに行くと、青木はベッドの上に座っていた。手に持ったガラス製の器を見せる。
「林檎剥いたけど、食うか」
「はい」
 薪を見る青木の顔つきと言ったら、まるで尻尾を振らんばかりだ。戸口からベッドの枕元まで移動する短い間も、じっとこちらの一挙手一投足を見つめている。薪は犬を飼ったことはないが、もしいたらきっとこんな感じなんだろうなと、半ばうんざりしながら思った。
「ほら」
 透明な器の上には、フォークと櫛切りに切った林檎が乗っている。青木はそれを受け取ろうとして、なぜか途中でぴたりと手を止めた。
「どうした、要らないのか?」
「いえ、その……」
 青木は口ごもりながら、こちらを見つめてくる。
 なんだ、その物言いたげな目は。言いたいことがあるならはっきり言えと、薪も目で言い返す。
「ま……」
「ま?」
「……やっぱり、なんでもないです」
「そうか。食べたくないみたいだから冷蔵庫に戻してくる。余計なことして悪かったな」
「いえ、違うんです! 頂きます!」
 痺れを切らした薪が手を引っ込めようとすると、ようやく青木が器を奪うようにして受け取った。最初からそうすればいいのに、一体何をぐずぐずしていたんだろう、この男は。
「林檎は嫌いか?」
「そうじゃないんです。ただちょっと、馬鹿なことを考えてしまって……」
「馬鹿なこと?」
「すいません、言いたくないです。自分でも恥ずかしいんで……」
 フォークを持った青木の手が、食べるでもなくつまらなさそうに林檎をつついている。それを見て、はたと薪は気付いてしまった。青木が何を思って、いや、何を自分に期待していたかということに。
 薪は半目になって、じとりと青木を睨みつける。
「お前……熱があるだけで、別に手は動かせるんだよな?」
「……はい。その通りです」
 薪に思惑を見抜かれたことを知り、青木が赤面する。薪はため息をついた。
 ──全く持って馬鹿な男だ。二十四にもなって子供のようなことを……。こういう図体がでかいだけの子供を甘やかすのは良くない。将来ろくな大人にならなくなる。そう、本人のためにも、決して甘やかしてはならないのだ。
 だが、しかし──
「……しょうがないか、もう大人になっちゃってるんだから」
「え?」
 薪は器を取り上げ、フォークを林檎に突き刺した。そしてそれを彼の方に向ける。

「ほら、口開けろ」

 青木は信じられないものを見るような目つきで、鼻先に差し出された林檎を眺めていたが、やがてにっこりと笑って大きな口を開けた。
「あーん」
「声は出さなくていい」
「はい」
 幸せそうに林檎を頬張る図体のでかい子供。薪が「美味いか?」と聞くと、「今まで生きてきた中で一番美味しいです」と御大層な台詞が返ってきた。
 そして彼の二十四年間の人生の中で最も美味な林檎は、最後のひとかけらまで美味なまま消費されたのだった。

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