「お前、今まで良く点を取れて来たな……、丸暗記と選択問題で勝負か?」
「よーくわかってんじゃねぇか、雨宿。勘は自信あるんだよオレは」
「嘘臭いのは天分か。野生動物だな」
この時期になりようやく尻に火が点いたか、市原が勉強を教えろと言ってきた。
俺に断られると後が無いと台詞の割には態度は普段通り横柄なままで、苦笑いしつつ了承した。
1時間相手をして幾つか問題を作っていると、こちらの思惑には構わず外を眺めている。
「人に聞く態度か、「あっちから走ってくるの、あれ、御車の妹じゃね? 様子変だな、泣いてんのか?
……おーい、どうしたー、兄貴呼ぶかー?」」
泣きじゃくる御車雛菊は駆けつけてきた兄の胸にしがみついて、ひどい、こんなのってひどい、
お兄ちゃん、と上擦った声で繰り返した。
俺は窓際の席から伺いつつ、向かいに座る市原はカメラこそ出さなかったが既に問題など眼中に無く、
兄妹と不安げに見つめる根尾をにやにや笑いで眺めていた。
「雛菊? 何があった?」
「わたし信じてたのに、最近女かもしれないって言われてても、わたしだけは違うって、絶対違うって……、
信じてたのにっ! ずっとずっと憧れてきたのに、ひどすぎるっ! こんなのってない!」
「だからな、誰のことだ?」
御車は先を急かすが、涙と啜りあげる声でなかなか続かない。
焦れったいむず痒さと張りつめた緊張感が教室内を支配する。
「新珠先輩……っ!信じられないっ! 女だったなんて、ひどい!!」
御車と根尾は無言で顔を見合わせた。二人共予想通りにも関わらずそれでも動揺は隠せない。
喉が乾く。
ちらりと市原が俺を見た。
わずかに口の端を吊り上げて目を細めながら小声でオマエの番だ、と薄笑う。
唾を飲み込む音がやけにうるさく感じられた。
扉に手を掛け一瞬強張る指を強引に腕で引くと、がらがらと不自然に大きな響きが耳に障る。
左手の部屋の隅で振り向いた独りの姿を認めて安堵と酸欠が脳内へ一気に襲ってくる。
ひとつ深呼吸をし荒れた息を整えながら後ろ手でゆっくりと閉めた。
「……、!……、どう、して……………」
泣き出しそうなその顔、崩れそうなその体を、今、手を伸ばせば抱き留められる。
何も心配するな、と繰り返し囁いて脳裏に刻みつければいい。
その役は俺じゃない。
「早く服を直せ」
金縛りから解けた様に自分の姿を再確認した新珠は、慌てて返事をすると背を向けた。
かさこそと衣擦れの音に目を逸らして、痛む脇腹に手を当てて足下に目をやると、
赤い髪紐を確認する。
「――――」
もう一度、手に取る。
また、再び、あるいは気紛れで、戻ってきた、無くした、手放した、届かない、結ぶ、印。
想いより未練の強さに苦笑いの息を吐くと、紐を受け取ろうと手を差し出す新珠と視線が合う。
「結んでやるから、後ろを向け」
誤魔化しの言葉に大人しく従う新珠に、櫛かブラシを持っているかと聞くと、ないよ、と即答してきた。
手櫛でこらえろ、とこめかみ付近から指を入れ形の良い頭に沿って滑らせてゆく。
掌の腹が耳たぶに触ると伏せ気味の睫毛が一瞬震えて肩が強張った。
「悪い。我慢してくれ」
「気にしてないよ、続けて」
外からのやや陰った光を受けて鈍く輝く絹糸の束は、背に広がっている間は美しい一枚布で、
ひとまとめにすると恐ろしい程細くまとまってしまい本来の姿を隠す。
額から、耳の際から、うなじから指を通し、梳く。
後れ毛を掬い取り二本指で撫でつける。
触るたびに髪の間からふわりと匂い立つ香りに引き込まれる。
覚えている。思い出す。呼び覚まされる。
ベッドの上で色付く肌を彩る幾筋もの流れは、時に汗に濡れ更に濃く艶めいた。
何度も触れ、体と合わせて口付けて、自分の指に巻き付けては解いて遊んだ。
『ずーっとそうやってて飽きない? …………ぼくの髪、好き?』
後ろから抱きかかえて左手で新珠の右サイドの髪をしつこく指先で弄んでいると、
一度不思議そうに聞かれた事があった。
『時間が許せば24時間弄っていたい』
『……何考えてるんだよ、馬鹿』
『却下されるのが明白だから言ってみただけだ』
『っ! そんなこと、わかって、……る、って』
急に焦って顔を真っ赤にして目を逸らす。
手元に残る髪先をくるくると巻き上げてそのまま頬に触れ、――――
呆れる程鮮明に容赦なく襲いかかる記憶は唐突に遮断された。
左手で滑らかな束を握り覗いた白いうなじ、襟元から更に盗み見た陰に紅い痕がうっすらと残っている。
「…………あま、やど……?」
訝しげに小さく聞いてくる声に慌てて紐を二巻きして縛る。結び目を作る手先が上手く動かずにもたつく。
「自分が不器用なのを忘れていた。済まない。後で鏡を見て修正してくれ、待たせたな」
新珠は小首を傾げて、いいよ、ありがとう、と振り向かずに答えた。
「俺には毎日見てきたこの後姿が一番馴染むな。久し振りにクラスへ戻って懐かしく思ったよ。
秩父が待っているだろう、じゃあな。早く行け」
背を軽く叩いて押し出すと、こくりと頷き、すぐに出て行くと思いきや扉の磨りガラスに右手を添えて
長く長い間立ち止まっていた。
遠く響く蝉の鳴き声が耳に届き始める。
やがて意外な事を口にして気にしていたであろう内容に俺は驚いた。
「あの子と付き合うの……?」
「最初からその気は無いよ。彼女が言ったのか?」
納得か安堵か、ふっと肩が笑った。
「そうだよね……。付き合う訳ないよね。――、かった……。ぼくの靴箱に君宛の手紙が入っていたんだ。
宛名を書いていなかったからさ、…………女の子って、可愛いな。きらきら眩しすぎるよ。
…………それなのにさ、君と話したいって言ってたのに、……、ぼくが好きだったって言うんだよ。
なに、考えてんだろ…………、君のことなんて、何とも思ってないってさ。信じられない。
…………許せない」
独り言めいた呟きが刺さる。俯いた後姿から表情は全く読めなかった。
「――――だからね、ぼくは、女だから駄目だって言ったんだ」
……お前こそ何を言っているんだ。
新珠の周囲の空気が変わったと感じたのは何故だろうか。
儚げで脆く扉から漏れる光に溶けて影となり消えてしまいそうだ。
「あらた……「実はさ、男装するのも飽きてきたところで潮時だと思っていたんだ。
ちょうどタイミングが重なっただけで、まるで君のせいでばれてしまったようだけど、
気にしなくていいよ。……高砂とも、話していたところだからさ」」
今し方の告白が幻かの様に一瞬にして纏う雰囲気が良く知る新珠燐に戻る。
「俺の代わりに怒っても感謝しないぞ。お前が勝手にやった事だ。自分で始末をつけるんだな」
お前の年月を引き替えにされて返せるものなど無い。全てを渡しても埋められない。
「当たり前だよ。皆をずっと騙してきたのはぼくなんだ。君には関係ない。迷惑なんてかけないよ」
振り向いた普段と変わらぬ瞳が謝罪も慰めも受け入れないと断言している。
心が異様にざわつく。また黒い染みがぽつりと浮かぶ。
今の新珠に苛ついて仕方が無い。初めて抱いた時、俺を何とも思っていないと告白した日、そして現在。
理由は解らないが暗い感情が渦巻き、汚して傷つけたい衝動に駆られる。
「――君には悪いけどこうして髪をまとめるのも終わりかな」
新珠は後ろ手で髪紐の結び目を軽く触り確かめ、さらりと頭を振ると纏め髪が後れて揺れる。
その動きに引き寄せられるが如く、とうとう手を伸ばし流れる髪と肩を掴んで引き寄せた。
背中越しに抱き締める。
再び音の無くなった室内に抑えた呼吸だけが響いて空気を震わせる。
接触した箇所が急速に熱を持ち汗ばんでくる。シャツを通してでもあの吸い付いてくる肌触りが甦る。
「離し、て」
焦りと困惑で明らかに動揺し身をよじって反発するが明らかに逆効果で自然と力が籠もる。
柔らかく頬と喉に触れてくすぐられる頭の感触が懐かしい。
「ね、……ぇ、雨宿っ……」
とうとう首を振り目で訴える。懇願で潤んだ瞳も縁を飾る睫毛も拒絶を放つ紅い唇も全て記憶以上で、
本物には敵わないと白旗を揚げる。
「駄目だ」
「……どうして……、ぼくは、」
「黙れ」
耳たぶに唇が触れそうな距離で言い放ち肩を掴み強く押さえつけると、振り解こうと俺の腕を両手で握ったのは
そのままに渋々目を閉じて動きを止めた。
額にかかる髪をそっと払い生え際をなぞり、頬を手の平で包むとじわりと熱くなった。
左手全ての指で何度も顔に触れて覚え込ませる。わずかな表情の変化も目に焼き付ける。
抵抗無く滑る頬から通った鼻梁、口元へと小指を這わせ、親指で下唇を撫でると湿った息が纏い付く。
口角を曲げた人差し指で、鼻頭を中指の背で擦り、時折震える長い睫毛を薬指で払った。
薄く色付いた顔から首筋、その下も同じ様に染まっているのか。
新珠の上下する胸の動きが右手首へ伝染して同時に脈を打っているようだった。
俺の熱か、新珠の熱さか、鼓動の早打ちは密着した背中から当に伝わっているに違いない。
引き寄せた腕の上を新珠の細い指がもどかしく走る。掌を重ねて摺り合わせては離し、甲を撫で筋を辿る。
羽で優しく触れ続ける様な動きと伝わる体温の心地良さは、錯覚しそうになる程に甘く切ない。
「目を開けろ」
音がしそうな睫毛で二、三度瞬きをして、言われるままに開いた瞼の縁に触れると指先が濡れた。
新珠の瞳の奥に映る自分の目の色を確かめながら揺れる像に向かって呟く。
「俺も髪紐を無くしてしまった。もうお前がどう考えようが関係無い。好きにするさ」
嫌、待って、と言いかけた唇を構わず塞ぐ。
一瞬受け入れたものの体ごと突き放そうとするが、遅い。
力ずくで引き寄せて逃げる舌を追いかけ、捕まえて荒々しく吸い上げる。
拒絶からか瞼を頑なに閉じて唸る様にもがくも気に止めず蹂躙し続けた。
やがて根負けし拳で胸を叩く仕草が次第に弱くなるのを見計らって、口唇付近を優しく舐め始める。
おずおずと追従して応えてきたので舌先をつつき合わせると、ん、と甘い声を漏らした。
更に奥を求めて舌を深く差し入れ絡め合わせる。たどたどしく指が這い頭を抱かれる。
火照った体の抑えきれない熱が繋がった唇から互いの中を行き来する。ぬめって端から零れる涎さえ熱い。
頭はふやけて割れそうで舌先を吸い唾液を啜る音が耳と脳内から幾重にも反響し続けた。
「ぁ、ん……」
ようやく顔を離すと膝から崩れ落ちそうになる彼女を抱き留める。落ちまいと首に腕を回されかかる吐息が温い。
ぞくりと鳥肌が立つ感覚に堪らず眼前の朱に染まった耳たぶに口付け形に沿って舌を這わせる。
「……っ!やめ、っ、駄目だ……っ」
びくりと反応する。相変わらず弱い。
上目遣いに非難の目を向けられるのが不思議と心地良くなり、うなじの後れ毛と髪紐を弄りながら
嗤いを漏らしてしまう。
「お前こそいい加減学習しろ。関係無いと思っているならそんな目で誤解をさせるな」
「…………」
ますます涙が溜まって映り込んだ像が歪む。口元を震わせて幾度か呟いたが啜り上げる様な息に混じって聞こえない。
ごめん、とかろうじて耳に届いた。
まだ謝るのか。
体を重ねている時だけは互いに正直だったと考えるのは傲慢だと、
言葉にしなくても相手の気持ちが分かると思い上がるのは侮辱だと断言しろ。
でなければ閉じこめていた愚かな問いが出てしまいそうだ。
――あの時の言葉は、真実なのか?
「続き、欲しいだろ?」
再度唇を奪って動きを止めながら支える右手を後ろから脚の間へ滑らせ太股を撫で回す。
「や!、ぁんっ、だめっ……ぇ!」
間髪入れずに下のファスナーを下ろして手先を潜り込ませると、予想通り湿った薄い布地と
張り付いて触るだけで判るやらしい箇所に行き当たる。
「こんなとこ、でっ、やめ……っ……」
遠慮無しに突起を人差し指で円を描くようになぞり、火照った部分に指を埋めると容易く潜ってしまう。
「だ、め、中までは……っ、んっ!」
そう言われるとな、突っ込むのが当然だと何度言った。直に拡げた途端に愛液が溢れてくる。
濡れそぼった奥は楽々と侵入を許して中指を取り囲む蜜と柔肉の粘っこく吸い付いてくる弾力を楽しむ。
上ずった声が出る度に次は抑えようと唇を可愛く食いしばるのも、久し振りでつい目を細めた。
肩に頭をもたせかけシーツの代わりに俺の夏服の半袖シャツを握り締めて堪えている。
俺の指で堕ちる瞬間が見たい。ぐちゅりと淫らな音が響く度、新珠の爪先は力を込められ白く変色していく。
「ぁあ、や、ぃやぁっ、……あ、ぁん、ああっ」
耐えきれず口が開いてゆき熱く甘美に色付いた声が漏れ、自ら耳にしては切なげに眉をしかめる。
嫌がりつつ確実に快楽に溺れていく様は何度目にしても卑小な征服欲を掻立てていく。
濡れた親指で花芯を引っ掻き深奥の襞の間を抉るように擦る。
服の上から右手で後ろの穴の付近をくすぐりながら往復すると、それが良いのか中で疼きが繰り返され締め付ける。
「気持ち良いのか、ここ」
「いやぁ、ん! そんなの、あ、…んじゃう……、っ、ちゃうよぉっ、ぁあ! ぁはん、ん」
抗議するも責め立てられぐずぐずに溶けてしまったのか、言葉にならない。
半開きになった唇からは籠もった熱を持て余す舌がちろちろと覗き、より多くの酸素を求めて呼吸を荒げる。
苦悩と悦楽にせめぎ合う涙が目尻からこぼれる。
もう少しだ。
指の動きを止めても自らぬるぬるの秘所を掌全体になすりつけてくる。更に感じる部分を探して腰を振る。
汗と蜜の混じった卑猥な音が止め処なく沸き立ち、表情は淫靡に惚けていく。
「自分で腰を動かしているのが判ってるか? やらしい事、好きだな」
「やああ、ぁあん、ああ、っ、いわない、でぇ……いじわるっ……!」
左耳を舐めながら囁きながら、指を三本入れたまま右手で脚を半ば抱え上げるようにして上下に揺すると、
至近距離で喘いで俺の意識を直撃する。
「あっ、……しぃ、……のっ、いっちゃ、あ、あっ、こえ、だめ、いくぅ……、ああああぁ、いい、いいっ、!!」
望み通り唇を塞いで声を殺してやると猛烈な勢いで舌を絡めて吸われる。
直後に収縮と痙攣が繋がった部分から全身に伝播し、絶頂の蜜が上と下の口を同時に流れ伝い落ちた。
「はぁ……ぁ、……、ひどい……っ。校内で、こんなの、や、ぁっ、……信じられない」
胸を弾ませて快楽の名残を全身に巡らせつつ、真っ赤に染め上がった顔で咎める。
返答せずに幾つかキスを落としつつ緩めた襟元を確認して、首筋の奥に覗く痕の上に、
唇を重ねて吸い上げた。音を立てて離す。
より濃く紅く色付いた印にそっと指で触れ、そのまま鎖骨へと滑らした。
「お前は秩父を選んだんだろう。俺を弄んだ仕返しにはまだ足りないよ、単なる嫌がらせだ」
ぐ、と口を一文字に引き結び躊躇する風が見える。
「本気で拒絶すれば逃げられる癖に、体は忘れていないって奴か」
左頬を強烈な衝撃が襲う。
あっ、と自分でも驚いたらしく狼狽えて、俺を平手打ちした掌を握り締めて隠す。
「させろよ。服を脱いで足を開くか、手と口で満足させてくれるか、どちらでもいい」
燃えるような頬の熱さに満足し嗤いながら追い打ちをかける。
だが新珠は辛そうに笑うとそれで君の気が済むなら、と、まだ火照りの残る体を寄せてきた。
その新珠の行動は自分の無力さを思い知るのには充分過ぎた。引き際だ。
溜息ののち彼女のほつれた髪を耳の後ろへ流しながら口を寄せて告げる。
退場前に言わなければならないことがある。
「嘘だ。もう何もしない。だが最後に言わせてもらう。新珠燐。俺はお前を忘れないよ。
この体も、表情も、声も、笑顔も、言葉も、全てだ。この思い出は誰にもやれない」
戯れでも俺を選んで体を許し背中を押してくれた彼女は、他の男の横でもあの瞳を輝かせて真っ直ぐに歩いている。
自分の道を迷わず歩いて行く事が新珠への返礼になる。
「散々お前のライバルだと言われ続けて染みついたから、今後も勝手に思いこんでおく。
邪魔をする気は毛頭無いから安心しろ。
俺はな、…………新珠……、燐。―――、――――」
彼女は時が止まったかのように動かず、長い睫毛だけが震えていた。
「本当に、ねぇ…………嘘、だろう……? 嫌がらせにしても、あんまりだよ。
ぼくは、君に、許されないことをしたんだ……言われる資格は……ないよ」
ようやく言葉を絞り出し戸惑いと非難で無く、悲しみを強く宿す涙混じりの瞳が訴えてくる。
「仕返しに告白する程、性格悪いと思っていたか?」
「だって……君がひどい目にあったり怪我をしたりしたら、それは……ぼくのせいなんだ。
絶対、許せないことなんだ……」
「罪悪感も度が過ぎると質が悪い。俺の身に起こる事を何故お前が責任を取らなくてはならない?」
新珠にとって俺の思いなど御車の妹や他の女生徒達と同じに過ぎない。今まで通り気にせず放って置け」
「――ないっ、……」
首を振る新珠の瞳から大粒の涙が零れた。
「諦めないと嫌いに、……なるから」
「何とも思われないよりは遙かにいい」
「迷惑なんだよ……っ」
「俺が新珠に出来る事は、想うほかは、何も無い。相手がお前でも、やれない」
ぼろぼろと涙を零しながら俺の胸を叩く手首を掴む。
「……それだけで……、それ、が……っ、雨宿、………忘れて………、……………………」
「これ以上言うと撤回して抱くぞ」
「そんなこと、言わない……でよっ、……ばか、ばかああぁ……っ、
……………………君なんて、…………雨宿なんて………………きらいだ。嫌いだ……ぁ」
新珠はようやく俺への誹りを口にした。
ぼろぼろと涙を零しながら馬鹿、大嫌いと何度も絞り出す様に嗚咽する。
責めろ。泣いてしまえ。抑えるな。
床に座り込み溢れる感情に任せたまま、拭えずに幾筋も流れ落ちる涙は見惚れる程綺麗で、
またきりりと胸の奥を刺す。
手を離したが最後、黒い感情と愛しさがない交ぜになり全てを手にしないと気が済まなくなる。
唇を噛んで相反する思いを抑える為に、ただ見下ろし続けた。
陽の向きが変わっていく。
落ち着いてきた頃合いを見計り膝を折って覗き込むと、恐る恐る聞いてくる。
「本当に、思い直す気はないの?」
「しつこい」
「わからず屋」
「お前にだけは言われたくない」
新珠は鼻を鳴らして拗ねる。怒りや咎める表情は影を潜め、代わりにあの悪戯好きそうな目が甦ってきた。
「非公認でも、ぼくのライバルを気取るんならきちんと態度で表わして欲しいな。
体力と顔は大目に見てあげるけれど、ぼくに心配させるなんて本末転倒だよ?」
そう言って立ち上がると、背後からの光が彼女の輪郭を柔らかに描き出す。
「――――もちろん、ぼくだって負ける気はないからね。君と同じに目指すものがちゃんとあるんだから。
そして、高砂にも、
…………………………………………勝って。でないと認めない」
迷いなく一筋に向かってくる瞳、焦がれていた笑顔がそこにあった。
「この負けず嫌い」
目を離せない。当に数える事を放棄した――――何度目かの恋に落ちる。
「今度は無くさないでよ」
再度髪を解き赤い紐を差し出す。
「ううん、無くしてもいいから。またあげる。無くしたら何度でも何度でも君にあげる」
新珠燐。
まだ足掻けと誘うのか。
自惚れでもそれがお前の望みならば答えは決まっている。
「…………受け取るよ。有難う」
新珠には敵うべくもないが精一杯感謝の笑顔で応える。
すると彼女は俺の顔をぱちりと両手で挟んで先刻より凄みのある形相で迫ってきた。
「ほかの娘の前でそんな顔をしたら、絶対許さない」
「そこまで変な顔だったか、慣れない事はするものじゃないな」
「馬鹿ばかばかばかバーーーカ。君はぼくが出会った中で、一番とんでもなくて、どうしようもない。
ほんっとに……ひどい男だよ」
「さすがにむかつくぞ。具体例を挙げろ」
「初めての時、フェラさせたよね、ぼく、キスだってしたことなかったんだよ?
口チューより先に銜えさせるなんて、こんなひどい相手はいないと思うけど?」
「……覚えていたのか。確かに非道い男だ」
「あんなことやこんなこともした君が悪いんだよ。忘れられるはずないじゃないか」
柔らかな唇が触れ、新珠は二言三言呟いたが俺には聞き取れなかった。
ああ、もう急がなきゃ、と確かめる間もなく駈けだしてゆく。
改めて眼に痛い黄色い陽光と残る感覚の眩しさを実感し、脳裏に焼き付けた。
「きみに殊勝な行動を期待した僕が愚かだったのかね。
それとも人の言葉を推し量れないきみが、予想以上に馬鹿だったと責めるべきか」
男子トイレの洗い場で後頭部に流水を掛けて熱を冷まして、蛇口を閉めた瞬間に声がする。
予期はしていた。
滴が流しの面に幾つも落ちる。左手で蛇口を握り淵に右手を添えた姿勢のまま、無言で顔を向けた。
秩父高砂。
夕暮れ前の暑苦しい陽差しを背に受けて廊下際に立つ姿は、先刻の新珠と同じながら
纏う色は赤く暗く負の感情に満ちている。
「…………」
「人のモノに手を出しておきながら謝ることすら出来ないのかい。
まさか自分が正しいと思ってやしないだろうね、自惚れにも程がある。………………この、屑。」
「謝る相手はお前じゃない」
「君がどう足掻こうが、もう遅い。燐は女の子に戻ると決めたよ。結果オーライだから、
これからは彼女に近付かないと約束すれば、見逃してやる」
「断ればどうするつもりだ、排除か。解りやすいな」
「何もかも燐の為だ。彼女はそうされるべき価値のある人間だ。自分の事しか頭に無い男とは違う」
煽り煽られ相手の出方を伺う。俺はともかく即座に決着をつければいいものを、酷薄な笑みで
表情を固めて腕を組みじりじりと迫ってくる。
「吐き気がする。新珠を言い訳にして自分の思い通りに動かして楽しいか」
瞳に揺らめく漆黒が気持ち悪い。その陰りは新珠にも伝染している事に気が付いていないのか。
「貴様とは正反対に僕は何でも燐に与えることが出来る。全てを犠牲にしても構わない。
彼女の周りには美しく優れたものだけがあればいい。それを吸収し更に燐は輝き、本来の姿を取り戻す。
誤った歩みを正しく導くのは彼女の横に立つ者として当然のことだよ。多少の誤差はあったが、
きみを含め、――皆、良く動いてくれたよ。僕の描く通りにね」
こいつは俺を見てはいない。
新珠をもこの目で見ているのか。
心底選んだ相手だとしても、認められない。この男には渡せない。
「互いに宣戦布告をしただけで、俺達はまだ戦ってすらいない。決着はついていない」
「勝敗など始める前から決していたのに、しかも既に終わったものを本気にしていたのかい?
こんなにお目出たい男だったとはね。……それなら望み通りにしてやるさ」
肩の力を抜き、こちらへ哀れみすら抱いている様な勝ち誇った笑みを浮かべると
秩父は間合いを詰めてきた。
腕を一閃する
「うくわっ、っつ!……!!」
一息に水栓をひねり全開した蛇口に掌を当て秩父に向かって流れを弾け飛ばす。
激しい音と水圧に手元が怯んだ隙に脇から逃げる。金属の光がちらついた。
顔のすぐ脇を鋭い風がかすめる。確認する間は無い。手を掛けた扉が引きずられて閉まり廊下へ躍り出ると、
甲高い音が連続し、足下へ落ちた何かを咄嗟に蹴り飛ばした。
からからと回転して視界の先へ滑ってゆくものを追いかけながら走る。
かろうじてすぐ真後ろの罵声より先に柄を引っ掴んで振り向きざま足元を真横に薙ぐ。
狙うのは無理だがかすってでも動作を鈍らせるなら脚の方がましだ。
「――っつ!」
切り付けた手応えはあったが反対の足で手元を蹴り上げられ放り出してしまう。
ナイフは再び乾いた音と共に階段の端へ消えた。
秩父は俺の襟首を掴んで床に引き倒しマウントポジションを取ると余裕たっぷりに鼻で笑った。
右手には先刻手放したものと全く同じ形のナイフを握っている。
「貴様は用済みだ。邪魔だから消えろ」
刃先を俺の首筋に当てなじませる様にゆっくりと引いて反応を伺っている。
息が上がり高揚する体とは対照的に冷たく硬質な感触は却って意識を研いでゆく。
先刻と同じくただ見返す俺の態度に、次第に秩父は苛立ちを表わし始めた。
「命が惜しくないのか」
「無くすならそれまでだったというだけだ」
「戦うと言いながら所詮は口だけか。見込み違いも甚だしい、最初から大人しくすれば
痛みを感じる間も無く逝けたものを全く、燐は貴様の何処に目を付けたのだ」
死ぬのは結構だがこの場所でやられるのは遠慮したい。
言葉に反してぎらつき歪む眼差しは、この男の詰めにしてはぬるく感情的過ぎる。
自分がやったと大声で触れて回っていると同じ、言い換えれば追い込まれているのは秩父のほうだ。
「セックスの腕か。まさか手を出していないとは言わないよな」
秩父の表情が怒気に沸騰する。同じ手に引っ掛かかるとは、まあ最期の台詞としては格好悪さ極まれると
首を切られる瞬間も呑気に考えて……
ではなく、体を引き起こされたと思う間もなく壁に叩き付けられた。
全身に走る衝撃に息が止まる。腹部に一発、左頬に二発拳を打ち込まれる。
「……貴様だけは、許せない。許さない。何の苦労もなく澄ました顔で攫っておきながら、
自分のせいでないとうそぶく偽善者め。
僕にはあれから一度も触れさせてくれないのに燐は……っ、燐を弄んでいるのは貴様だ!
すぐになど逝かせない。じわじわと痛めつけて、助けてくれ、でなければ殺してくれと
泣いて懇願するまで苦しませてやる」
喉元を握り秩父は恨みだけを張り付かせぎりぎりと歯噛みをして睨み付けてくる。
息苦しさに振り解こうともがくも腕が上手く動かない。
痛みより激烈な熱さと心臓がもう一つ出来たような鼓動が耳の奥に木霊して思考を奪う。
「っつ、……ぐ、……っ」
不意にこの場には似合わない流行り曲が聴こえ、秩父は手を緩めた。
「ははっ、つい首を締め上げる所だった。危ないね。とりあえず、指の骨でも折っていこうか」
背を丸め咳を繰り返す俺を見て、嘲り笑う余裕を取り戻し携帯の着信を無視したまま俺の右手を捻る。
今の逆上振りで秩父が狙うのは肉体的苦痛だけだと知る。
まだそこまで考えが回っていないのだろうが、俺ならば精神的に確実に堕とす為に新珠を使う。
案外に奴は彼女に似て真っ直ぐで正直な性格なのかもしれない。
新珠燐への恋慕が秩父高砂を作ったのなら、俺は勝てない。敵う筈が無い。
だが、生きた彼女の姿で無ければ意味は無い。
秩父の右足の脛が斬れ服地の間から血が見える。足元まで汚れてなく奴にとってはかすり傷にすら
至っていないかもしれない。蹴られた時にはずみで触ったのか左の上履きのゴムが切れかかっている。
まだ視界がぐらつき体中が軋む。
「まず一本目、小指だ」
鉄の味の唾を飲み込みながら見上げる俺を、さも愉快げに見下しつつ、指を捻り上げる。
一瞬苦痛に顔を歪めたのは秩父だった。
傷口を蹴り体をぶつけ突き放すと階段に回り転がっていたもう一本のナイフを手にする。
踊り場まで駆け降り右足を一段だけ下ろして振り向く。
「――――!」
何かを叫びながら飛ぶように追いかけて来た秩父は角を曲がり、振り上げた腕を今度は狙い定め眼光で射る――、
鳴り続ける着信音。
「?!」
目の前でぐらりと前に傾ぎバランスを崩す。俺が両手で構えた刃先に吸い込まれるように倒れ込む、
――――寸前に手を放した。
そのままの勢いでぶつかり二人共に階段を転げ落ちる。
後頭部への衝撃火花が散り脳が揺さぶられ身体中が悲鳴をあげる。
甲高い叫び声と、
意識の溶解。
暗闇に堕ちる。
草木の緑と曼珠沙華の赤が一面を覆っている。秋の彼岸を示す色。
あれから毎年この時期が来ると熱を出す。放り込まれる部屋の馴染みすぎた独特の匂いに
またか、と眉をひそめる。
――――
曼珠沙華の向こうで誰かが呼んでいる。ああ、裸眼のせいで霞んで顔が判らない。
近付いて確かめる為に踏み出すと不意に影が横切った。通り過ぎる赤に惹き付けられていると
右腕を羽交い締めにされた。
「ぼくも一緒に行くよ」
「新珠……?」
目を開くと薄闇の世界にあの匂いが漂っている。泥に絡め取られたように沈む感覚と鈍く滲む痛み。
こちらが現実だ。
緩やかに自身を認識する。左手には点滴、頭や体数カ所に包帯が巻かれている。
捻挫とひびで済んでいるなら良いが、そのうち判る事で急ぐ話ではない。
「目を覚ましたようです、……はい、判りました」
右隣のベッドからナースコールを掛ける男の声がする。
切れると枕元に近付いてくる気配がし、明かりを点けて平気か?と聞いてくるのでああ、と返事をすると、
頭上のライトのスイッチを入れベッドの端に腰掛けた。
ぼんやりと映る人影に話しかけて確認する。
「秩父、か。お前は動けるのか」
「僕はきみと違い大層丈夫に出来ている。頭も少し打ったので用心の為に一晩泊まらされることになったが、
打ち身と切り傷の手当だけだ。下敷きになったきみが割を食って貧乏くじを引いた訳だ」
「そうか、なら良かったな」
「軽傷だった礼は言う。……だが、勝ちを譲ったつもりかい? 今回は偶然が重なっただけで、いわばドローだ。
――――まだ決まっていない」
「次は体を使わない勝負で頼む。お前も新珠を泣かせるのは本望でないだろう」
「今でも事故に見せかけることは出来るのに、馬鹿な真似をする……僕を怒らせないように気を付けろ」
秩父の影は舌打ちをし、それきり黙ってしまった。
未だ人が来る様子は無い。
「顛末を聞かせてくれ」
「あの場に居合わせたのは彼女の母の菊桜(きくお)さんだ。
燐は学園長と一足先に帰っていた。ここに運び込まれ処置も終わってから、三人で様子を見に来たよ。
毅然とした態度で無理をせず養生しろと、僕と、きみにも言っていた」
そして一人で自分を責めるのだろう。泣かせる事に変わりは無い、か。
「泣きたいのを我慢して無理をして、あんなに強がって立っている燐は、間違っている。
本来の燐は誰よりも優しく女らしいのに、傷ついた心を守る為に被った仮面を外せなくなった。
雨宿松月、彼女の心を癒したいと思うなら自分の過ちが解る筈だ」
「その全てが新珠燐だから、彼女の好きにすればいい。俺が新珠を癒せるなど考えた事も無い」
「貴様の言葉が燐を縛っている。燐の気持ちを考えたことがあるか?」
「人の思いなど判らないのが当然だ。だからこそ、彼女の為に何でも出来ると思い上がる事は出来ない」
「判らないからと燐を傷つけても平気だと?」
「慰め役ならお前や奥丁字がいる。俺の出る幕じゃない」
「……やはりさっさと止めを刺しておくべきだったよ。貴様は、燐の為に、最悪だ。全くもって最低の男だ。
体を治したら性根を叩き直してやる」
「腕っ節の勝負は遠慮すると言った筈だ。無理に従わせようとする限り、俺もお前に負けてやる気は無い」
「きみのように勝手な人間の都合を受け入れる義務はないと気が付いたよ。せいぜい足掻いて苦しむがいい。
その姿を見るのが楽しみだ」
サドかよお前、と吐き捨てると、貴様ほどではないと返された。
ノックの音と共に入ってきたのは嶺先生と千島医師だった。一通り容態の説明を受け
翌日に登校する為にどうにかして欲しい、と頼むと朧気でもはっきり判る露骨な嫌な顔をした。
俺は新珠の選択を見届けなくてはならない。
「松月、こノ馬鹿医者の思うツボだよ。大人しくシテおけ」
「出席日数を今以上に落としたくないんです。千・島・先・生」
「この天才のボクこと、千島清隆の腕をとうとう認めてくれたのだね。苦節二十年ロング長かった。
しみじみ。よろしい。望み通りに改造、いやリニューアル、大船に乗られた気でいることだ!」
抱きついて泣き真似をする病院内一番の変人医師は、腕だけは確かだ。
鬱陶しさは変わらないと思い出しつつ、人道的にお願いしますと釘を刺す。
嶺先生は長い溜息を吐きながらホラ準備するよ、と千島医師の首根っこを掴んで俺から離すと、
慣れたものでそのまま引きずって出て行った。
天才と何とかは紙一重と、呆れ声で秩父が呟いた。
「寮生活でやっと解放されたんだ。早く戻りたい」
頭を掻きながら……何か引っ掛かる。
「確かにアレは嫌過ぎるな」
「俺が物心ついた時からあの調子で、しかも――――、………………」
「おい、雨宿? っ!!」
後半は何を言っているのか判らなくなっていた。
猛烈な嘔吐感に襲われ毛布の上に吐き続ける。胃液しか出なくなっても収まる気配は無かった。
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――――
曼珠沙華の向こうに人影が見える。足を一歩踏み出す毎にぼやけた輪郭が形を取り、
姿が、顔が、表情が明確になってゆく。
右腕に掴まる相手は、いない。
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二つの影が名前を呼んだ。
曼珠沙華は秋の彼岸を示す色、――――赤い赤い血の色だ。