風邪っ引きラプソディ

 一時間ほど横になるだけのつもりが、隣の体温に引きずられて、うっかり朝まで眠り込んでしまった。
 寝起きの怠さと戦いながら、薪は瞼をこじ開けた。
「ん……」
 途端に眩しい光が差し込んできて、ぎゅっと目を閉じる。それからゆっくり十数えて、もう一度目を開けた。
 視界に映ったのは眠っている男の顔。よく見ると、わずかに髭が伸びている。薪がぼうっと寝顔を見つめていると、視線が突き刺さりでもしたのか、青木がふるりと瞼を震わせた。
「あ……おはようございます。薪さん」
「ん」
 薪よりも寝起きのいい青木は、意識が覚醒するや否やさっと体を起こした。薪もその隣でゆっくりと起き上がる。
 額に手を当てると、いくらか熱は下がったようだ。
「どうだ、調子は」
「最高です」
 青木がやに下がった顔で言う。その視線の先をたどると、なぜか自分の太ももにたどり着いたので、薪はむっと眉根を寄せた。
「お前の言うことは当てにならない。後でちゃんと熱を計れ」
「はい」
「シャワー借りるな」
 そう言って薪はベッドから降りる。皺の寄った袖口を伸ばしていると、青木が「一緒に入りたいです」と言った。薪は彼の額を指で弾く。
「熱を計ってからだ」
 途端に、青木は必死な形相で体温計を取りに行った。その後ろ姿を見て、薪はため息をつく。元気になってくれたようで何よりである。

 結論から言うと、青木の容体はまだ微熱が残っていて、完治したとは言い難い状態だった。風呂場の前で彼はかなりしつこく粘ったが、薪は最後まで扉を開けることを許さなかった。
 シャワーを済ませると、青木が着替えを貸すと申し出たが薪は断った。彼のサイズが自分に合わないことは一目瞭然だし、職場に行けば泊まり込み用の服がちゃんと用意してある。下着だけは、以前薪がここに残していったものが洗濯された状態であったので、それを着けた。なぜ下着を残していく事態になったかは、諸所の事情によるとしか言えない。
 クローゼットからハンガーを下ろしていると、背後からパシャッと音がした。振り返ると、青木が携帯のカメラを構えていた。シャツしか羽織っていない間抜けな格好を撮影したらしい。
「おい、東大法学部卒。盗撮犯にどれぐらいの刑罰が下されるか知らないわけじゃないだろう?」
 現職の警察官に対していい度胸だなと、薪が冷ややかな目で見るが、彼はしっかりと手の中に携帯を握りしめて、画像を消すまいと頑張る。
「だって薪さん、出勤しちゃ駄目だって言うし、寂しいんです」
「当たり前だ。せっかく良くなってきたのに、無理してぶり返したらどうする。せめて午前中一杯は様子を見ろ」
「……分かってますよ。だから、せめて薪さんの写真だけでも見てたいって……どうしても消さなくちゃ駄目ですか?」
 青木は泣きそうな目でこちらを見上げてくる。さすが末っ子。これを意識的にしているのだとしたら、相当たちが悪いことになるが、無自覚の甘えん坊体質だから恐ろしい。一人っ子の上、子供の頃から自立癖のついていた薪に抵抗するすべはなかった。
「分かったよ。少しだけだぞ。ポーズは絶対取らないからな」
 ハンガーを元の位置に戻して、ベッドに座る。青木はぱっと顔を輝かせて、いそいそと携帯を操作した。
 改めてレンズを向けられると、なんとも居心地の悪いものがあった。昔から写真には慣れていないのだ。自然な表情というものが作れない。笑顔なんて到底無理だ。青木はいろんな角度から撮ってくるが、こんなふてくされた顔でも嬉しいものだろうか。
「なあ、お前も一緒に入れ。僕ばっかり撮られてると、なんか……変な感じがする」
 薪がそう言うと、青木は諸手を上げて喜んだ。薪の背後に座り、腕を回して薪を抱きしめる。そして長い手をまっすぐ伸ばして、携帯を前方に構えた。
 彼の顔がすぐ隣にくると、一人のときよりはカメラを意識せずにいられた。
「はい、撮りますねー」
 耳元で聞こえる彼の声に、薪はいつの間にか微笑みを浮かべていた。

 朝食は前日申告していた通りうどんを作った。青木の体調もすっかり戻っていたし、何より青木が空腹を主張してはばからなかった。とてもお粥だけではもたないと、腹を抱えて言うので、葱を入れただけの素うどんを作った。体が温まるようにショウガをすりおろして、片栗粉でとろみをつける。味はそこそこの出来だったが、青木は美味しい、美味しいとやたら感動して食べていた。
 ──こういうのも悪くないか。
 箸を動かしながら、ふと薪は思う。ダイニングテーブルで二人でうどんをすすっている間、少なくとも青木は幸せそうだったし、薪もそう悪くない気分だった。朝の白い光が自分の捻くれた心を解いてくれたのかもしれない。
 家を出る時も、青木が名残惜しげに手を伸ばしてくるのを、いつもならしつこいと跳ね除けるのだが、今日だけは素直に抱き寄せられてやった。
「はあ、早くキスができるようになりたいです」
「してもいいけど」
「駄目です。っていうか、そんなこと簡単に言わないでください。こっちは必死で我慢してるっていうのに、薪さんったら人の気も知らないで……!」
 と怒られてしまい、薪は年下の男に謝る羽目になってしまった。
 マンションを出て、駅に向かう。余裕を持って動いていたはずなのに、時計を見るといつの間にか定刻通りになってしまった。一瞬小走りになろうかと考え、ふっと自嘲する。何をらしくないことを。走りたくなったのは遅刻しそうだからではない。自分の足取りが浮足立っているせいだ。
 あまり認めたくはなかったが、浮かれている自分に気づき、薪はこつんと頭を叩いた。朝っぱらから公道でにやける不審者にだけは成り下がりたくない。
 青木の見舞いに行ったつもりが、振り返ってみれば、自分の方がエネルギーをもらいに行ったようなものだ。体中に活力が漲っているし、頭もスッキリとしている。まだ朝のコーヒーも飲んでいないというのに。
 昨日、青木がいなくても第九は平常運行だと思っていたが、もしかしたら局地的にそうでない所があったのかもしれない。薪はくすりと笑みをこぼし、慌てて口元を手で覆った。
 その日の空は吸い込まれるような青さだった。駅のホームの端っこに立ちながら、広い空に浮かんだ一片の雲を見上げて、薪は祈る。

 どうか、彼が午後からいつも通りの元気な姿で現れますように、と。


END

相手のペースに巻き込まれて予定の変わる毎日が、今はただ嬉しい。
「ラプソディ」 意味:気の向くまま、自由気ままに演奏すること。

コメント

あやさん

青木って小学生の時から学級閉鎖になっても自分だけ風邪引かない優良健康児だったんですよね。
そういう人が大人になって風邪引くと重症化しそうですね(笑)
でも、薪さんが看病してくれるんだったら最高だと思います。
人肌で温めるとかね(#^.^#)
青木も風邪の時くらいしか甘えられないでしょうから。
2人で写メ撮ったりデレデレですね^m^
こういう時に愛情が高まってしまうんだな。
原作では手を握るのが精一杯ですが^^

> 青木って小学生の時から学級閉鎖になっても自分だけ風邪引かない優良健康児だったんですよね。

えっ、そうでしたっけ! しまったー、忘れてたみたい。何巻情報だったっけ。
いつものことながらあやさんの秘密知識の深さに御見それします!

> でも、薪さんが看病してくれるんだったら最高だと思います。
> 人肌で温めるとかね(#^.^#)

この世で最高の特権ですよね♪
萌え語りの「ちゅっちゅ」という項目でも語ったのですが、
えっち関係ないというところが個人的に最大のポイントなんです。
薪さんにとって人と触れ合うことは自罰的行為だったり、性欲を発散するための手段でしかなかったのが
青木との付き合いで、何も目的としない純粋な恋人同士の触れ合いというものを
知ってくれたらなあと思うんです。
……って、三十代成人男子に私は何を求めてるんだか(笑)。

> 原作では手を握るのが精一杯ですが^^

だからこうして二次創作したくなるんですよねー!><
清水先生の匙加減が絶妙すぎて、ほんと振り回されっぱなしですよ。

 

kahoriさん

デレ薪さん照れ薪さんキュートですv
小池をいびるS薪さんとは打って変わって青木君だけの前ではこんなに献身的で可愛いのですね(^ ^
薪さん介護スキル完備なので青木君贅沢ものです!
甘えたり甘えられたりできる関係って、相手に心を許しているからこそできるものと思います。
そして甘えられることに喜びを見出すことができるって恋人同士には大切な要素ですね。

> 薪さん介護スキル完備なので青木君贅沢ものです!

それは薪さんに惚れられた特権ということで♪
多分この程度のことは、薪さんの経験値からしたら、なんでもないことなんでしょうね。
でもこんなに甘い気持ちでお世話をしたことはなかったんじゃないでしょうか。
あーだめだ、私青木のこともちゃんと好きなはずなのに
薪さんを幸せにするためだけに青木に風邪引かせてる。
まあいっか、結果的に奴が一番得してるから(笑)。

> そして甘えられることに喜びを見出すことができるって恋人同士には大切な要素ですね。

この「薪さんに甘える」って割とすごいことで、
恋人云々が関係しなくても、第九メンバーの他の誰にもできないことだと思うんですよ。
青木レベルの図太さがあるから成立するというか、だからこそ恋人になれたというか。
ほんと考えれば考えるほど、薪さんの相手は青木しかいないなって思います。

 

 (無記名可)
 
 レス時引用不可