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図書館にて

ナサ ◆QKZh6v4e9w氏

背後でぴたりと足音が止まった。

誰かはわかっていたがナサニエルは軽く身をよじると睫を伏せて徴ばかりの会釈を漂わせ、すぐに本棚に向き直った。
緊張を隠そうとあえてゆっくりと顎をあげ、目星をつけていた背表紙の色を確認して指を伸ばす。
「これか?」
ふいに空気が揺れ、渦を巻いてナサニエルの短い髪を舞わせた。
青い袖を纏った長い腕が伸び、『彼女』の手を追い越して本に触れる。
背表紙の上部に人差し指をひっかけて無造作に倒し、手中にした本のタイトルを眺めて彼は軽く鼻を鳴らした。
「……古典に興味があるのか?」
ナサニエルは振り向き、ひどく近くに立っている人物の胸板に顔を向けた。
「王妃様のご所望です。お渡しください」
少し切り口上すぎたのかもしれない、と『彼女』は言い終える前に後悔した。
内心の緊張を見せてしまった。
ナサニエルは頬を赤らめ、目前の躰を憮然として睨みつけた。
その視線の先に本が現れた。
ナサニエルがひったくるように掴み、傍らの書見台に置くのを彼は『面白そうに』眺めていた。そちらを見なくても気配でわかった。
「ありがとうございました」
無礼なことに世継ぎの男への感謝を過去形にして本棚に再び向き合った『彼女』の後ろから気配は失せなかった。
意識から払いのけようと努力しながらナサニエルは次の本を捜している。
彼はどのようにしてか『彼女』の居場所をかなりに把握しているらしく、このところ王宮のどこであっても行く先々に現れる。
理由はわからない。

ナサニエルは薄いオリーブ色に変色した古びた装丁の本に目をとめた。
複雑な飾り文字で目指す哲学者の名前を確認し、『彼女』は指を伸ばした。
小柄なのでこんな時には苦労する。

が、背後の男への協力の要請は考えに入っていない。
この王子が一介の小姓であるナサニエルの存在を気に留めているらしいことが『彼女』の警戒心を強めている。
相手はそもそも雲の上の身分であるから小姓がものを頼めるわけもないし、『彼女』自身も『対象』の人物にどんな借りを作る気もさらさらない。

先日勃発した叛乱の規模の大きさが知れ渡るにつれて都には常設軍以外の王軍が続々と参集し、このところ王宮中は慌ただしさに包まれていた。
だからこの数日の間ナサニエルはイヴァン王子に会うことはなかった。王宮つきの小姓とはいえナサニエルは先々週入ったばかりの新入りであり、閲兵だの会議だの、王族への名誉ある場所への随行は古参の者たちが占めるのが常である。

「もうすぐ見習い期間が終わるそうだな」
何気なさそうに王子が言った。
ナサニエルは眉をひそめ、その言葉の主語が自分であることに気付いた。
「オレ付きになる気はあるか?」
『彼女』はぎこちなく振り向いた。
待ち受けていたらしい視線に晒されていた事に改めて気付き、『彼女』は凛とした表情にわずかに警戒の色を重ねた。
「…そのほうが都合がいいだろう」
なにやら含みを持たせた呟きに、『彼女』はじっとイヴァンの顔を見た。
明るい色の目は至極もっともらしげに『彼女』を見返した。
「…そのようなご命令があれば」
ナサニエルは静かに答え、本棚に再び振り向いた。
背筋に冷たい粒が浮く思いだった。
ほんの一瞬だが、『彼女』の任務をこの男に悟られたのかとぞくりとした。


──だが、まさか。
もしも『彼女』の正体が知られていれば思わせぶりな探りなどはないまま即座に投獄されるはずだ。

迷いを振り切るように腕を延ばす。
背表紙に指先が触れ、『彼女』は軽くつま先立ちをした。
あとちょっと……そう思った瞬間、指先を握り込まれてナサニエルは小さく悲鳴をあげかけた。
骨太いが暖かく乾いた感触の指が絡みついて、臆面もなく滑らかな手の甲を撫でている。
「イヴァン王子?」
その声が聞こえたのか聞こえないのか、背後の彼はすばやく周囲を伺う様子をみせた。
ナサニエルも釣られて左右に視線を走らせた。
背の高い本棚の前には自分たち以外の人影や気配はない。
「誰もいない。安心しろ…」
耳元で彼が囁いた、と思うや否や背後から躰を抱きかかえられてナサニエルは反射的にしゃがみこみそうになる。
本をとるために背を伸ばしていたので防御ができず、とっさに『彼女』は目の前の本棚の縁を掴んだ。
そのしなやかな脇腹を掌が滑り、拘束するように包み込んだ。
ナサニエルは急いで本棚から手を離し、彼の手首を掴んだ。
ひっぱるが、全然離れない。
右腕が加わり、その手もろとも華奢な躰を抱きすくめた。



『彼女』が抵抗しようが構うものかと彼は思った。

頬を寄せると金褐色の髪に埋める鼻先がふわりといい匂いを捉え、思わず一瞬陶然とした。
髪の匂いだけではない。短い髪の合間に覗く白くて細いうなじに続く線、色気のない小姓服の奥から立ち上る豊かでかぐわしい躯の匂いだ。
イヴァンは抱いた腕をゆるめ、『彼女』の輪郭を撫でた。
肩から腕に、そして脇腹から背筋に。
ほそく引き締まった胴から厚みを帯びた腰や太股への艶めかしい線をあらわにするように、力をこめて撫でおろす。その瞬間だけ女らしいラインを腕の中に見せてナサニエルは小さく身もだえした。
「な、なにを…」
細く声が漏れた。普段の凛とした口ぶりは影を潜めていた。
その不安そうな、少々うわずった響きにイヴァンは思わずにやりとする。
「オレはまだ何もしていないが」
まだ、のところをささやかに強調すると『彼女』はぴくりと反応して彼を睨んだ。
気の強そうな瞳とは対照的な上気した頬が新鮮だった。
怒っていても綺麗な『女』は見ていて心地がいいものだ、とイヴァンは考えてますます頬が緩んだ。


見惚れながら無意識のうちに指は『彼女』の腰から尻を摘んでいる。
ひきしまっているくせにたっぷりと旨そうな肉の柔媚が指先を抵抗なく食い込ませて弾く。ナサニエルはぎこちなく腰を振った。
指を払おうという意図は明白だが、がっちり押さえ込まれているのでそのなけなしの動きは彼をそそる役にしかたたなかった。
イヴァンは喉の奥で呻いた。

「なあ、おまえ──」

耳朶に囁かれてナサニエルが思わず目を閉じた瞬間、ふっとイヴァンが退いた。
突き飛ばされるように解放された。
ナサニエルは並ぶ本に肩をぶつけ、崩れぬよう必死に棚にしがみついた。
「イヴァン様」
部屋の戸口に侍従が現れ、一瞬で体勢を整えたイヴァンに恭し気に声をかけてくる。
「執務室で国王陛下がお呼びです」
「わかった」
イヴァンは声をかえし、本棚に凭れているナサニエルには一顧だにせず長身を翻させて大股に部屋から出て行った。



イヴァンの背中が扉のむこうに消えると、ナサニエルは震えている我が身に気付いて唇を噛んだ。
一体何が起こったというのだろう──今のは。
王子が女好きだというのは有名な話だが男色の気もあるなどと一度も聞いたことはない。だからわざわざ男装をしているというのに。

……あの、目。

ナサニエルはぶるりと震え、深く息を吐いた。
危険だ、と兄が言ったのを思い出す。あの男は好色なのと同じくらい聡明で、そして主君として戴くには今の王以上に手強い人物になる可能性が高いと。
当主である兄の命に背くつもりはなかったが、それでも自分に科せられた仕事がやっかいなものであることを今更ながらに認識する。
必ずしも殺すとは兄は言わなかった。脅威にならぬよう除き奉る、という表現を使ったはずだ。
脅威。
ナサニエル、いや、ナタリーがさっき彼から感じたのはまさにそれだった。
潜入してまだたったの二週にもならないのだ。
欺き通せないかもしれない。
急がねばならないかもしれない。だが……。

彼女は重い溜め息を漏らしてまっすぐ立ち上がった。
本棚に額を押しあて、目を閉じた。
──イヴァンがすぐに戻ってくる心配はないはずだ。
だから、そのまましばらく動こうとはしなかった。


おわり


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