姿を隠す直前の肥えた太陽が、地上を赤く染めている。
昼からの当直を先ほど交替したところだが部屋に戻る気にもなれず、イマークは塔のてっぺんからぼんやりと
地平を眺めていた。
昨日はあれから夜番でその後も良く眠れず、呆然としたままケボルンへ買出しに行ったものの、案の定分量を
間違えたり買い忘れたりで散々だった。一番年の近い(といっても10歳上だが)ニケルに小言を言われている
間も、昨夜から脳裏に浮かびっぱなしのキーリの事が離れず、しまいに頭に手刀を喰らう始末だった。
そういうことも思い出しつつ、昨日から何度目になるか数える気も起こらないため息を漏らす。
『…いくらなんでもあの言いようはまずかったなぁ…。』
『だいたいが俺の目の錯覚だったかもしれないわけだし。』
『錯覚どころか全然そうじゃなかったかも…』
『でもあの目は…』
『いくらなんでもかわいそうだったなぁ』
『いやいや、ほだされてるぞ、ダメだぞ。』
『これからどうしたもんかな。会いにくいよな。』
『あ、修理も終わったことだし、別に会わなくても良いのか。』
『あれ?今寂しいとか感じた?』
いい加減、不毛な思考にうんざりしてイマークはまた荒涼たる眺めに目をやった。
そして、違和感を覚えた。目をこらす。
丘の向こうにちらりと見える石造りの館からは、面白いように毎日同じ時刻に夕食の支度なのだろう、
細い煙が上がるのだ。そしてほぼ同時につましい灯りがともる。
哨所の近くに建つとはいえ教会の裏手には広大な湿地が広がっていて、頼りない若者の独り暮らしは
決して安全とはいえないのだ。だから毎夕、丘の向こうに小さな灯を確認して何とはなしに安心すると
いうのがイマークの日課となっていた。
今日に限ってそれが見えない。不意に胸騒ぎを覚えて、イマークは立ち上がった。
一足飛びに階段を駆け下り、外套も取らずに裏口を目指す。
「お、晩飯は教会か?」
食堂裏でぶつかりそうになった今週の炊事番のバルロウが声をかけたが、返事をするのももどかしく
手を振って後も見ずに駆け出した。
「ふぅむ、仲の良いことだねぇ。」
バルロウが食堂に集まった何人かに、イマークが変な身振りで大慌てで『どうやら修道士に会いに』
出て行ったということを報告すると、皆口々に好きなことを言い出した。
「まぁ、ワシらからしたらイマークは下手したら息子ほども年が離れてるからな。同じ年頃同士、
気が合うんだろう。」
「イマークも、こっちへ来てからしばらくのことを思うと、えらく気楽そうになったと思わんか。
慣れたというよりは、あの、メイユ修道士の存在があると思うんだが。」
「あの修道士、愛想はないが、なんというか、真面目で初々しい感じだしねぇ。薬師としては
なかなかの腕前のようだし。悪い感じではないねぇ。」
「いっそ坊主なんか辞めて、哨所詰めの薬師になってくれんかな。平均年齢も上がって、活気が
出ると思うんだが。」
あ、それ良いねぇ。
などと勝手な議論が交わされているとは露知らず、イマークはひたすら駆けて行く。
教会は静まり返っていた。礼拝堂の扉は閉ざされ、館の裏口も鍵が掛かっている。
裏口から覗き込んでみるが、人の気配はない。回り込んで隣の部屋、薬草室の丸硝子越しに
覗き込んだ時、イマークは心臓が止まったかと思った。薄暗い部屋の中、調剤台の向こう側に
横たわった足が二本、突き出されているのがかろうじて見えたのだ。灰色の衣装はほとんど闇に
溶けていたが、あの小さな革靴は間違いなくキーリのものだ。
「キーリ!キーリ!」窓を突き破ろうかと考えたが、すぐに思い直して、裏口にとってかえす。
樫の木の扉は一見頑丈そうに見えるが、これも自分が付け直したのだ。
遠慮のない蹴りの二撃目でそれはあっけなく破られた。
「キーリ!大丈夫か!」
修道士は冷たい石床の上に仰向けに倒れていた。傍に膝をつき、焦りに震える手で調剤台にあった
燭台に火を着けると、キーリの様子を検める。
荒い息をして、目は半分閉じていたが、意識はあるようだった。
「キーリ!キーリ!どうした!何があった!返事をしてくれ!」
ぼんやりとしていた瞳がイマークの顔を認めたのか、少し見開かれた。
「イマーク…さん。どう…して…。あ…ダメ…です。」
と言ったのは、イマークがキーリの呼吸を少しでも楽にしようと口元を覆う布を取り去ろうとした
からだったが、時既に遅く、一瞬でそれはひきむしられた。
「!―」
イマークはあらわになったキーリの顔を見て一瞬息を呑んだ。想像していたよりもずっと華奢で
優しい顎のラインで、唇の開き方などは成人男性の範疇を逸脱した艶かしさをたたえている。
『実は超絶美青年?いやいや、女だっつっても分からないような綺麗な顔してるなぁ。』
そういう思いはとりあえず『衆道』や『男色』と書かれた領域に押しやっておいて、イマークは掌を
キーリの額に押し当てた。ひどく汗ばんで、熱いように思う。
「すぐ薬師を呼んでくる。ちょっと待ってろ。」
そう言って立ち上がりかけたイマークの服の裾をキーリが弱弱しく掴んだ。
「薬師は―いり…ません…。だいたい―私が薬師…です。病気では…ない…から。」
「病気じゃないって…。」
「大丈…夫です。少…し…、休ん…で―いれ…ば、治りま…す…から…。」
はぁはぁと荒い息のどこが大丈夫なのだと、険しい顔つきになっていたのだろう、
キーリは怒ったような、拗ねたような表情を作り、ぷいと横を向いた。
「大丈夫です…から…放っておいて…下さい…。」
「そういうわけには行かないな。っと。暴れるんじゃない!」
とりあえず寝台に寝かせるか、と担ぎ上げようとしてキーリの激しい抵抗にあう。
「こんな所に寝てたらよくなるものもよくならないだろう!」
暴れてはいるものの、すっかり息の上がった小柄な修道士など押さえ込むのはた易いことで、
やがてイマークはぐったりとしたキーリを二つ折りにして肩に担ぎ上げることに成功した。
「君は軽いんだな。」
立ち上がった時に肩で感じた意外なまでの軽さと華奢さに覚えた動揺をはぐらかそうと、軽口とともに
手のひらで軽くキーリの腰の裏を叩く。
「っん―!」
「!」
イマークは心臓が止まったか、はみ出したかと思った。余りに甘く切ないため息は空耳か?
一瞬の早業で体の一部に血液が集まってきている。
『男色』の文字が迫ってくる。
しかし、それを何かが否定している。
そう、腰の奥の熱ではなくて、さっき腰を触った掌が…。感じた丸みが…。
イマークはもう一度、そっと腰に手を押し当てた。
今度は直ぐには離さず、ゆっくりと探るように動かしてみる。
「!っ…な…に…―っやっ!」
甘い声を聞くまでもなく、イマークには確信が持てた。
しっかりと抱えなおすと、大股に薬草室を横切って、奥の寝室に向かう。きちんと整えられたシーツの
上にそっとキーリを降ろす。
枕元の小卓に燭台を乗せ、イマークはキーリの顔を再び覗き込んだ。熱に浮かされたような瞳がじっと
彼を見返している。手のひらに残るのはまろやかな体の輪郭。
もう間違えるはずもない。
「君は…女性だったのか…。」
キーリは答えなかった。ただ、目尻から涙が一粒転がり落ちた。
「…わたしは―」
「いや、今は何も言わなくていいから。…良くなるのが先だろう。」
動揺しているはずなのに、静かな声が出た。そのことに少々驚きながらも、イマークは穏やかな
手つきでキーリの涙を拭った。
しかし…本人は病気ではないと言ったが、この様子はただ事ではない。どうしたものか。
見守るうちにも彼女は、きゅっと眉根を寄せ、こらえ切れないらしいうめき声をもらしている。
「俺が…なにか力になれることはない?」
冷えた手をキーリの熱い頬に押し当てると、閉じた薄い瞼がふるふると痙攣する。
「くすりを…つくっていたんです…。」
目は閉じたまま、はぁぁ、と熱いため息といっしょにやっと、と言った感じで口から言葉を押し出す。
「誤って…大量に吸ってしまって…。」
「!―毒、かい?」
イマークの問いかけにキーリは力なくかぶりをふる。
「助けて…ください。あなたに―触れられてしまったから…もう…耐えられない…。」