うまく整えられない自分の呼吸音に混じって、ぴしゃ、ぴしゃと水音が足元から聞こえてくる。さすがに教団の7階から外まで傘を差した状態で全速力は無理があった、体力には自信があるつもりだが目的の場所がやっと見えてきた今はもう足がもつれて下手すると転びそうだ。もどかしい思いでいっぱいになる、こんなことなら最初もう少しスピードを緩めていけばよかった。やわらかな雨の音が、耳を通り抜けていく。 雨自体はそこまで強くないものの、傘を差しているという不安定な状況で走ったリナリーはもうすっかり濡れていた。水気を含んだ髪と服が肌に張りついて気持ちが悪い。足の限界を感じたリナリーは走るのをやめ、呼吸を整えながらゆっくりと歩き出した。だが早く彼のところへ行かなきゃという気持ちは落ち着かなくて、そのせいで上手に呼吸をすることが出来ない。早く行かなければならない、この春雨の中、一人庭園の中に佇んでいる彼のところへ。先日任務から帰ってきたばかりで疲労もまだ残っているだろうに。暖かくなってきたとはいえこんな雨に降られたら風邪をひいてしまうに決まっている。 だがリナリーは、何故彼がそんなことをしているのか知っていた。彼が立っていた場所は、あの日と同じ、紫の花が咲く花壇の隣。そして今日は、4月7日。あんな話を聞いた数日後なのだから、気付ければよかったのに。むしろ何故気付けなかったのか、そんな自分に苛々が募る。悔しくて悔しくて仕方なくて、鼻の奥がつんと痛んだがぐっとそれを押しとどめた。 リナリーはゆっくりとアレンに近づき、あと10歩、というところで思わず足を止める。 このひとは、だれだろう。 銀色の髪、銀色の瞳、白い肌に緋色の傷。それは確かによく知るアレンだったのだけれど、なにかが違った。義父を喪ったことの悲哀か、しあわせだった過去を思い出す懐古か、それによる喜悦か、義父をアクマにしかけた自分への怒りか、それとも無か。どれも当てはまるようなどれも当てはまらないような、そんな色を瞳に宿して。灯る光は一体何を見ているのか。花か、義父か、どこか遠くの魂か。 彼は、マナを愛する少年。 エクソシストとしてのアレンとは、同一にして異なるもの。 雨のせいか、義父に対する愛のせいか。いつもより端整に思える横顔をリナリーはじっと見つめていたが、しばらくして意を決したようにアレンに歩み寄った。ぬかるむ泥に足を取られないよう気をつけながら、ゆっくり、ゆっくりと。そして触れ合うくらいにまで近寄って、そうっと首を曲げる。それでもアレンはリナリーが隣にいることに気付かないようだった。 リナリーは少しだけ背伸びをして、アレンの唇に自らの唇を、重ねる。 ようやくアレンの瞳が固定のものを捉えた。目を驚いたように見開いて、微笑むリナリーの顔を凝視している。銀色の瞳に宿る光が戸惑いに揺らぎ、それでもちゃんとリナリーを見据えていた。 ごめんなさいふたりの世界を壊してしまって、それでも、気付いてほしかったの知ってほしかったの、 「り、なり?」 「よかった、やっぱりアレンくんだ」 リナリーは意味深な台詞を呟くように言い、手袋に包まれているアレンの左手を取った。アレンが濡れないように傘をアレンの頭上を覆うように差して、リナリーは優しく、自分が出来る限り優しい笑顔で微笑む。 「こんな日に外に出てると、風邪ひいちゃうよ。ね、だから、帰ろう?」 みんな、あなたを待ってるから。 アレンはしばらく目を見開いたままだったが、少し経つとぎこちなく笑って、頷いた。リナリーも笑うとふたりでひとつの傘を差し、下がった体温を分け合うかのように寄り添ったまま歩き出す。 「……ごめんなさい」 ぼそりと呟けば、アレンはちらりとリナリーを見たが空耳だと思ったのか何も言わなかった。何か言われたらそれはそれで、なんて返せば良いのかわからないけれど。 ごめんなさいふたりの世界を壊してしまって、それでも、気付いてほしかったの知ってほしかったの、あなたの帰る場所はひとつじゃない。ここにもあるよ、あなたを愛しているひとはここにもいるよ、って、 (08.04.07) (Happy birthday Dear 桜水緒さん!) |