風に流れるのは緊迫、身体の内部から聞こえるのは鼓動、額から流れるのは冷たい汗。リナリーは目の前にいる10体ほどのアクマを睨みつける。全てレベル1だが油断は出来ない。相手もこちらの様子を見ているのか動こうとしないで、ただそこではリナリーとアクマの睨み合いが展開されていた。今回の任務のパートナーであるアレンは、この任務地に1体だけいたレベル2と応戦している。レベル2とレベル1の差は大きい、疲弊したアレンになるべく迷惑をかけないように、早めに状況を打破しなくては――― そうは思うものの、なかなか対アクマ武器を装備した足は動かない。寄生型のアレン達とは違い、装備型のリナリーは弾丸を受けたらそれで終わりだ。毒が全身を駆け巡り、身体が砕け散る。今ここでそんな運命を辿るわけにはいかなかった。 さて、どうしたものかと再び思案を巡らす。10体ともなると隙も見当たらないし少しでも動くとあの無数の銃口から弾丸が放たれるだろう。胡蝶のように舞う、と形容されているダークブーツでも、あれだけの銃口から逃れるのはこの距離がぎりぎり程度。少しでも近づけば弾丸から逃れるのは不可能だろう。今ここで攻撃されたら、アクマは撃つ前に銃口を全てこちらに向けるからその隙をついて逃げられるし、それから攻撃を繰り出すことも可能。だが彼らはリナリーが動くのを待っているらしくぴくりとも動かない。 汗が頬を伝い、ぱたりと地面に落ちた。いっそ一歩引いて状況を見るのも手だが、後ろに引いただけでもそれは隙となる。アクマはその途端弾丸を放つだろう、その一瞬の隙に逃げられるだろうか。 そのとき。 「リナリー!!」 心の奥底で待ち焦がれていたその声がして、目の前のアクマを金色の杭が襲った。驚いて一瞬だけ身が固まったがすぐに持ち直して、怯んだアクマの群れの中に跳躍する。一瞬間を置いて銃口が向けられるが遅い。 「はぁぁあぁあっ!」 声を上げながら思い切り踵を落とす。アクマは真っ二つに砕け中から弾丸の元となる血が飛び散り、その白い脚に紅がこびりついた。そして最後に2体だけが取り残される。勢いづいたそのまま破壊しようとリナリーが残ったアクマを睨みつけた、そのとき。 「(……………え、)」 「リナリーッ!!」 その光景に目を奪われて、アクマの銃口が向けられているのに気付かなかった。悲痛なアレンの叫び、迫り来る弾丸。その動きが、嫌になるくらいスローモーションに見えた。身体が動かない、これは恐怖? 否、言葉では表せない、不思議な感情が全身を包み込んでいる。動かない、動けない、この弾丸が、私を、貫くのかしら。そんなことまで冷静に考えている自分がいた。毒が回って、砕けて、砂になって、跡形も残さず、私は、この世界から、消えるのかしら。音が聞こえない、スローで無音な世界。死んでいった人はみんな、こんな不思議な世界の中にいたのだろうか。 瞬間、目の前が黒い影で覆われた。耳に空気の振動が伝わり、速度が戻る。だがその代わりに前が見えない。それでも全身を包むのは言葉で表せない不思議な感情なんかじゃない、胸の奥から温まるような安堵を伴う愛しい人の温もり。そして耳元で、銃を乱射する音が響く。その向こうで何か硬いものが砕ける音が、聞こえた。 とっ、と軽い音を立ててリナリーを抱いたアレンは地に下りる。そして未だに呆然としているリナリーの顔を覗き込んだ。急に戦闘放棄をしたことを怒られるかと思ったが、アレンはひどく心配そうな表情をしている。 「……リナリー」 「…なぁ、に」 「どうしたんですか、いきなり凍ったように動かなくなって……リナリーらしくない」 表情と同じ心配そうな声音に、申し訳なさを感じた。嗚呼、私は、戦闘中だというのに、あの空気の中だと言うのに、固まってしまったのだ。結局レベル2戦で疲弊していたアレンに更なる疲労を重ねさせることになってしまった。全て、自分の、力不足のせいで。 「…ごめんね、アレンくん……結局レベル2もレベル1も、アレンくんに任せちゃった」 「それは構わないですよ、それよりリナリーのことです。……さっき遭ったレベル2アクマの特殊能力か何か、ですか?」 「ううん、違うの………あの、」 リナリーはぎゅっと両手を握り締めた。 今でも瞼の裏に蘇る、悲痛な魂のカタチ。アクマの無表情な顔の隣に、ゆらゆらと泣いていた、魂。それを見た瞬間に、動けなくなった。アクマは悲しんでいる、泣いている、といっていたアレンの言葉の真意を、目の当たりにしてしまった。アレンは普段からこんな風景を見ていたのだ、それも義父の呪いを受けた3年前から。 16歳の自分でさえ泣いている魂を破壊するという罪悪感にこっちが壊れてしまいそうになるのに、彼はそれに修行時代から触れていたのだ。たったの12歳の、頃から。それを思うとひどく情けなくなる。 「……アレンくん…」 「はい?」 「アクマは、どうして、泣いているの?」 そう素直に問いかければ、アレンはハッとした表情になった。その途端にリナリーは過ちに気付き、罪悪感に見舞われる。これではアレンのその左眼のせいで自分がこうなったと言っているようなものだ、彼は人一倍自己犠牲が激しいのに。 だがアレンは優しく微笑んだ、まるでリナリーを安心させるかのように。その笑顔にハッとして、リナリーは彼の銀灰色の瞳を見つめる。 「……あなたが、泣いてるからですよ」 「…え?」 「リナリーは心のどこかで、悲劇を主成分の一つとして作られているアクマの存在を哀しんでいるでしょう? それがアクマにも伝わるんです。もうまともな人間ではないけれど、その存在を哀しんでくれる人がいる―――それは、アクマを救済するものの一つなんです。アクマを憐れむ心」 嗚呼、なんて嘘の上手いひとだろう。 (アクマの涙は自分をアクマにしてしまった人に対する愛だと言っていたのに) (それを知っていたのに聞いた私も、同じくらい嘘つきなのだけれど) それでも胸の奥に暖かさを届けるのには十分な嘘。それは柔らかな現実。なんて優しい、嘘の上手いひと。 「………ずるい、ね」 「え?」 「なんでもない」 目の前にある泥と砂に汚れた団服をきゅっと握って、その肩に顔を埋める。アレンは何も言わず、戸惑ったような手のひらでリナリーの背中をやさしく叩いた。目の前がじわりと滲み、灰の世界で何も見えなくなる。優しさが痛すぎた。 嗚呼、私の流すこの涙にすらも、救われてくれる存在がこの世界に本当にあるのでしょうか。
(07.08.30) (8月もそろそろ終焉を迎えます、皆さんで精一杯アレリナっていきましょう!) Photo Material→戦場に猫 |