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月下桜園4 (2)

◆ELbYMSfJXM氏


「雨宿君。きみとは仲良くしたいと思ってるんだ、よろしく」
「申し訳無いが俺と友人になっても楽しくは無いよ」
「損得でしか考えられない関係は寂しいね。では……好敵手はどうかな」
「生憎と必要無い。器じゃない」
「残念だな。僕としてはこれは、――――宣戦布告なんだが」
「…………預かっておく」

 秩父高砂は転校翌日に俺を敵視する行動を取ったがそれきり何の素振りも見せはしなかった。
 一週間が経ちクラスに総じて打ち解けた秩父は勉強も優秀で運動神経も抜群、
5年間の海外生活帰りな新珠燐の幼馴染み、と女生徒達の話題の提供にも事欠かなかった。
 入学時からそうであったかの様な自然な振る舞いで常に新珠の隣に居た。
「すっかり新珠を取られちまったなー、どうするよ。雨宿」
「どうもしないが。市原こそあんな絶好の被写体を撮らないのか? 俺との時は随分と騒いだ癖に」
「面白くねーんだよなー、なんかつまんね。女の子追っかけてるほーが燃えるぜ」
「そ、そう……良かった」
「奥丁字、言いたい事があるなら聞くが?」
「あ、何でもないんだ、雨宿君。……というか、……ごめん……」
「謝られる覚えも無いよ」
「僕が、ごめん」
「必要も無いのに謝るな」
 申し訳なさそうな、何処か憐れむ様な視線を投げてくる。
「気持ちは分かるけどな、八つ当たりもそんくらいにしといてやれや」
「八つ当たり? 俺が?」
「見え見え」
 ――単に隠し通せていると思っているのは俺だけか。
あれから俺と目を合わそうとせず電話も掛からなくなり、本来の彼女が誰を選ぶかは明白だ。
「悪かったな、奥丁字。すまない」
「雨宿君が遠慮……「衣黄ー、いいかな?」あ、分かった、新珠君。
……大丈夫だから、じ、じゃあ」
 奥丁字を見送って照準を改めて俺に合わせると口元を吊り上げて詰め寄ってくる。
「奪取計画なら乗るぜオレは。そーゆーの大好き、腕が鳴るぜ〜」
「万が一計画してもお前は誘わないから存分に妄想だけしていてくれ」
「ノレよノレよ、せーしゅんなんて楽しんだモン勝ちさ〜」
「楽しんでいるよ、有り難くな」
 これが日常で、何も問題は無い。



「高砂が帰ってくるなんて、ひとっことも言ってなかったじゃないか、父様」
「叔父さんは悪くないよ、驚かせたかったんだ。そんなに怒らないで? 本当に燐は変わらないね」
「君は見違えちゃったね、かっこ良くなったよ、高砂」
「5月の終わりには戻っていたんだけれどね、家のこともあってね、遅くなった」
 ……あの時止めたのは、声変わりしていたけど、聞き間違いじゃなかった。
未だにおぼろげに跡が残ってる。
「さあ、今日は高砂と燐が二人共この家に揃った久々に良い日だ。皆で食事をしながらゆっくり話そう」
 父様は昨晩やつれて鬱蒼とした顔で戻ってこいと訴えてきたくせに。母様が病気だっていうのも嘘だった。
 どれだけ、ぼくがどれだけ胸が張り裂けそうだったか、母様と、雨宿とを選ぶことが辛かったか、わかってない。
 絶対相手になんかしてあげないんだから。
「燐、叔父さんの話をもう少し聞いてあげないと?」
「普段からこんな感じだし? ね、衣黄」
「あ、……う、うん。家と外を混同するのも嫌がるんだよ、燐、君は」
「我儘娘だが頼むよ、高砂君」
「なぁに、それ、高砂はお目付なの? 父様は人の迷惑をいつも考えないで、無理ばっかり言うんだ」
「はは、お目付ね。そうだよ、これからはずっと一緒にいるよ」
「お前も年頃だからな、私もこれで安心だ」
 満足そうに笑う父様を見て、やっと意味が分かった。

 どこまで気づいてるのか分からないけれど、気に入らないんだ、邪魔なんだ、彼が。
 ……でも、負けないから。


 それから一週間、寮の部屋もすぐさま片付けられてしまうし、携帯も取り上げられて、
教室にいる時すら雨宿と話せる機会が全くなかった。
 父様に従う必要なんてないのに、絶対わざと邪魔してる。
 真面目な性格だったけれど、ここまでしなくてもいいのに。
 そして今日、ようやく隙を見つけて屋上に来た。
 明日は終業式だけどまだ図書室か情報室にいるはずだから、衣黄に伝言を頼んだ。
 梅雨明け間近の空は、ほとんど夏の雲が浮かんでいるけれど、風が強い。
 流される髪を押さえながら、ぼくは彼を待った。



 ぎい、と重い扉が開いて現れたのは、――高砂だった。
「たか、さご……?」
「随分と意外な顔をしているけど、誰か待っていたの?」
 優しく笑う高砂を見てると自分が何でも出来ると思い上がってた心が甦る。
 ぼくの考えの先を見通して整えてくれる道は、心地よくてとても歩きやすかった。
 突然いなくなった時は悲しくて幾日も泣いたけれど、もう道に迷ったりしないと決めてからは、
ちゃんと歩いてきたつもりだ。
 そしてまた、高砂が戻ってきた。
 衣黄と同じでいつも見守ってくれる姿に、どれだけ感謝しても足りない。
 ぼくの言うことを何でも聞いてくれて頼りになる幼馴染み。
 ――だけどもっと楽しいことを見つけたんだ。
 二人で道を造っていく面白さと嬉しさと、辛くても一緒に乗り越えられる喜びがどんなに幸せなのか、
喧嘩しても仲直りができると教えてくれた世界にお礼を言う。
 少しずつでいいから彼と並んで歩いていく毎日をずっとずっと繰り返したい。続けていきたい。
 雨宿松月と、新珠燐で。

「うん、君でな――「僕も燐と二人きりで話したいことがあるんだよ、」」
 ぼくの言葉を遮って続ける。かすかな違和感に戸惑う。
「いまだに男装しているんだね、どうしてなんだい?」
「どうしてって……、君だって知ってるだろう自然と男の子の格好のほうが好きになって……」
「自然に? だけどまだ僕がいた頃はお呼ばれや皆で集まるときはドレスを着ていたね。
5年経って、さぞきみは美しい女性になっていると期待していたのに、お母様が嘆いているよ」
 言う割には全然残念そうに見えない。目は笑っているけれど低くなる声になぜか身震いする。
「期待外れで悪いけど、」無意識に後退って給水塔の金網に背中が当たる。
「はは……、この学園は本当のきみの魅力に気が付かない馬鹿どもばかりだ」
 高砂は手を伸ばして、ぼくの髪留めの紐をするりと外した。
「――っ!?」
「その瞳も鼻も唇も綺麗な髪も予想通りだよ、この白い肌も……」
 髪を絡めた指で頬に触れ耳元で囁く。様子のおかしい高砂から思わず逃げようとすると、肩を掴まれる。
「燐……」
「離して? ……どうしたんだ……?」
「可哀想な燐、きみは誰にも言わず一人で耐えてきた。8年間も、男装することでその苦しみから逃げてきた。
……だが僕がいるよ。もう僕が守ってあげるから、恐れずに本来の姿に戻っていいんだよ」
「…………苦しみ? なんのことを? 思い違いしてるよ、ぼくには何も――」
 じっと覗き込んでくる瞳が有無を言わせない力でどこかへ引きずり込もうとしてる、目を逸らせてくれない。
「もう一度聞くよ。きみが男装を始めたきっかけは何だったかい?」
「それは……」
 きっかけは、あったけれど些細なことで忘れてしまった。思い出さないくらいだから大したことじゃない。
なぜ高砂はこうも拘るんだろう。
「言えないのかい? それとも、言わない事にしている? 言えば家族に迷惑が掛かるから?
優しい娘だよ、昔から、きみはずっと」
 分からない。高砂の話す言葉の意味がまったく分からない。
「8年前の、夏休みを覚えている? 15日前の蒸し暑い夜に、新珠の家の離れで、きみは」
 覆い被さるように視界を遮られて、間近に迫る高砂の瞳だけが輝く。


 暗闇のなかで見据える目だけが爛々と光っている。
『誰にも言ってはいけないよ』
 呪文のように木霊して捕らえられて動けない。



 いつのまにか服の下に手を入れられてた、
 駄目だ、これ以上は、だめ。だめだめだめだめだ、絶対。
 指が張り付くように動き回る。お腹や背中に、首や胸にぞろりと這って気持ち悪い。
 ――逃げたら、怖い目に遭うよ。
 はあはあと湿った息をそこかしこに吹きかけられて怖気立つ。
 ――おとうさんおかあさんに話したら、とっても悲しむからね。
 低い声で恐い顔をして、でも笑いながら。足が震える。……こわいこわい怖いよ!

 ……逃げないと、怖い目に遭う。


「きみはあの夜、ある男に悪戯された」
 高砂は、低く暗い声で囁いて真っ黒な底へ続く扉を開けた。
 その昏い瞳で先導してぼくを奥深く連れてゆこうとしている。
 何故、どうして? なぜ、高砂が?
 駄目だ、これ以上は、だめ。だめだめだめだめだ、絶対。
「固く口止めされて、途中で首を絞められて意識を失ったせいで恐怖心だけが残ったんだろう。
次の日から無意識に他人に触れられることを嫌がり、男の子の格好を好むようになったきみ……
僕はずっと傍で見ていて胸が張り裂けそうだった」
 暗い昏い奥底に――
「な……ぜ……?」
「僕が知っているかって? ――その男は僕の父だからだよ」

 暗闇の中で瞳だけが爛々と輝いている。
 それが誰なのか、ぼくはどこにいるのか、昏い世界に呑みこまれて、意識がかすれてゆく――

「父は外では大変有能な人間であったけれども、家の中では最低だった。
暴力を振るい暴言を吐いた。母と二人で毎日地獄だった。
誰にも助けを請えない、だって誰ひとり信じてはくれないからね。
『あんな立派な人間が非道い事をするはずがない』って。きみのお父さんでさえそう言った。
服に隠れる部分にしか傷は作らなかったし、その狡猾ぶりは見事だったよ」
 指先さえ動かせない。昏く何も映さない瞳が闇を広げてゆく……
「でも、僕もまだ子供だったから母と必死に我慢した。そして、何よりきみがいた」
 ふっと、表情がやわらいだ。
「燐、きみといる時間だけは、辛い事も全部忘れられた。きみの事を考えると痛みが薄らいだ。
僕の傷を癒してくれたのはきみなんだ」
 高砂の瞳に悲しみと辛さが仄見える、息も出来ないほどの恐怖が、崩れかけた足下が、
わずかな支えを手がかりに正気へ返っていく。
「だからこそ、父がきみにした事を許せるはずはなかった。後で来る暴力が怖くて、僕は止められなかった。
あの時の自分を一生許す事はできない。きみを守る力が欲しくて、僕は傍を離れる事にしたんだよ」
 怒りと、決意の光が黒き世界を打ち消した。



 もう射抜くような恐ろしい目じゃない、今まで通りの優しくて頼りになる高砂に戻っている。
 噛みしめていないと、まだ歯がかたかたと鳴ってしまいそうだ。
 8年前の恐怖が入り混じって幻を見せていただけなんだ。ぼくを守る、と言ってくれたじゃないか。
 肩を支えてくれる力強い腕が温かい。
「怖かった、誰にも、言えなくて……恐かったんだ、とても……」
 震えながら絞り出す自分のか細い声に驚きながら、ぼくは勇気を出して扉の奥を見る。
 ちゃんと見えるようになるまで時間はかかるだろうけれど、大丈夫、きっと、だいじょうぶ。
 暗闇にも光がある。優しく導く輝きがそこにはある。いつまでも昏いままじゃない。
「――思い出したくなかった。恐くて、……今でも、怖い。
でも、高砂も苦しんできたんだね、ずっと気が付いてあげられなくてごめん」
「いや、僕こそ辛い思いをさせたね。だけど、僕の願いは本当のきみに戻って欲しい、それだけなんだよ」
「今のぼくが、本当のぼくだよ。心配しなくても、ちゃんと言える。男の姿でも、ね」
 まだこわばる指を自分で握り締めて隠して答える。

 高砂の瞳が再び昏くきらめいた。何故だろう。また、寒気がする。
 一旦甦ってしまった恐れはなかなか消えないから、背中を汗が流れているんだ。
「ふふ……、きみは他人が自分をどう見ているかまでは分かっているようだけど、
奥でどんな感情を持っているか、そこまでは思い当たらないみたいだね。そんな所も変わっていない」
「?…………」
「覗くのが怖かったんだろう? またあんな恐ろしい思いをするなら見えない振りをしようと、
ひたすら太陽の光の下を求めて、ずっと気が付かないようにしてきたんだね」
「そうだね……、でも、もう、これからは、」


「だから同じように知らない振りをしていた相手に惹かれた。……当然のことだよ、燐は悪くない。
お互い無意識に傷を舐め合っていただけなんだから、恋愛でも何でもない。
ただ、じゃれ合っていたんだからね。僕はまったく気にしていないよ?」
 低い声で怖い顔をして、でも笑いながら。
 高砂はそう言った。

 抜け出したと思った暗闇に、実は取り囲まれていたんだと、悟った瞬間に世界が傾いた。
「…………、……なにを……言う……、」
 ざわざわと皮膚が粟立つ、膝が揺れて倒れ込んでしまいそうだ。抱き留める高砂の腕が体を撫で回す。
「そんな、の……っ……違う……」
「相手のことを分かっているつもりでいたのは、自分の鏡を見ていただけなんだよ」
 低く暗く囁かれる吐息が耳朶に当たる。いつのまにか服の下に手を入れられてた、
さらしの間をじわじわと指が蛇みたいに這い上がってきて触れられる。
 こんなの、高砂じゃない、優しい高砂じゃない。
「ちがう……、どうして、……君……に、そんなことが、分かる……っ、」
「きみのことは、僕が一番良く知っている。昔も、今も。
再会して確信したよ。燐、きみは8年前のまま時を止めてきたんだ。
けれど体は大人になりだんだん心と矛盾してくる。双方が引きずられてちぐはぐな反応を返しても、
当たり前に受け入れるようになってしまった。……ああ、可哀想な燐。きみは何も悪くないんだよ」
 胸をゆっくりと嬲る掌から呪いの言葉が染みこんでくる、逃げないと体の中が埋め尽くされてしまう。
 駄目だ、これ以上は、だめ。だめだめだめだめだ、絶対。
「恋に憧れる女の子の、よくある気の迷いだったんだ」
 違う、違う、ぼくの気持ちは間違いじゃない……絶対に、ちがう!
 はだけられた首に肩に唇が触れる。ざらついた舌に犯される、嫌、いや、いやだ……
「や……離……、せっ、いや……ぁ、っ」
 指先で弄られると声がかすれる。足が竦む。もっと抵抗しないと、早く早く逃げ、ないと、駄目、だ。
「全て周りが悪いんだ。きみが汚されていたとしても気にしない。僕が全て清めてあげる」



 唇を重ねられて舌が入ってくる、逃げようとしても強引に蹂躙される。荒々しく、いたぶるように。
 指も舌も腕も体も無理矢理に襲ってくる。――――あの時みたいに。
 ぼくに触らないで、彼以外、誰も触らないで! ……助けて、あ、ま……
「嫌、いやだっ、はなして!」
「僕が優しくしてあげる。大丈夫だよ、きみに悪さをする者は僕が排除してあげる。もう怖がることはないんだ。
女の子に戻っていいんだよ」
 そんな風に戻りたくない。もがくぼくを押さえようと大きな掌が首を包んだ。
「父の時はしくじったけれど、もう失敗しない。間違いなく仕留めてみせる。
誰であろうと、今度こそ、僕の手で息の根を止めてあげるよ。きみの目の前で、」

「あの男を殺そう」

 ――――――――
 言の葉が言霊になって全身に絡みついてぼくの力を吸い取っていく。
 心臓を鷲掴みにされて、動けない。動けない。動かせない。
 頭の中をぐるぐるぐるぐる毒が回って回って、くらくらと目眩がする。
「きみがあの男と一緒になることを、お父様は決して認めはしないよ」
 首を掴まれて頭が朦朧としてくるさなかに、高砂は最後にずるりと奈落へ引きずり落とす呪文を吐いた。
「入学時の資料を読めば、すぐに解るよ。
新珠 貴(たかし)は、……雨宿松月を絶対に許さない。あいつは人殺しだ。自分の両親を、殺したんだ」

 暗闇の中で瞳だけが爛々と輝いている。
 それが誰なのか、ぼくはどこにいるのか、昏い世界に呑みこまれて、意識がかすれてゆく――



 薄れゆく意識の端に、何かが軋む音がした。ぼんやりと目を向けるとそこには……
「!?」
「――!?」
 目が合った。一瞬息を呑んで横を向いたけれど、またこちらを見つめて、真っ直ぐに歩いてくる。
 揺るぎないその不思議な瞳の色に、ぼくは自分を取り戻した。
 精一杯力をこめて高砂を突き飛ばすと、反動でよろけて座り込んだ。とっさに乱れた服の前を隠す。
「雨宿……っ!」
「……受けさせてもらう」
 傾いだ高砂の顔をめがけて彼は左手で殴りつけた。
 肩掛けした鞄の重さと、殴った勢いに振られてよろめいた彼は、体勢を立て直して睨み付ける。
「喧嘩もした事のないお坊ちゃんに殴られても、全然効かないね」
 口元をぬぐいながら、言葉通り高砂は余裕の表情で応えた。実際そのように見える。
「学習すれば、いいんだよ」
 鞄を投げ捨てて挑みかかる彼を軽く受け流しながら、高砂自身は手を出そうとせず煽ってばかりだった。
 体格も力も経験も明らかに差がありすぎる……
 二人を止めないと。どうしよう、どうすれば。
 息の切れてきた彼にむしろ同情するような視線を向けて、更に挑発する。
「そんなだらしのない、不良品みたいな体で燐を守れると思うのかい? 笑わせるよね。
仕方ない、本当の喧嘩を教えてあげるよ」
 腰を据えて体重を載せようとする腕と反対に、ポケットに伸びる指の先で何かがきらりと輝いた。


『あの男を殺そう』


 思い出すより早く体が動いてた。高砂の背中にしがみつく。
「やめて! 高砂!!……雨宿もっ!、誤解だからっ……」
「誤解……?」
 彼はいぶかしげに荒い息を吐きながら驚いた顔をする。
「そう、誤解なんだ……、雨宿……ごめん……」
 背中から手を離すと高砂は振り向いてぼくの後ろに回った。背を向けたままで、誰からも顔は見えない。
 ぼくは彼と正面から向き合った。

 この一週間、顔も会わせられなくて辛かった。

『男だけど男だけど、秩父先輩なら許せるかも……あの二人ならヨコシマでもいいっ!』
『あなたの夢を叶えますわ、正に楽園がありますわ、さあ、わたくし達とともに』
 また女の子達が変なこと考えてる……市原が動いていないのは意外だけれど。
 どんなに周りが噂をしてもいい、嘘を言われてもいい、皆を騙しているのはぼくだから。
 今までも、これからも騙し続けていくのだから。
 だから、彼にだけは嘘を付きたくない。誤解されたくない。本当のことを言いたい。
 今の彼に、今のぼくの気持ちを。

 そう思って、ここで待ってた。
 他の校舎からは影になって見えにくい、いつもは鍵をかけていて出入りできないようにしてあるけど、
ちょっとだけ特権を使わせてもらって、先月から時々、お昼休みや放課後を一緒に過ごした。
 寮以外で二人だけで話せる秘密の場所。こっそり、キスもした。
 恋人同士みたいに、誰にも内緒で。


「今までありがとう、雨宿。もう、いいんだ。……高砂がいるから」



 ひときわ強い風が吹き上げて舞う髪をかき上げてる間も、彼はじっとぼくを見つめていた。
 その瞳をただ受け止めながら、語句を繋げた。

「君には今まで沢山の迷惑を掛けた。」
「…………」
「ぼくの我儘が原因と分かりながら、つい甘えてしまった。ごめん」
「新珠……」

「本当のことを言うとね」

「誰でも、良かったんだ」
 誰でもない誰でもない選んだのはただひとり

「独りで気持ちが揺れていた時期に、たまたま行き当たって目を付けてみたんだ」
初めて話した時から少しずつ気持ちを育ててきた考えるだけで心が躍った

「……………………
――――――――君である必要は最初から無かった――――
――――今まで、ぼくは、ずっと、」
 誰かを想う幸せを教えてくれた心も体も全部これからもずっとずっと

「…………嘘をついていた」
 この想いは本物だと信じてる

「君を特別に思ったことなんて、一度も、無い」
 あなたを想っていますあなたを見ていますあなたのことが、

 舞い上がったぼくの髪が一瞬視界を遮った。


『好きです』


 彼の瞳の色は変わらない。
 ――もし、この気持ちが伝わるのなら。
「だから、まあ、そういうことなんだ。今日呼んだのも、一応釘を刺しておくつもりでね、
分かっているだろうけど、ずっと変な勘違いをされても困るしね。
君には見せておきたかったんだ――――、ぼくと、高砂の関係」
 勿体ぶるように出来るだけゆるやかに慕う視線を背後に投げて、冷ややかに意地悪く伝わるように。
軽蔑してほしくて、彼を見る。
 ――お願いです。ぼくのことを嫌ってください。

「……っ!」
 さっと紅潮して目をみはった彼の手が振り上がり、頬をめがけて飛んでくるのを唇を結んで――、
 彼は眉をひそめて俯きながら、広げた指を震わせて肩ごと力を抜いて落とした。
「そうか、そうだな。……悪かった。秩父も、殴ってすまなかった。邪魔したな」
「初めから解っていたことだから、これくらい構わないよ。――行こうか? 燐」
 横に並んだ高砂に肩を抱かれ促されるままに歩かされ、すれちがう。
 絶対に振り向いては、いけない。
「新珠、誤解させた側も責任はあるから正せよ。悪い癖だ」
「きみに言える責任があるのか非常に疑わしいな、聞く必要もないよ、燐」
「……うん、」
 そのまま目を合わすこともなく、階下へと続く重い扉を開いて薄暗く見える中へと、入る。
「いい子だね、燐。そうだよ、僕がずっと守ってあげる。きみは僕のものだ」
 高砂は見慣れた顔で、今まで通りに、優しく嗤った。



風が流れ頭上の雲は激しい速度で駈けてゆく。吹き流され綿菓子のように千切れては、
新たな固まりを形作る。
 赤い紐を取り出して、指に絡めて遊ぶ。端同士がもつれ外そうと出来た輪を指先から離した瞬間、
あっけなく俺の手を離れて向かい風に攫われていった。
 咄嗟に屋上の柵に足を掛けて追うが届くはずも無い。
 みるみるぼやけて薄くなる赤い影をせめて目で捕まえようとするが適うはずも無い。
 空を仰ぎ、ただ雲を追う。

「――――不戦敗、か……」


「……〜〜!……は、・・禁〜……!〜〜っ!!」
 向かいの校舎の教室から誰だか判らないが先生が叫んでいる。
 ……この屋上は立入禁止だったな。新珠と二人だけの場所だった。
 奥丁字が呼びに来て、何を期待した、頭に血が昇って見えなくなった、左手の痛みは何だろうな、
あまりに滑稽で笑いすらも出てこない。
 鞄から先週の預かり物に紛れていた煙草を取り出し、隙間に突っ込まれていたライターで火を点ける。
初めて吸い込んだ煙に咳込み投げ捨てたくなるのを堪えて咥え続ける。
 懐かしい匂いだが、どこが美味いのかさっぱり分からない。
 短く燃え尽きて更に新しい煙草を叩き出した時、やっと扉が開いた。


「立入禁止の区域に侵入し、喫煙していたのは本当かね?」
「はい。事実です」
「今日は終業式であるし、休み明けに処分を持ち越すとしても、だ。
課外授業への出席を停止しても、君には意味があるまい。だが、一応形式として」
 学園長は顔の前で肘を突き直すが俺の方は見ようとしない。入学前に挨拶をした時から変わらない。
一度も、目を合わさない。
「先に虎尾先生から申し出を受けていてね、君を終日研究室に呼びたいと。
僭越だが私から夏休み一杯そちらに任せたいと言っておいた。先生も心配しておられる。
君にとっても授業より遙かに実のある事だと思うが、どうだね」
「有り難うございます。しかし違反を犯した自分に配慮して頂く必要はありません」

「事故で亡くなったご両親は私の後輩でもあり、よく知っていた。君自身も生死を彷徨い二人の事を覚えていないのは、
私も大変心を痛めている。実の子供の様に思っているよ。だからこそ、期待している。頑張って欲しい。
――卯月……松月、君。」

 初めて俺の目を見据えて新珠燐の父親である人物は一語ずつ噛みしめるように告げた。
 瞳の奥には俺の知らない誰かを捉えて映し続けていた。



 じりじりと陽の刺す熱さが目を灼く。
 追い立てられる毎日は何も考えなくて済む。
 瞬く間に夏は過ぎ一週間遅れの新学期が始まった――


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