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予測は的中した。
闇の中のしばしの無言の追跡の果て、町外れ、夜明け前の微妙な陰影を刻んだ空を背景に、
石切り場へ向かう坂の頂上近くを逃げて行く人影を衛兵コンビは発見した。
一言も声を交わさないまま、疾走しながら衛兵長が剣の鞘に手をかけ、副長が矢筒に片手をあげた。
だがその足音と気配を察したらしく、足を止めた人影は振り返り、急な角度で突然に、街道から脇の荒れ地へ飛び込んだ。
「ちっ!」
でこぼこの荒れ地に低い灌木がいくつも伏せている複雑な地形に、副長が片手をおろして舌打ちした。
「追いたてる。坂の底の茂みへ廻れ」
言い捨てた巨体が荒れ地に飛び込み、クロードは弓を握りしめてたたらを踏んだ。
「気ィつけろよ、サディアス!」
サディアスは薄い闇の中地形を読んだ。
もはや賊との距離はない。焦る心で走り続けたヤツにはもはや余裕もないはずだ。
わざと起伏が上昇する方面に回り込んでみせると、賊は簡単に目論みにひっかかった。
だらだらと石切り場へと降りる斜面を駆け下りていく。
軌道を修正して一気に加速したサディアスは顔をあげ、喉の奥でくぐもった呻きを漏らした。
払暁にはまだ早いがそれでも星明かりでぼんやりと浮かび上がった黒い坂の途中に、細い影が立っていた。
少し早い、と衛兵長は胸に叫んだがクロードの頼りないほどの痩身は弓を構え、一直線に近づいてくる賊にぴたりと狙いを定めた。
坂道で足をとられ、止まれないままの賊が意味の聞き取れない叫びを放ち、刃物を握ったままだった手を振り上げた。
クロードとの間を糸よりも鋭い光が結び、次の瞬間よろりと副長の影が揺れたのをサディアスは見た。
弓が手を離れ、矢筒から黒い矢が散らばるのも見えた。
悲鳴のような、笑いのような叫びをあげながら空手の賊はその横を走り抜け、街道をひょろひょろと横切ってそのまま西の斜面へと逃げていった。
「クロード!!」
辛うじて足をとどめたサディアスがほとんどぶつかるように抱きとめた躯は恐ろしく細かった。
「…ってぇよ!……俺はいい、早く追え!」
クロードが叫んだが、衛兵長は賊の背中に目をちらとやっただけで、すぐに腕の中の副長にかがみ込んだ。
「どこを、やられた」
「足だ。情けねぇ」
副長は顔をしかめたが、はっと気付いたように、自分を抱きとめている太い腕に視線を止めた。
「傷を見せろ」
眉をよせたサディアスに、彼はわめいた。
「大したこたねーよ!それよかヤツだ!このままとんずらかよ、けったくそ悪ィ!」
「ヤツは、西に逃げた」
衛兵長は諭すように声を低めた。流石にさきほどからの疾走の連続で息があがっている。
「バトーユ、がいる……もし、街の城壁をまわって北へ向かえば、ジョンだ……ヤツは空手だ。逃げられぬ」
「ああ…」
クロードは顔を歪めて笑った。
賊の投げたナイフが血に塗れた刃を剥き出しに、傍らに転がっている。
衛兵長はそれを拾い上げ、星明かりに斜めにすかすようにその刃を眺めた。
サディアスが指名した三人の衛兵の顔を思い浮かべたらしく、クロードは納得した。
「剣が得意な奴らばっかだしな…」
そこまで呟き、小さく呻く。
衛兵長の大きな掌が靴ごと足首を掴み、引っ張ったからだ。
「平気だっつってんだろ…!いてて、引っ張るな、馬鹿野郎!」
「黙れ」
サディアスは抵抗するクロードの腕をうるさそうに払いのけ、膝に手を滑らせると引き寄せて、太腿に視線をやった。
ズボンの布地がおよそ掌ぶんの長さほど切り裂かれ、漆黒なのでわからないがかなり出血している様子だった。
ほの白い素肌がわずかに見えたが、傷口の詳細は夜明け前の星明かりが頼りではよく確認できない。
サディアスは眉を寄せた。
「暗くてわからん」
「手当は戻ってからでいい。いい加減、放せよ衛兵…」
長、の言葉がクロードの喉で消えた。
いきなり広い背中を丸めたサディアスが傷口に口をつけたのだ。
「……あ、おいっ!!何の真似だよ!」
一瞬呆然としていた副長が顔を真っ赤にしていきり立ち、巨漢の肩をこづいて帽子を払い落とした。
だががっちりと固定されている足はびくとも動けない。
「やめろ!やめ…」
クロードは、ぎくりと、赤毛の頭に目を据えたまま固まった。
舌に傷口を覆われ、強く吸われる感触に驚いたのだろう。
衛兵長はむくりと身を起こし、地面に、唾と一緒に黒いものを吐き捨てた。
吸いとったクロードの血だ。
袖口で汚れた口元を拭い、サディアスは放り出したナイフをちらと眺めて呟いた。
「刃に何か塗ってある。匂いからしておそらくただの油だろうが、用心はしておかぬとな」
「………あー。なるほど」
クロードは、あっさりと解放された足を眺めた。
「だが思ったより出血している。とりあえず、どこかで応急処置だな」
衛兵長は首をぼきぼき鳴らすと、また身を屈めて副長の背に掌をあてた。
クロードは不吉な予感に顔を顰めたが、案の定膝の下にもう片方の腕が入り込んできた。
両腕に痩身を抱いた衛兵長が立ち上がると、抱かれた男は喚き始めた。
「や・め・ろ、つってんだろ!!こんな恥さらしな格好を部下どもに見られてみろ、もう二度と睨みがきかねぇ!」
「…副長、ちゃんと食事をとっておるのだろうな?」
拳を振り回して暴れる副長を危なげもなく運びながら、サディアスはやや心配そうに尋ねた。
「細いとは思っておったが、こうしてみるとあまりにも軽い」
「あんたに比べりゃ熊でも軽いぜ。いーから!肩だけ貸してくれりゃ歩けンだよ!はなせよーっ!!!!」
「何か巻くまでは動かぬほうがいい。…それと、耳元で喚くな」
何をやっても無駄とわかったクロードは黙り、ずんずんと歩いてゆくサディアスの行く手に目をやった。
凍てつく夜気に沈む石切り場を越えた斜面の途中に、荒れ果てたかつての修道院の跡が不気味なシルエットになって浮かんでいる。
クロードは喉の奥でなにごとか罵った。
「おいおい…よりによって、夜の石切り場の坊主のすみかの廃墟かよぉ。おあつらえ向きの怪談の舞台じゃねぇか」
「夜が明ければ部下達がこのあたりを探しに来る。目印には格好だ。…少しは黙れ」
ちっ、と舌を鳴らし、副長は実に居心地悪げにサディアスの腕の中で躯を硬直させた。
「了解、衛兵長」
*
古くさい廃墟にもいいところはある。
目印になることもその一つだが、そのへんを適当に探すと、吹き寄せられた枯れ葉や枝やゴミが雨に濡れない場所に転がっていることなどだ。
その上、早く、怪我をした副長を暖めてやらねばならないサディアスにとってはおあつらえむきなことに、
石切り場の職人が休憩時間に入り込んで作ったらしき、たき火に格好の石組みまで見つけることができた。
この過酷な一週間の締めくくりとしては悪くない。
炎が安定して伸び上がり始めると、サディアスは抜け落ちた梁のような灰色の太い丸太を真ん中に渡した。
これで放っておいても消えることはない。
振り返ると、がれきの山を背に横たわっていたクロードがあからさまに警戒した顔つきになって口を開いた。
「ここまでしてもらえりゃ安心だ、すまねぇ…手当なら、あとで、自分でするからよ。あんたは休んでくれないか」
「何を言っておる」
衛兵長は漆黒の上着を脱ぎ始めた。お仕着せのブラウスも脱ぎ、前合わせのシャツをめくる。
みるみる分厚い躯が露になっていくのを目の当たりにしたクロードが喉に息が詰まったような声をあげた。
「な、何だ、その真似は」
「こんなものですまぬが、他に適当な布地がないのだ」
サディアスは上半身裸になり、短剣をとると、その刃を脱いだばかりのシャツにあてた。
細く裂き、幾条もの包帯もどきをでっちあげ、彼はそれを丁寧に掌に掬い上げると副長に見せて笑いかけた。
「さあ、脱げ。下だけでいい」
「待ーてーよー!」
クロードは跳ね起きた。
「いちちち」
サディアスは慌てて片手をつき、膝を進めて近づいた。
「馬鹿者、動くな。傷口が開くぞ」
「お、俺はなあ!」
クロードが痛みをものともせず、近づいてくる衛兵長にくってかかった。
「俺はこう見えてめちゃくちゃ丈夫なんだよ!いいから、頼むから、放っといてくれってば」
「うむ。怪我さえしておらねばこうも人の親切を無にしたがる小僧など、放っておきたいのは山々だがな」
サディアスはむんずとクロードの腕を掴んだ。クロードが激怒した。
「小僧だと。いつまでもガキ扱いすんな、俺はもうすぐハタチだぜ。気安く触んなって!」
衛兵長は、掌から伝わるなんとなく頼りない感触に顔を顰めた。
「こうしてみるとやはり細い。何か悩み事でもあるのではないか?」
「へっ」
なんとか振り払い、クロードはいかついくせに人のよさそうな上官の顔を眺めて、いささか毒のこもった口調で呟いた。
「あんたじゃあるまいしよ…」
腕を放し、衛兵長は何も聞かなかったような顔でクロードの前にしゃがみ込んだ。
「たまたま今日は一番いいシャツを着ていた。それを犠牲にしたのだ。恩を着せるつもりはないが、有効に利用させてもらうぞ、副長」
「よせ!!」
サディアスはにこりと笑った。
「お前が衛兵長なら命令として聞いてもいいのだがな」
否応無しにクロードは、鋼のような腕で引き寄せられた。
クロードの頭をがれきの下にずり落とし、その躯を脇に挟むように抑えつけた衛兵長は、彼の上着をめくりあげ、ベルトを外し始めた。
「よせよっ」
両手を固めて殴りつけようとしたが、殴れる場所は背中しかない。
「お前、なんだこの生っ白い腹は」
逞しい背中越しに、呆れたようなサディアスの声がする。
「痩せっぽちにも限度がある」
「よせよ…!」
副長の声がふいに弱々しくなった。ズボンが腰に沿って引き下げられ、下着がそれにつれてめくれたのがわかった。
クロードは拳で顔を覆い、上半身を丸めるようにして縮こまった。
「ふむ」
サディアスの声がする。傷の付近を、指先が軽く抑える感触。
「…派手には見えるが、浅い。すっぱりいったな。傷口も荒れておらん。これなら包帯をしておけば大したことはない」
衛兵長が肩越しに振り向く気配がした。
「安心しろ、副長…」
サディアスは言葉を止めた。
「クロード?どうした」
「……………」
慌てたように衛兵長はおさえていたクロードの腰から手を放し、向き直ってきた。
「どうした。気分が悪くなったのではないか?」
肩に手を置こうとして、彼は躊躇った。
その肩が小刻みに揺れていた。その揺れは段々大きくなり、ついには声まで漏れ出した。
「……っ、くっ、く…あ、あははは!」
クロードは両手をぐいと顔から外し、大笑いを始めた。
「あははは、はははっ、うあーっはっはっはぁ!!」
これ以上もう我慢できないといった風情で、笑い過ぎで目尻には涙まで滲んでいる。
「…副長」
サディアスの顔は反対に深刻な影を刻んだ。
「お前、変だぞ」
「変なのはあんたさ、サディアス」
にやりと笑って副長は片腕を伸ばすと素早く、下着ごとズボンを引き上げた。
「いいなぁ、あんた。信じらンねーけどそういうとこがいいんだよなぁ」
衛兵長は眉間に深い溝を作ったが、副長が元通りに傷を隠したのに気付いて口の端を曲げた。
「手当だ、副長」
「自分でする。浅いんだろ」
きっぱりとクロードは宣言し、よろよろと立ち上がった。
「男同士で裸になってる趣味はねぇんでな。悪いがあっちでさせてもらうぜ」
親指で崩れ落ちた壁を指し、クロードは衛兵長の手から包帯を奪うと、危なっかしく歩き始めた。
「肩を貸そう」
見かねて立ち上がったサディアスの申し出を、今回彼は断らなかった。
面白くてたまらないといった表情を一瞬みせて、クロードは碧い目に笑みを浮かべた。
「悪りぃな」