「まぁ、この糸割符制度っってゆーのは五都市で施行されたわけだが…」
司は、江戸時代についてとうとうと授業を続けている男に見とれていた。
顔はさほどいいわけではない。けれど、さわやかで、明るくて、人をひきつけるものを持っている顔だ。
学生時代スポーツをしていたという体はたしかにしっかりとしまっていて、うらやましい。
「―おい高槻、聞いてるか?」
呼ばれて、司の意識は授業に戻る。聞き逃すほど間抜けではない。
「聞いてまーす」
そらっとぼけたように答える司に、それを確かめる問いが向けられる。
「よし、じゃ糸割符制度が施行された五都市、言ってみろ」
「えーと…江戸、堺、長崎、京都…と、何でしたっけ」
「大阪。うーん。中途半端に聞いてやがるからイジリがいがないな」
男―三宅隆也―の言葉に、教室の空気が緩む。生徒の好意を集めている隆也は、司の視線に気付かない。
気付くはずはない―司は、男子生徒としてその前に座っているのだから―
「じゃーなー、司」
「おう、また月曜な」
放課後の教室に、司は一人残っていた。部活には入っていない。
家に帰っても誰かが待っているわけではない。
ついでに週明けからはテスト期間だ。少し自習でもしようと、司は苦手な数学の問題集を開いた。
一時間、二時間はあっという間に過ぎた。
暗くなり始めた窓外に目をやると、がらりと教室のドアが開く音がした。
「おお、頑張ってんな〜」
隆也だ。司の心臓がはねる。
「あ、先生。そりゃ頑張りますよー。テスト前だし。先生はもう問題できたの?」
敬語とタメ口が混ざる程度には、二人は仲がいい。
「ばっか、お前は人の心配するより自分の心配しろっつーの」
ぽんと、手にした日誌で司の頭をたたく。司は笑いながらあたまをさすって、ふざけてみせる。
「生徒の心配してくれるならさ、問題教えてよ。数学教えろとは言わないから」
「コラ、いくらなんでもそりゃできないっつーの」
ふたたび日誌の背で頭をたたいて、教師の顔で言う。
「くだらないこと考える暇あったら歴史事件のひとつでも覚えろって」
「ちぇー、しょうがない。地道にやるか…と」
机に向き直ろうとした手が消しゴムをはじいてしまい、司は落ちた消しゴムを拾おうと身をかがめた。
隆也の視線はなんとはなしにその動作を追い、ふと目にしてしまう。
「ん〜?お前、怪我でもしてんのか?胸に包帯なんか巻いて」
何気なく言ったはずの一言に、司はびくりと肩をすくめ、表情を凍らせる。
「あ、まー、そんなとこ…です」
「そっか。まぁ怪我には気をつけろよ」
「はい…」
司の頭をぽんぽんとたたく隆也は、気付いていない。けれど、司はおちついていられない。
「あ、じゃあ、そろそろ帰ります…」
「おう。あ、何なら送ってやろうか?」
「いや、そんな…先生テスト前で忙しいんじゃないですか?それに女の子じゃあるまいし…」
逃れようとする意思も伝わらないのかと、司ははがゆい思いをする。隆也は、優しい。
「だからさっきも言ったろ?人の心配より自分の心配しろって。
大体な、テスト問題なんてもんは適当に…」
ひとつ咳払いをする隆也は、にくめない。
「適当って、先生…」
「とにかくだ、あんなもんより生徒の身の安全の方が大事なんだよ。先生にとってはな」
我ながらいいことを言った、と満足げにうなずく隆也を見ると、一人身構えている自分が馬鹿らしくなる。
生徒が大事だ、というせりふをこそばゆく感じながら、司も調子に乗ってみる。
「正直送ってもらうより問題教えてもらうほうが嬉しいんだけど…。
どうも先生が送りたいみたいなんで、送ってください」」
「あのな、お前に問題を教えるということはだ。
テストで良い結果を出すために努力しているほかの生徒を裏切ることになるんだぞ?
悪いがそれだけは頼まれたってできないな」
「わかってますってそれくらい」
日誌でびしっと指され、それに苦笑で返し…結局そのまま、司は隆也の車に乗り込んだ。
助手席に座った司は、ふと隣を見た。こういう角度でこの男を見るのは、初めてかもしれない。
同じ目線で、横顔を。きっとここには…
「先生。ここに座る彼女とかいないんですか?」
自然に言えた、と司は胸をなでおろす。
「彼女〜?んなもん、とうの昔に別れたよ」
忌々しげに言って窓を開け、隆也は煙草をくわえた。
煙が窓に吸い込まれるようにして外に逃げてゆく。
「…お互い職持ってフリーな時間が正反対になっちまってな……自然消滅ってやつかな」
その仕草も、話の内容も、司には遠い。
「そーなんですか…」
けれどその事実は、嬉しい。
「じゃ、ここはしばらく空席ってことですね」
「そうだな〜。教師なんてやってると出会いもなかなか無いし、しばらくはお前みたいに生徒専用かな」
隆也にとっては何気ないその表現が、ひとくくりの中に自分がいることを痛感させる。
司には、少し痛い。
「まぁ、可愛い生徒がいれば寂しくないでしょ?」
窓外に目を移していた司の言葉に、隆也は明るく笑って言う。
「ああ、そうだな。生意気なところも含めて可愛いよ」
司の視線は、窓から離れない。離せない。
きっと、見られてはいけない顔をしている。体温があがった。
「あ、このへんです。ウチあそこなんで」
「お?おお、あれな」
隆也は気付かない。司の家の前に車を止め、また司の心臓を打つ。
「はいよ、お城についたぜ、お姫様」
今度は、顔を背けるわけにもいかなかった。頬をかすかに染めて、司は言葉を返す。
「どーもありがとうございました…冗談にしても気色悪いですから、それ」
「はは。親御さんによろしくな」
笑って、窓を閉めようとする隆也の笑顔が、愛しい。
離れたくない。今日ならきっと、もう少しだけ一緒にいられる。
「…ああ、うち今日両親いないんですよ。先生、夕飯まだですよね?食ってきます?」
俺を拒絶しないで、と司の中で叫ぶ思いがある。隆也はそれには気付かない。気付かないけれど。
「ん?良いのか?なら姫様の手料理とくと拝見いたしましょうかね」
「だーかーらー!そういう冗談はよそでやってください、よそで」
安堵をむくれた表情で押し隠して、司は玄関をくぐる。
隆也はおもしろそうにはいはい、と返事をしながら、それに続いた。
「あ〜……しかし親御さんがいないとなんかきまずいよなぁ…」
隆也をリビングに案内した司は、荷物を置いて隆也に向き直る。
「気まずい、ですか?あ…俺は楽でいいですけどね〜」
家の中で使うあたし、という単語が口からでかかって、慌てて台所に足を向ける。
「まぁテレビでも見ててください。適当になんか作りますから」
言われるままソファに腰をおろした隆也は、テレビをつけニュースを見始める。
「そりゃあお前さんは気楽かもしれんが、
突然親御さんが帰ってきた時に俺はどういう顔すりゃいいのかって事だよ」
「あぁ、そーゆーことだったら問題ないですよ。
オヤジは短期出張中、母さんは昨日から二泊三日の温泉旅行ですから」
司は冷蔵庫をあさりながら言う。家族の話をするうち、思考が家での日常に戻った。
「まったく何考えてんですかねー、娘一人置いて…って、あ… 」
司の動きが止まる。表情が凍る。失言をなかったことにするかのように、慌てて手を動かし始める。
けれど隆也はニュースを見ながら、平然と言い放つ。
「なかなか豪胆なご両親だな。こんな可愛い娘置いて家空けるなんてな」
そこに違和感はない。思わず、司の手元がすべる。
「っいっつぅ…!」
指の皮を切り、鮮やかな赤が滴る。司はそれを口に含んで血を吸い取る。
心臓が不規則な動きをしている。鉄の味を舌に感じながら、落ち着け、と自分に言い聞かせる。
そうだ、耳に入ってくるニュースのキャスターのように。落ち着け。
「ん? おい、大丈夫か?」
隆也が司の側に歩み寄る。 そして。
「指切ったのか? 見せてみろよ」
自然と、司の手を取る。
「せんせっ…」
もう、平然となどしていられない。司の目は不安のためか、大きく見開いている。
「先生、知ってたんですか!?俺が女だって…」
「は? 女?」
興奮気味の司の声と、対照的に落ち着いた隆也の声。
「お前、熱でもあるのか?」
隆也はどこまでも平然としている。興奮した様子の司の額に手を当てて、目を覗き込む。
じっと、見返した司の目に、涙がこみあげる。
隆也の胸が、どきりと鳴った。自分が泣かせたわけではない、はずだ。けれど。
司は乱暴に手を払いのけて、傷の手当てもせずに、料理を再開しようとする。
「…っもう、いいです、大丈夫ですからっ! 」
「っ……おい……」
呆然とする隆也の声に、答える余裕もない。
短い沈黙の間に、隆也の頭の中で何かがつながる。さっと、顔色が変った。
「……なぁ、その、悪いが一つだけ答えてくれるか? あの、さっきは俺が悪かった。すまん 」
頭を下げられたところで、司の心が落ち着くわけではない。
ざわざわと、涙の波を寄せるざわめきは止むどころか激しくなっている。
「…いえ、悪いのは、俺ですから…」
隆也の困惑した表情が見える。彼を困らせたのは自分だ。それも、至極勝手に。
自分に嫌気がさして、司はそれ以上話す気になれなくなった。
「………ごはん、作りますから…」
声は震えたまま、まな板に向き直ろうとした。それを、硬い声が引き止める。
「いや、その前に一つだけ教えてくれ。その、お前、女だってのは……マジなんだな?
隆也の眼差しは、声と同じく真剣だ。その眼差しに、はぐらかしは通用しない。
「…はい…。今まで、嘘ついててすいませんでした…」
はぐらかせない代わりに、司は頭を下げた。視線から逃れた。
今までは伝えたくて仕方なかった自分を、今は伝えたくなくて。
けれどざわざわとした波はもう静まりそうにはなくて、言葉だけが口をついて出てくる。
顔を上げることは出来ない。
「…だから、先生、わかっててあんな冗談言ったのかと思ったら、悲しくて…」
あんな冗談。自分を男と偽っている…女である司には、辛かった。
「俺、からかわれてるのかなって…」
そんな悪意がないことは、少し考えればわかるはずだった。けれどそう感じてしまった。
特別な相手だからこそ、ざわざわと、ざわざわと胸が騒いでしまって。かすかに、肩が震える。
その肩に、隆也の手が置かれる。
「いや……お前が悪いんじゃない。
知らなかった事とはいえ、生徒を悲しませるようじゃ教師失格だな…… 」
深く頭を下げた隆也に、すぐには言葉が返せない。 ただ、首を横に振る。
「…いえ、俺が勝手に…嘘ついてたくせに、一人でドキドキしたり怒ったりしただけで…」
思い返せば思い返すほど、自分の一人相撲だ。隆也には何の非もない。なのに頭を下げさせて。
「…っ」
ぽろぽろと涙がこぼれる。これ以上、困らせたくはない。司は無理に笑ってみせる。
「…はは…女だってわかってたら、いくらなんでも親がいないのにうちにあがったりしませんよね」
そうだ、このまま終らせよう。そう思ったのに。
「そんなことにも気付かないで、俺…ほんと、バカみたい…」
涙が止まらない。頬を流れる涙を手の甲でぬぐう。
「まあ、なんだ……お前にも色々事情があるだろうから、深くは聞かないよ」
肩に乗っていた手が、ポンと優しく頭を撫でる。その優しさが、余計に泣かせるともしらないで。
「…ありがとうございます…」
頬を赤くして、司は思う。
きっと自分は、この人への思いを断ち切れない。それは絶望に似た、けれど喜ばしい感情だった。
そう思ったとき、隆也が口を開いた。自分でも不思議な台詞が口を付いて出てくる。
「ただな、今だから言えるが、可愛いってのはホントだ。全部ひっくるめてな」
照れ隠しに、咳払いまでして。
「…っ…先生、それ、ずるいです…」
司はますます頬を朱に染めて、上目遣いに隆也を見やる。
仕草も声も、隆也の知らない、少女のそれだ。
「お、お前だってズルいぞ……。そんな目で見ないでくれ……」
教師としての皮はずるずると剥がれ落ち、女の子を前にしてただ狼狽するしかない男がそこにいる。
「だってそんな…可愛いとか、言われたら…」
耳まで真っ赤に染めてうつむいた司の口からは、か弱い声が漏れる。
「…口説き文句じゃないですか…」
―あぁそうだ、口説き文句だったんだ。
隆也の中で、すべてがつながった。そうだ、生徒としてではなく。ただ目の前にいる少女を。
「……イヤか……?」
自分でも不思議なほど、落ち着いた声だった。
ぴくり、と司が身を震わせる。
答えを待つのがもどかしい。
俯いたまま、かすかに震える唇から…決して聞き逃してはならない言葉が発せられる。
「…イヤじゃない、です…」
おずおずと顔を上げ、涙で赤く染まった目で見つめ返した。