「兄さん」 その声に導かれて、書類と格闘していたコムイは反射的に顔を上げた。目に入るのは自分のものとよく似た黒い髪と、自分のものと正反対な色をしたエクソシストの団服。リナリーは両手で持ったトレイにコーヒーカップを二つ乗せ、少し照れたような曖昧な笑みをその整ったアジア系の顔に浮かべている。 書類や資料などでひどく散らかった科学班研究室は、二人のほかに誰も居ない。しん、と静まり返り、響くのは時計が秒針を刻む音だけ。ちく、たく、と静寂の中で耳に届くその音は何故だかとても滑稽な音のように思える。時計の針とカレンダーの数値が指し示す今は、6月13日の午前2時。 「隣に座っても、いい? 邪魔にならない?」 「ああ、大丈夫だよ」 そう笑顔を返すとリナリーはぱっと大輪の花が花開いたような笑顔になり、コムイの机の上にある資料を適当に整理し、そこにトレイを置く。カタン、という音がまた秒針とは別な音として広い研究室に響き渡った。コムイの鼻をコーヒーの苦く優しいカフェインの香りがくすぐる。 リナリーは一番近いリーバーの椅子を勝手に拝借し、コムイの隣に持ってきて座った。そしてそっと甘えるように、ころんとコムイの肩に頭をのせる。 「ねえ、兄さん。今日が何の日だか覚えている?」 「今日……? 6月13日………、ぁ」 自分でその数字を口に出して、初めて気付いた。そうだ、今日は、僕の。 リナリーはコムイが目を見開いたのを見ると、嬉しそうに頬を緩める。 「よかった。兄さん、自分の誕生日忘れてるんじゃないかって心配だったの。私が覚えているのに兄さんが覚えてないなんて哀しいもの」 「普通逆じゃないのかい?」 「ううん、これでいいの。だって私だけが兄さんが生まれてきたことに喜びを感じてて、兄さんはそれを重要視してないなんて虚しいじゃない? 誕生日はね、ふたり以上でお祝いするから誕生日なのよ」 リナリーは心底幸せそうに笑う。自分の誕生日はもう4ヶ月も前に過ぎているのに、自分の誕生日じゃなく兄の誕生日で、とてもとても幸せそうに。コムイは自分の中に優しく甘い花の香りのような何かがふわりと広がるのを感じた。きっとこの感情を、しあわせと呼ぶのだろう。自分の誕生日を自分以外のひとが、しかも愛しい妹が、自分の誕生日というわけでもないのに、むしろ自分の誕生日よりも幸せそうに祝ってくれるこの瞬間を幸せと呼ばずに他のどの瞬間を幸せを称すればいいのだろう。 コムイはゆっくりと手を伸ばし、リナリーが淹れてきてくれたコーヒーを一口飲んだ。口の中に広がる、糖味のまったくないブラックコーヒーの香りと風味。まだ淹れて十分も経っていないそれはまだまだ温かく、全身に優しい焦がれるような温もりが広がる。コムイはそっと深呼吸をした後、ずっと微笑を浮かべているリナリーの顔を見た。 ここで誕生日を過ごすのは何度目だろう、とふと考える。 まだまだ幼いということも関せず教団が彼女を連れ去ってから、何年経つだろう。 彼女に会いたい一心でこの教団に入り室長の地位についてから、何年経つだろう。 こうして彼女にまた笑顔で祝ってもらえるようになってから、何年経つだろう。 彼女は戦渦の中で生きている。仲間を守るために、世界を救済するために、アクマを破壊するために、エクソシストとして。思うだけで鳥肌が立つ思いをするのだが、彼女を含むエクソシストは、いつ任務地でその命を散らせるかわからないのだ。人間はいつ命を失うか、誰にもわからない。だが彼女達は他の人よりも不安定な命をその身に宿している。 それでも彼女はここにいる。生きた温かい命を、まだきちんとその身に宿して。彼女はここに居る、自分に触れている、すぐ側にいる。何度ここで、白い室長の団服に身を包んだ自分の誕生日を、黒いエクソシストの団服に身を包んだ彼女が祝ってくれたかはわからない。毎年毎年、任務中だとしても彼女は必ず祝いの言葉を言ってくれた。 そのたびに思う。もしもこれが、最後だったら。 これから先、また6月13日を迎えても、彼女がここにいなかったら。この世に、いなかったら。 その鈴の鳴るような声での祝いの言葉をもらうこともなかったら。そうやって笑ってくれなかったら。 唯一血の繋がった肉親である彼女が、この世界から消えてしまったら。 「………リナリー」 「なぁに?」 「……また来年も、祝ってくれるかい?」 子どものような問いだと自分でも思う。そんな約束、守れる保障も彼女にはないのに、それをわかっていて訊いた。大分年は離れているのに、精神年齢だけはいつまでも子どもだ。10以上も離れたリナリーの方が、きっと精神的には大人だろう。それでも彼女はそんな自分を見捨てず、むしろ慕ってくれている。 リナリーは一瞬きょとんとしたが、すぐにまた笑った。 「当然よ。私は兄さんのために戦ってるんだもの」 彼女は自分を安堵させるのも上手だ。 「ね、兄さん」 「なんだい?」 「私ね、兄さんの妹として生まれてきて、すごく幸せだと思っているの」 暗い碧を少しだけ流し込んだ闇色の瞳が、キラキラと輝いてコムイの瞳を見上げる。 「兄さん、私の兄さんとして生まれてきてくれて、本当にありがとう。いつまでも大好きよ」 そういって明るく笑った笑顔が眩しすぎて、声を出すことを一瞬忘れた。慌ててそれは僕の台詞だよ、と返せばさらにリナリーは嬉しそうに笑う。周りの空気までもが一気に華やいだ。 欲張りだってわかっている、わかっているけれど、神様どうか彼女を守ってあげてくれませんか。僕の持つものなら全てを犠牲にしてもいい、だからどうか彼女に、リナリーに、茨の運命の中を歩いてきた彼女に、どうか、どうか、 (07.06.13) (Happy birthday Komui!!) |