なにも、おもい、だせない。 ノアを発動していないままの白い掌をじっと見つめる。狭い視界に入る赤い髪が目障りだ。 掌は冷たいまま、あたたかくなることをしらない。少し前まではずっと手に残っていた彼女の感触もすべて掻き消えて。ぬけるように白く滑らかな肌、さらりさらりと流れる髪、少しだけ乾燥していた薔薇色の唇、言葉にはできるのに、なぜか、指先にその感覚はもう残っていなくて。全身を気持ちの悪い感覚が駆け巡る。覚えているのに、なにも、おもい、だせない。 (ブックマン、失格、さ……) 教団を抜け出し、ノアになったのはほんの少し前。元々ブックマンは裏歴史を記録するためにログを転々とするものであり、教団員は一時的な仲間でしかなかったのだから、裏切りという表現は少し違うだろう。望んでノアになったんじゃない、身体の奥底に隠れていた、ノアの遺伝子が目覚め始めたから。出来るだけ長くあの教団にいたいというのが本音だったけれど(誰にも打ち明けることなく、出てきてしまったけれど)ノアについた以上、エクソシストを殲滅するために世界の終焉を迎えるために戦わなければならない。もちろん、歴史の記録をとりながら。ラビ、って、いつも笑顔で呼んでくれた彼女とも。 記録を取らなきゃならないのに、全てのことを記録しなければならないのに、少し前まで触れていた彼女の感触が思い出せない。欠片さえも掌に残っていない、感覚を的確に感じられるのは皮膚だけなのに。同じように少し前まで触れていた、今は忌むべき槌や団服、時の破壊者と謳われた少年や胸に不思議な字を持つ少年の感触はまだ鮮明に覚えているのに、何故か彼女の感覚だけ、抉り出されたように失われている。きもちわるい。 ラビは開いた手をぎゅっと握り締め、掛けてあった上着を着込む。そして部屋の扉を開け、今にも雨や雪が降り出しそうな鉛色の空の下へ歩みだした。 彼女の感覚をもう一度、この肌に刻むために。 月が光る真夜中、眠れない少女はベッドの中で蹲っていた。 最近、よく眠れない。日々疲れが溜まっているのだから眠らなきゃ、とは思うのだけれど、何時間目を瞑っていても眠れなくて。原因ははっきりしている、それでもそれを解決する手立てはどこにもなくて。 目の隈も最近ひどく、兄のコムイや科学班のリーバー達だけでなくアレンや神田からも(神田の表現は少しばかり歪んでいるけれど)よく休め、と言われる。そうしたいのはやまやまだけれど、身体がいうことを聞かない。それに目の隈がひどいのは科学班のメンバーや、アレンや神田も一緒なのだ。エクソシストのふたりは、恐らく自分と同じ理由で。 「ら、び……」 呟いた言葉も掠れて、自分の耳にすらよく聞き取れない。 彼はブックマンだということはよく知っている、はずだった。完全な仲間ではない、近いうち離れてしまうということも理解していたはずなのに。こんなになるくらいわたしは彼を愛してしまっていた、のだ。 「呼んださ?」 聞こえるはずのない声が聞こえて、リナリーは目をぱっと開いて声の聞こえたほうを勢いよくみあげた。 「らっ……」 「あ、驚かせちゃったか。ごめんさ、深夜に女の子の部屋に忍び込むのはマナー違反だよな」 いつの間にか開いていた窓、その桟に座っていたのは紛れもないラビだった。彼女と、彼女の仲間の睡眠不足の原因である彼が、憎らしいまでの笑みを浮かべてそこにいる。リナリーは少しの間だけ瞳を潤ませて彼を食い入るように見つめていたが、すぐはっと気付いて立ち上がり、ベッドの脇においてあるダークブーツを履こうとした。だが急な動きに疲れが溜まりにたまっている身体は追いつけなくて、ふらりと強い眩暈に襲われる。倒れる、と思った瞬間、力強い腕に抱きとめられた。まだちかちかと奇妙な色に点滅する視界で腕の主を探ると、いつの間に移動したのかまたラビが視界の中で笑っていた。それに気付いた瞬間くらくらする頭を振り、リナリーはその腕から逃れようと身をよじる。 「離して! あなたは私を殺しにっ……ん、ぅ……ッ」 言い終わらないうちから唇を無理やり重ねられる。角度をどんどん変えて、つよく、つよく。唇を無理やりこじ開けられて、彼の舌が口内に忍び込んできた。甘く苦しい感覚が全身を駆け巡り、そして、ふたりの舌の先端が、一瞬、触れる。途端、 「つ、っ」 ラビが眉間に皺を寄せて、唇を離した。痺れる感覚を振り払い、リナリーが彼の舌に噛み付いたのだ。息を乱し、疲労と酸欠で震えながらもリナリーはラビを睨みつける。そんな彼女を見てラビはまた、痛みを誤魔化して笑った。そして華奢な彼女のあごをとり、人差し指で先ほど重ねた彼女の唇に触れる。 「騒いだら、誰かが来ちゃうデショ」 「っ、来たほうがいいわよ、戦力が多くて損はないものっ」 「オレは別にリナリーを殺しにきたわけじゃないさ」 「信じられるわけ……っ」 リナリーが言葉を詰まらせた瞬間、ラビがまたぐいとリナリーに顔を寄せた。さっきの感触が蘇り、思わずリナリーは強く目を瞑った。だがラビは唇が触れるか触れ合わないか、そんな微妙な境界線でピタリと動きを止め、その唇を開く。 「しんじて」 「、っ」 動揺したような怯えたようなリナリーの瞳を見るために、ラビは顔を離した。揺れる闇の瞳の中に、にこにこと笑っている自分が見える。そっと、その頬に指を乗せた。それだけでびくりと華奢な身体が震える。そこから指を滑らせて髪に触れ、さらさらと流れる髪の感触を確かめる。嗚呼、これだ、この愛しい愛しい彼女の感覚。やっと、やっと、思い出せた。 「あいしてるさ、リナリー」 「っ、ら、び」 「あいしてる」 髪をなぞっていた指が、またリナリーの頬に戻る。だがリナリーはその手を軽く振り払った。ラビの隻眼が驚愕に揺れる。 「知らない……ッ」 「リナリ、」 「出ていってよ、ノア……ッ!!」 ぼろぼろと、険しく歪められた漆黒の瞳から涙が零れる。説得力はあまりない、だがラビは少しの間その瞳を見つめ、そして立ち上がった。 「わかったさ」 「……っ」 「リナリーに会いたいだけだったから。急にごめんさ、リナリー」 それじゃ、と最後までラビは笑って、夜の闇に消えていった。 一人取り残されたリナリーは、ただ手をぎゅっと握って唇を噛み締める。 あんなこと言いたいんじゃなかったのに。私もだよ、って、本当の気持ちを伝えられたら良かったのに。それでも本当の気持ちを言えば壊れてしまう気がして、何かが壊れてしまうような気がして。それがひどく、怖くて。 部屋にもどったラビは、上着を脱いだ後にまた自分の掌を見つめた。 もう、冷え切っている。ほんの数分前に触れたはずの彼女の感覚が、まるで潮のように引いてしまっている。それも満ちることのない、潮のように。 消えたぬくもり、熱、それなのに消えない愛しさ、恋しさ。彼女の感覚が引いてしまった代わりに、もどかしい思いが全身に満ちていく。 (もしもう一度やり直せるなら、) 伝う涙、消えゆく感覚、消えない感覚。 同じようで違う空の下で、ふたりはただふたりを想う。 (もっと上手に生きられますように。) (もっと素直に愛し合うことができますように、) (07.12.16) |