『ひゃく数えたらね、教団の庭園の門の前まで来て。絶対よ!』 そういってリナリーはまるで向日葵のような笑顔を神田とラビに残し、全速力で駆けていった。 「はちじゅー、ななー」 「………はちじゅー、はち」 そして神田とラビは、2つも年下のリナリーに言われたことを素直にやっている。体の大きい大人が闊歩する教団の片隅で、二人は秒を数えていた。そんな小さな二人を優しい微笑を浮かべて見守る大人もいれば、無視して歩き去る大人もいる。だが二人にはそんなことどうでも良くて、ただリナリーから預かった任務を遂行するだけ。命を落とす危険なんて全くない、この黒の教団には似合わぬ小さな任務。それでも神田とラビの二人には、とても重要で大切なことなのだ。 妹のように想っている彼女からの、初めての任務。 リナリーは我侭を言わないし頼み事も滅多にしない。そんなリナリーから、初めてそんなお願いをされたのだ。今叶えなくていつ叶えろというのか、彼女の小さなお願いを。 だが短気な神田には既に限界が訪れているらしく、一秒数えるごとに舌打ちが聞こえる。隣で神田と交互に数えているラビは、視線だけでまぁまぁと宥める。それでも返ってくるのは鋭い眼光のみだ。さらに神田が数えるスピードがどんどん遅くなっている気がする。実際ならもう百秒などとっくに過ぎているのかもしれない。 「きゅーじゅー、ななー」 「……………きゅーじゅー、はち」 「きゅうじゅう、きゅう」 「ひゃく」 百のカウントだけやけに早く数えた神田は、ひゃく、の「く」を言い終わるか言い終わらないかのうちに教団の門の方向へ走り出した。遅れを取ったラビも慌てて神田のあとを追いかける。途中で人にぶつかりそうになりながらも、ラビは一歩手前を走る神田に問いかけた。 「なーなーユウ、庭園に何があると思う?」 「知るかよ」 神田はそれを軽くあしらった。ラビはその反応にぶぅと不機嫌そうに頬を膨らませるが、気付いているのかいないのか神田はそれすらも無視する。 ラビは速度を上げて神田の隣に並んだ。神田は横目でラビを見やると、ふんと鼻を鳴らしてまたラビを突き放した。対アクマ武器のタイプ上、足は神田の方が鍛えてある。まぁイノセンスどうのこうのというより、神田の場合はただ単に負けず嫌いだから、というのが正しいのだが。また抜かされたラビは追いつこうと足を懸命に動かす。また神田がラビを突き放す、そしてラビが追いつく。人や障害物にぶつかりそうになったりぶつかったりしながら、二人は激しい追いかけっこをしていた。途中で怒られそうになったりもしたがそこは逃げるが勝ちとでも言うように無視して庭園へダッシュする。あとからキツい説教を食らう羽目になることは安易に予想できたが、それでも構わなかった。とにかく庭園へつくことと、ライバルであるお互いを抜かすのが先決で。抜かれて抜かされて、その繰り返しをしていたら、庭園の門に着いたときは二人とも汗が滝のように流れ出していた。 「ちょ、ユウってば本当……負けず嫌い………」 「てめ、に、言われたかねえよ」 二人で荒い息を吐きながら、門に寄りかかって息を整える。冷たい木の感触が心地よい。ひやりとした感覚が後頭部から、首の後ろから、背中から伝わってきて、体中の熱を冷ましていく。 だがそのとき不意に門が開いた。庭園の門は内側から引くタイプのものだ。寄りかかっていた神田とラビはその門の動きにつられてどさっと後ろに倒れこんだ。途端熱を吸収していたコンクリートの上に寝転がる体勢になってしまい、二人で情けない声を上げて慌てて立ち上がる。熱のせいで背中がひりひりと痛んだ。 何故開いたのかと二人が門の向こう側を見れば、そこにいるのは驚いたようにきょとんとした表情の、リナリー。どうやら二人を迎えようと思って開けたらそれが裏目に出てしまったらしい。だが神田とラビは未だに痛む背中の感覚を無視した。 「で、なんで庭園に呼んだんさ?」 ラビが笑顔で問いかけると、リナリーの顔にぱっと花が咲く。そしてたたたっと軽快に神田とラビに駆け寄って、ラビよりも近くにいた神田の手をぎゅっと握った。神田が戸惑ったような表情を浮かべるがリナリーは笑顔のままで、その小さく細い人差し指でラビの手のひらを指差す。 「ほら、神田はラビの手を繋ぐの!」 「はぁ!?」 「はーやーくーっ!」 「な、何で俺がそんなこと……!」 「しょーがねえさ、ユウはっ」 顔を妙に赤くしている神田の手を、ラビの方からぎゅっと繋いだ。人と触れ合うことにいつまでも慣れない神田は慌てて振りほどこうとするが、ラビの手は力強くて離れない。リナリーはニコニコとその様子を見ながら、自分が先頭を切って歩き出す。最終的に神田もあきらめ、大人しく右手をリナリーに引かれ、左手をラビに握られながらリナリーのあとを追った。ラビも楽しそうな表情で、三人繋がったまま庭園の奥へと入っていく。リナリーは上機嫌で、よくコムイに歌ってもらっている中国の童謡を口ずさんでいた。ラビもその声にのせて歌うが、メロディや歌詞が全くわからない神田は無言のままその歌声を聞いていた。 庭園は迷路のようになっている。この時期にはどの花壇にも色鮮やかな花が咲き乱れていて、黒と白で構成された教団内部とは別世界のようだった。いったい誰が手入れしているのか、雑草も完璧に抜かれ、枯れかけた花なども全くなかった。その花壇の隙間の道をぐいぐいと神田の手を引きながら、リナリーは進む。 漆黒のツインテール、漆黒のポニーテール、紅のくせ毛。それは鮮やかな夏の花の中で、生き生きと風に揺れて。 しばらく進むとリナリーがぴたりと足を止めた。神田も同時に足を止めるが周りの花に魅入っていたラビは気付かずにそのまま神田にぶつかる。瞬間鋭利な刃物のような神田の眼光で睨みつけられ、ラビの血の気がさっと引いた。そんな二人のこともニコニコと笑顔を浮かべて見守るリナリー。そして神田がラビから視線をはずした時、ばっと両手を開いた。 「これをね、見せたかったの!」 そういったリナリーの後ろにあるのは、大きな向日葵がたくさん咲いている花壇だった。 太陽を向いて咲くといわれる向日葵。だがその向日葵自体が太陽のように大きく鮮やかで、神田もラビも一瞬言葉を失くした。凛とその土に根を貼り、太陽を見つめる姿は太陽に焦がれるというよりも挑戦状を送っているようだ。雲ひとつない青い夏空に、その向日葵はとてもよく似合っていて。まるで手を伸ばしたら届く、第二の太陽のようだ。 「ねえ、向日葵の花言葉知ってる?」 「えーっと……確か『あなたを見つめています』とかじゃなかったっけか」 ラビが記憶を手繰り寄せるようにして言った。 向日葵は太陽に恋焦がれた海の精クリュティエの姿。だが見向きもしてもらえず、悲しみにくれたクリュティエは九日間太陽を見つめた。その間に口にしたのは、自分の涙と冷たい露のみ。そしてとうとうクリュティエは、その地に根を張り向日葵となってしまった……。そんな哀しい恋の物語からついた花言葉。 「そうそう。だから、私もこの向日葵みたいに、神田とラビを見つめているからね! 二人が危なくなったら私がすぐに駆けつけられるように!」 笑顔で言ったリナリーにラビも笑顔を返し、神田は照れくさそうに明後日の方向をぷいと向いた。 「オレもさ! リナリーとユウのこと、ずっと見つめてる。二人のこと守り通すさ」 「………てめーらに守られるなんて真似はしねェよ、逆にお前らに貸し作ってやる」 素直じゃない神田に、リナリーとラビは顔を見合わせ声を上げて笑った。途端神田は怒りの形相で(ただし頬は朱に染まっている)二人を睨みつける。そして赤い頬のまま帯刀していた六幻を抜き、照れ隠しに二人を追いかけた。ラビとリナリーは笑い騒ぎながらその攻撃を避ける。 夏の青い青い空の下、三人の明るい騒ぎ声が、太陽とそして向日葵の下で響いていた。 * * * 「懐かしいさね、そんなこともあったなー」 月日は流れ、すっかり大人と同じ体つきになったラビと神田は、あの日と同じ向日葵の花壇にそっと腰掛けていた。ラビはジェリーからもらった棒つきの小さい飴を舐めながら、そっと後ろの向日葵の茎を撫ぜる。神田は無関心そうにただぼうっと空を見上げていた。 「見つめている、ってただ見守ってるって意味だと思ってたんだよな。今だったら恥ずかしくてそんなこと言えねェさ。若かったんさね、オレらも」 「………………で、お前は」 今まで黙っていた神田が声を上げる。その青みを帯びた漆黒の鋭い瞳で見つめられ、ラビは飴を舐めていた舌をとめた(といっても口の中のことだから表には見えないのだが)。 「あいつを今でも見つめていたいと思ってるのか?」 さらり、と優しい夏の風が二人の髪を揺らして過ぎ去る。軽く汗をかいた体にはそんな風がとても心地よい。神田の瞳は欠片も揺れない。ラビの翠の瞳も、その神田の瞳を見つめていた。蒼の瞳にラビが映り、翠の瞳に神田が映る。風が花や木を揺らす音しか聞こえない静かな夏の空間。 最初に目線をそらしたのはラビだった。快晴の空を見上げ、透き通った水色の飴を口から出して小さく頷く。 「うん。そうさ。………ユウも、なんだろ?」 神田はその応答の変わりに、フン、と鼻を鳴らした。それが肯定の意味を持つことをラビは知っている。だよな、とラビは口の中で呟き、また飴を口にくわえた。その途端。 「ラービー! かーんだー!!」 鈴の鳴るような澄んだ声が、二人の名を呼んだ。反射的にそちらに目を向けると、こちらに向かってくる黒い団服を着た少女。つまり予想通り、リナリー。ここは待ち合わせ場所なのだ。幼い頃に向日葵について話して、2対1の鬼ごっこをした場所に、あの頃と同じ3人で。 「ごめんね、仕事がなかなか片付かなくて…」 「大丈夫大丈夫、気にすんなさ。で、リナリー。早速本題だけど、この向日葵覚えてる?」 ラビがぽんぽんと後ろの向日葵の茎をたたきながら言えば、リナリーはその口元に優しい笑みを浮かべる。そしてリナリーもその茎にそっと手を沿え、懐かしむように撫ぜた。 「覚えてるよ。懐かしいな、あの時はまだ小さくて、言葉の意味もあんまり理解できてなくて…」 「この向日葵みたいに神田とラビを見つめているからね! って、笑顔で言ってたよなぁリナリー」 「もう、そんなに細かいこと思い出さなくてもいいのに! あの時はちっちゃかったの!!」 途端に顔を赤くして恥ずかしげにぶんぶんと手を振るリナリーに、ラビは声を上げて笑った。神田は何も言わずに聞いているだけだが、きっと考えていることはラビと一緒だろう。 それじゃ 今は? ラビは土の上に落ちていた一枚の向日葵の花びらを手に取ると、リナリーの髪にはらりと落とした。そのラビの突発的な行動に、リナリーは、わ、と小さく驚いたような声を上げる。その花びらは風にひらひらと揺られながら、リナリーの漆黒の艶やかな髪にそっと落ちた。 疑問符を浮かべながらラビを見上げるリナリーに、ラビは明るい笑顔を見せる。 「向日葵の花言葉って、他にもいろいろあんの知ってる?」 「ううん……あの頃は花言葉が好きで色々調べてたんだけど、もう忘れちゃったな」 「そか。あのな、」 先を続けようとしたラビの言葉は、静かに座っていた神田の行動によって遮られた。神田は咲き誇る向日葵から一枚だけ花びらを千切り、ラビと同じようにリナリーの髪の上に落とす。 「………向日葵の言葉が、似合う、お前に」 それだけぼそりと呟いて、神田はついと明後日の方向を向いた。ラビが横から顔を覗けば、その頬と耳は赤くなっている。それは暑いからではないだろう。ラビはくすり、と二人にもわからないような小さな声で笑った。 二人揃っての訳のわからない行動に、リナリーは首を傾げながら疑問符を頭の上に浮かべている。そんなリナリーがラビと神田に何事か問おうと口を開きかけたその時、ジリリリリとリナリーの隣を飛んでいたゴーレムが空気を読まない音を鳴らした。リナリーは慌てて回線を繋ぐ。 「もしもし?」 『おう、リナリー! オレだ、リーバー。室長が逃走した! 逃げ場所は特定できてないから、探すの手伝ってもらえるか? 見つけたら研究室連れ戻してくれ!』 「また!? わかった、今行くねっ」 ガチャン、という電話を切る音がリナリーのゴーレムから聞こえた。リナリーは申し訳なさそうな、そして残念そうな表情で口を開く。 「ごめんね、あんまり話できなかったね……」 「大丈夫、また今度にすればいいさ。コムイ捜索頑張れな!」 「ありがとう! 神田、さっきの言葉の意味あとで教えてねっ」 「知るか」 リナリーはぺこぺこと謝りながら、その長い足で地を蹴り教団の中の方へ走っていった。あとに取り残されたのは、神田とラビと、大輪の向日葵だけ。太陽は少しだけ西の方に傾いている。ラビは少しだけ残っていた飴をがり、と噛み砕き、その棒を向日葵の隣の土に突き刺した。そしてぴょんと座っていた花壇から立ち上がり、振り返って神田を見た。 「競争しない? 今度は賞品付き。ゴールはリナリーのところで、勝ったほうがリナリーと一緒に夕飯を食べる、負けたほうは一番遠い席に座るってことでどうさ?」 「ハッ、上等じゃねェか。あの時優位だったのは俺だぞ」 「あの時と今は違うさー。それじゃ、百数えてからな」 「ああ」 いーち、にーい、とあの頃とは違う低く響く声で、あの頃と同じように交互に二人は秒を数える。今度はリナリーからもらった任務じゃなく、二人で立てた小さな任務。目指す場所は庭園じゃなく、教団という籠の中を自由に飛び回る黒の胡蝶姫。 さあハートのクイーンと共にワルツを踊るのは、赤いダイヤの騎士か黒いスペードの騎士か。 それはひゃく数えたあと、に。 “熱愛”なんていう言葉は恥ずかしくてまだ君には贈れない。この気持ちを“愛慕”と表すのもきっと違うだろう、だってきっと僕らが君に抱いているのは『恋慕』だから。 だから僕らが恋い慕う君へ、“輝き”の言葉を捧げるよ。僕らを照らす太陽のような君へ。
(07.06.08) |