ホットミルクと甘い夢

 リビングに行くと、薪は座卓でパソコンを開いていた。画面にはびっしりと横文字が埋まっている。ネイティブレベルで数か国語を使い分ける薪のことだから、さして労苦も無く読んでいるのだろう。
「仕事ですか?」
「いや、ただの論文だ。MDIPで同僚だった男が面白い研究成果を発表してな……」
 仕事に関係した話題だと、薪は殊更生き生きとなる。それ以外の時と目の色が違うのだ。これほどワーカーホリックという言葉が似合う人間もいないだろう。
 青木は彼の説明に相槌を打ちながら、向かいの席に座り、そしてカップを差し出した。すると、薪が珍妙な表情を浮かべた。
「何だこれ。牛乳か?」
「はい、ホットミルク作りました。温まりますよ。どうですか」
 春になったとはいえ、まだ夜は肌寒い。青木家では定番のメニューで、舞によく作ってやっている。
「酒が飲みたいのかと思った……」
「それなら後で晩酌付き合ってください。はい、熱いから気を付けて」
「ああ……」
 薪は戸惑ったようにカップを受け取っていたが、一口飲むと「懐かしいな」と言って目を細めた。
「口に合いますか?」
「まあ……思ったよりは甘くないか」
「砂糖の代わりに蜂蜜入れたんです。胃に優しいし、よく眠れますよ」
「ふうん」
 薪はマグカップ片手に、パソコンの画面に戻った。青木も荷物を整理して明日の準備をする。
 やがて薪の用事が終わるのを見届けると、青木は彼に話しかけた。
「そっちは終わりましたか?」
「ああ」
「じゃあ今度は俺の相手をして頂けます?」
「……分かった」
 薪が返事をするや否や、青木は彼の背後に回り込んだ。薪が背もたれ代わりにしていたソファとの隙間に入り込み、彼を後ろから抱きしめるような形で座り直す。両手を体の前に回すと、額をはたかれた。
「おい。何をやってるんだ、お前は」
「何って……別に何もしていませんが」
「嘘を付け。なんだこの体勢は。セクハラで訴えるぞ」
 薪が自分の胸の上に置かれた青木の手を摘み上げる。
「こうしたら、薪さん温かいかと思って」
「お前に温めてもらう必要はない。第一、さっき風呂に入ったばかりなんだぞ」
「でも俺の手の方が温かいじゃないですか、ほら。薪さん、ひょっとして湯冷めしてません?」
「してない。お前が子供みたいな体温しているだけだ」
「いやいや、俺は標準ですって。薪さんの平熱が低すぎるだけです」
「いいから離せ、暑苦しい」
「温かいならいいじゃないですか」
「違う。温かいんじゃなくて、暑苦しいと言ってるんだ」
 薪がどんなに言っても、青木は手を離そうとしない。青木にしては頑固だ。こうなったら座椅子代わりに使ってやろうと、薪は足を投げ出し、遠慮なく背中に体重をかけた。
「もう、薪さん……」
 青木は苦笑し、それでも嬉しそうに薪の体を抱きしめる。
 そして、彼の声がわずかにトーンを下げた。
「ねえ、薪さん」
「なんだ」
「最近体調が良くないんでしょう? 岡部さんから聞いたんです。薪さんがたまに昼ご飯抜いてるって」
「余計なことを、あいつ……」
 薪が舌打ちする。
「怒らないで下さい。心配してるんですよ。俺も、岡部さんも」
 そう言いながら、青木は部屋の隅に置いてある自分の荷物を見た。そこには大きなボストンバッグと、脇に細長い紙袋が一つある。中には薪の好みそうな辛口の地酒が入っている。一緒に飲むつもりで、手土産として持ってきたのだ。
 だが先ほどの食事の時、青木は薪が胃を抑えていることに気づいた。恐らく本人も意識していないような一瞬の仕草だったが、青木は酒を出すことを諦め、代わりにホットミルクを作ることにした。
 元々胃が強くないのは知っていたが、それでも食事はしっかりとる人だった。体力のいる仕事な上、頭をうまく働かせるためにも、適正なカロリー摂取は必要不可欠なのだ。
 それがここ最近の岡部の話によると、食事の量が減っていると言う。所長に昇格して責任が増えた分、ストレスも増えたのだろう。岡部からのメールを見るたびに、青木は歯がゆい思いをしていた。
「体調管理には、くれぐれも気を付けてくださいね。俺が傍で、薪さんのこと見ていられたらいいんですが……」
「お前がいたってどうしようもないだろう。それにそっちだって忙しいんだろうが」
「じゃあ俺、仕事やめます。そんで薪さんの奥さんになります」
「は?」
「専業主夫になるので、養ってくださいね」
 青木が横から覗き込むと、薪は思いきり顔をしかめた。
「嫌だ。こんなデカい妻なんか願い下げだ。もっと可愛いのがいい」
「えー、俺可愛くないですか?」
「……お前、厚かましいな」
 青木は「そうですか?」と空とぼける。薪は舌打ちした。
「僕に可愛いと思われたいのなら、縮め。僕より小さくなれ」
「それは無茶ですよ。大体薪さんより小さくなったら、警察官になれないじゃないですか」
 すかさず容赦のない裏拳が飛ぶ。
「おい、ふざけたことを言うな。僕の身長は規定ラインじゃないぞ。百六十あればいいんだ」
「でもそうしたら、こんな風に薪さんのこと抱っこしてあげられなくなりますよ? それでもいいんですか?」
「しなくていい。誰がしてくれと頼んだ」
 可愛くない憎まれ口が次から次と出てくる。よくも飽きない物だと青木は思わず笑ってしまい、いっそう彼を抱きしめる力を強くした。

 こんな時間をもっと持ちたい。ずっと、他愛もない会話をしていたい。明日になれば何を話していたかも忘れてしまうような、そんなとりとめのない話を、この人と。
 一緒に食卓を囲んで、食後にはホットミルクを作って、そして少し嫌そうな顔をされて。なんでもない日々のことを二人で積み重ねていけたら。
 そのためなら、九百キロの距離もきっと大した問題ではないのだ。

 その後もじゃれ合いのような口論を続けていたが、共に口数が少なくなっていき、やがて会話は途切れた。それでも嫌な沈黙ではなく、青木は満たされた気持ちで薪の体温を感じていた。
 しばらくして薪がぽつりと言った。
「……あったかいな」
「え?」
「お前の手、あったかい」
 青木の手の上に、薪が手を重ねる。青木は彼の肩口に顔を乗せ、瞼を閉じた。薪の首筋から風呂上がりの匂いがした。
「俺も薪さんのおかげで温かいです。お腹がほかほかになりました」
「ん……」
「薪さん、もしかして眠かったりします? 手のひらが温かくなってる」
「いや、そういうわけじゃ……ふぁ」
 言った傍から、薪は欠伸をかみ殺している。
 青木は眠る前の舞にするように、優しく彼に話しかけた。
「もう寝ますか?」
「いや、もう少し……このままでいたい」
「はい、分かりました」
 それから青木はずっと薪を抱きしめていたが、徐々に薪の頭が下がり、やがて彼の口から寝息が聞こえてきた。薪が熟睡しているのを確かめると、青木は静かに彼を抱き上げて、寝室に運び込んだ。
 シーツの上にそっと下ろし、掛布団をかける。青木は照明を落として室内を暗くすると、ベッドの端に腰掛けた。暗がりの中で、薪の白い顔がかすかに浮かび上がる。
 本当のところを言うと、青木としては、もっと他にしたいことがないわけではなかったが、今回は諦めるしかないだろう。この安らかな眠りを邪魔するわけにはいかない。
 ──この次頑張ろ。
 彼は心の中で自分に言い聞かせた。

 その後、青木は家中の戸締りと火の元を確認して回った。リビングの電気を消し、寝室に戻ると、ベッドの反対側に回り込んだ。布団の端をめくってシーツの間に滑り込む。
 そして隣で眠る彼にそっと囁いた。

「おやすみなさい、薪さん。どうかいい夢を」


END

俺があなたにあげられるのはこれだけだから。

コメント

kahoriさん

遠距離恋愛編はもはや私の中で「これが新章の内容でいいよね!決定!!」という勢いで青薪的真実になっています。
遠距離にまつわる青木君の努力っぷりが健気です。愛は障害があるほど燃(萌)えます!

電話やメールで緊張している青木君にそっけない態度をしてる薪さんですが、
きっと8巻の口絵イラストみたいに優しげな表情を浮かべているんだろうな〜と想像してほっこりしました(^^)
第八管区は室長の青木君の噂で盛り上がるほど和気あいあいしていそうですね。
青木君は室長として立派に仕事をこなしながら皆んなに好かれているんだろうなぁ。
「NO WAY OUT」で薪さんが青木君に見惚れていたシーンもすごく好きなのですが、
沈丁花さんの書かれる青木君は優しくて強くてカッコイイです。
人間的に大きくて、懐があったかくて、安心できる存在です。
正にホットミルクのように薪さんをほっこりさせてくれる存在!
でも青木君自身が憧れの薪さんに追いつこうと必死で苦しんでる様子が見てて切ない…。
大丈夫だよ、頑張ってるよって励ましてあげたくなりました。
薪さんと青木君の会話で専業主夫になるくだりがとても微笑ましくて良かったです(^ ^)

> 遠距離恋愛編はもはや私の中で〜青薪的真実になっています。

わー、ありがとうございます! 本当に真実になってほしいですよね。
でも薪さんの欲しがらなさっぷりは筋金入りなので、全ては青木次第なんでしょうね。
頑張れ、青木……!

> きっと8巻の口絵イラストみたいに優しげな表情を浮かべているんだろうな〜と

もちろんです。なんせ自宅ですから♪
ちなみに九州を立つ前にも一度メールしてるんですが、その時はまだ職場で
近くに岡部達がいたので、薪さん顔に出さなかったんですよ。
でもその後、時計をじっと見つめている姿を岡部に見られてしまって
「何かあるんですか?」って聞かれるんです。
咄嗟に「いや、別に」って返すんですけど、なんとなく普段と様子が違うことに岡部が気づくんですね。
それで「もしかしたら……」と思って、薪さんが早く帰れるように算段するんです。
薪さんも「申し訳ないな」って思いながら、遥々会いに来てくれる青木を待たせたくないので
岡部の好意に甘えるんですね。岡部は二人のことははっきりと知らされてないんですが
ある時から青木が上京するのと前後して、薪さんの機嫌も変化することに気づいて
薄々勘付いている(けど口に出して確かめたことはない)という状態です。
以上、裏設定でした〜!(すごくどうでもいい)

> 青木君は室長として立派に仕事をこなしながら皆んなに好かれているんだろうなぁ。

そうですね。きっと第八管区の誰より一生懸命働いて、慕われてるんじゃないでしょうか。
なぜなら薪さんがそういう人だったから。
青木だけじゃなく、旧第九メンバーは皆薪さんから受けた教えを守って、
薪さんのような室長を目指しているんじゃないかなと思います。
誰より遅くまで居残って、休日出勤を厭わず、市民のために誠実に、ひたむきに働く、そんな室長に。
あ、でももしかしたら、第六管区だけは携帯の電源を切るのが徹底されてないかもしれませんね(笑)。

> 沈丁花さんの書かれる青木君は優しくて強くてカッコイイです。
> 人間的に大きくて、懐があったかくて、安心できる存在です。

うわあ、嬉しい……。どうもありがとうございます。
でもkahoriさんがそう感じてくれたのは、きっと原作の青木がそういう人だからだと思うんです。
二次創作は原作の力を借りて、居候させてもらっているようなものですから。

> 薪さんと青木君の会話で専業主夫になるくだりがとても微笑ましくて良かったです(^ ^)

190cmの嫁……(笑)。
ええと、この話の続編の「Pillow Talk」の裏テーマが「冗談を言えるようになった薪さん」なんですね。
で、なぜ薪さんがそんな風になったかというと、やっぱり青木の影響で。
こういうやり取りを繰り返して、薪さんも成長していったんですね。
多分最初のうちは、こんなこと言っても「……養子縁組をしたいということか?」って
真顔で返されてたと思います(笑)。

 

 (無記名可)
 
 レス時引用不可